「ウイグル人に何が起きているのか」福島香織 PHP新書 2019年
共同通信は,ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)がウイグル族に対する大規模監視システム「一体化統合作戦プラットフォーム」(IJOP)運用の指示を記した中国当局の内部文書入手し、内容を公表したと報道した。(2019年11月25日)中国当局はただちに「フェイクニュース」と否定した。然し人工知能による顔認証など駆使した恐るべき情報収集や民族文化を抹殺する運営方針など、本書が指摘した事実が図らずも立証された。
苛酷な対ウイグル政策は「泣く子も黙る三大酷吏」陳全国(2016年8月より新疆ウイグル自治区書記、17年政治局委員)によって発案された。陳はチベット族弾圧でその腕を買われ書記に任命された。その内容とは次のようである。①新疆全域に7300か所もの安全検査ステーションを設置、②脱過激化条例の施行(17年4月1日)、③職業技能教育センターの設置(18年秋、これは強制収容所で200万人が収容されている)、④パスポートの回収、⑤社会信用システムのスコア制度実施(基礎点100でウイグル人であるだけで-10ポイント)、⑥所持している携帯に監視アプリのダウンロードの強制、⑦強制健康診断による血液・DNA・虹彩・指紋の採取(すでに3600万人のサンプル収集)何故このような内部文書の内容が明らかにされたのか。まずその背景たるウイグル族の苦難の歴史を知らねばならない。
(ウイグル族とは)現在中国で55の少数民族の一つであり、新疆には1002万人(2009年自治区政府統計)が居住する「ウイグル族」。彼らはいかなる人達なのか。ウイグルとは彼ら民族の自称であり、日本ではウイグル人やウイグル民族と呼ばれるテュルク系の人々である。その起源はモンゴル高原から南下してきたテュルク系遊牧民族の回鶻と従来からタリム盆地のオアシスに住んでいた印欧語族に属する人々が混血・融和して形成されたものである。10世紀中葉カラハン朝がイスラム教を受け入れたことによりこの地域のイスラム化が進んだ。16世紀頃には盆地のイスラム化が完了し、現在のウイグルに見られる社会や文化が形成された。字義通りの東トルキスタンの成立である。
(東トルキスタンの政治的独立は喪失された)清朝の乾隆帝によるジュンガルとヤルカンドハン国の征服によって1759年には東トルキスタンは清朝の領土となった。新たな境域という意味で「新疆」と名付けられ大清国の版図に組み込まれた。然し清朝の統治は「回部」と呼ばれたタリム盆地のオアシスには少数の軍事力を駐屯させ、民生と徴税には現地人の有力者を官吏として当たらせるという比較的微温的なものであった。各オアシスの駐屯基地は城市の外に設けられ、現地人との接触は避けられていた。
(最初の試み)然し19世紀に入ると清朝の力が衰え、太平天国の混乱が新疆にも飛び火した。回民とムスリムの反乱が新疆全土におよんだ。これに乗じてコーカンドハン国の将軍ヤクブ・ベクが天山以南を征服しムスリム政権を樹立した。漢人から独立して、東トルキスタンにテュルク系ムスリム国家を樹立する最初の試みであったが短命に終わった(1865~77年)。まだ近代的な民族意識に立脚したものではなかった。清の再征服後新疆省が設置された。その統治は、現地の有力者の介在なしには実行することが出来ない脆弱なものであった。そして同化政策の試みが、逆に住民の民族主義的覚醒を促した。
(2次の独立運動)辛亥革命が勃発すると新疆はウルムチ地区の知事楊増新の掌握するところとなった。楊は新疆を中国本土と遮断することに腐心し、あたかも独立王国の観を呈した。後継者の金樹仁や盛世才も同様であった。一定程度の安定を果たしたが、その結果住民の民族的自覚は更に進んだ。彼らは従来民族名を持たず異教徒に対しては「ムスリム」と自称していた。ソ連留学生を中心に、1921年アルマ・アタの会議で、古代の民族名「ウイグル」を自らの民族名にすることを決定した。この民族的高揚を背景に2次の独立運動が起こり、東トルキスタンにテュルク系民族の国家を樹立した。すなわち「東トルキスタン・イスラム共和国」(1933年)と「東トルキスタン共和国」(1944年)である。然しいずれも短命に終わった。前者は英国インド政庁の隠然たる支援はあったが、同じイスラム教徒の回族すら糾合できなかった。後者はソ連赤軍の強力な支援があり1万5千人の民族軍を有し軍事的にも優勢であった。然し大国間の取引(モンゴル独立承認と新疆の引き渡し)により解散を余儀なくされた。1949年中共政権成立後旧共和国幹部は謀略的に抹殺され、民族軍は人民解放軍に編入された。かくして「東トルキスタン共和国」の名は回避され「三区革命」として中国革命の一部とされた。
(中国の植民地に)中共政権は人民解放軍と生産建設兵団(屯田兵)の武力を背景に土地制度の改革(1952年)や、イスラム法廷の廃止などを行い55年10月新疆ウイグル自治区を成立させた。その統治は徹底しており、東トルキスタンは中国の植民地になった。中共は政権獲得前は、領域内の少数民族の自治を認め、中国から独立して国家を樹立する権利を認めていた(1931年瑞金ソビエトの憲法大綱)。然し解放後は「多民族国家の少数民族に自決権は適用されない」と前言を翻した。政治的独立は喪失されたのである。
ウイグル族の独立への模索は続いたがいずれも不発に終わった。東西冷戦崩壊期のカザフやキルギスなどのテュルク系民族国家の誕生は新疆の独立運動を活発化させた。①バリン郷事件(1990年4月)、②グルジャ事件(1997年2月)、③7・5事件(2009年7月)の3大事件である。中国政府ははいずれも東トルキスタン独立運動(ETIM)の引き起こしたとし、テロとの戦いを正当化している。
その後のETIMが引き起こしたとされる「テロ」事件については本書の記述が詳しいが、それらは国際社会の注目も低く報道されることも少なかった。潮目が変わったのはトランプ政権の対中国政策の変更である。米中貿易戦争の白熱化を焦点とする米中新冷戦構造の深化がウイグル族の「人権侵害」をあぶりだしたのである。ペンス副大統領は「数十万人、もしくは数百万人の規模でイスラム教徒のウイグル族を再教育施設という場所に収容している」(2018年7月20日)と講演で非難した。また同年8月超党派の議員が、陳全国ら7人の中国当局者に対し、米国内の資産凍結や入国制限を求める書簡をポンペイオ国務長官に送った。まさしく「ウイグル問題」は米中新冷戦のカードとなったのである。このような文脈の中で「ウイグル弾圧」を指示する内部文書が公表されたのである。
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