「中国玉器発展史㊤」 常素霞 科学出版社東京 2019年
従来新疆産のホータン玉が中国本土にもたらされたのは、殷の婦好墓(BC1200年頃)出土の玉器が最初と思われていた。然し本書には、それは新石器時代に遡れるという興味深い指摘がある。すなわち臨潼の姜塞仰韶文化遺跡(BC3000~2500年)からホータン玉に似た玉飾が発見されている。ただし玉材の分析が必要である。確実なのは斉家文化期(BC2400~1900年)における玉器の大量の出現である。この頃新疆から中原への輸送ルートが開かれたことを暗示している。
19世紀末、フランスの鉱物学者ダモーラが中国の玉材は軟玉(透閃石)と硬玉(輝石)に分類できるとしたが、ホータン玉(軟玉)と翡翠(硬玉)だけが本当の中国の玉だと考える学者もいる。今から1万8千年前の旧石器時代後期の遺跡(北京周口店遺跡の山頂の洞窟)から、玉石器材(蛇紋岩、瑪瑙、水晶など)の道具が発見されている。そして新石器時代に入ると、透閃石の玉が出現する。透閃石はホータン玉と同じ鉱物に属するが、同じではない。その産出地は限られる。紅山文化(BC4000~3000年)の玉器は東北の岫岩細玉溝の「河磨玉」である。また艮渚文化(BC3500~3000年)の玉材の供給地は江蘇省の溧陽県小梅嶺村と句容市茅山の2か所である。地元の玉材がほとんどだが、前記のようにホータン玉の可能性のある玉材の出土も指摘されている。斉家文化期(BC2400~1900年)になるとホータン玉で制作した玉器が次第に多く出土するようになった。新疆から中原への玉石輸入ルートがこの時期初めて成立したことを示している。そして殷虚の婦好墓(BC1200年頃)である。755点の大量の玉器が出土しているが、その大半はホータン玉であり、その他河南省の南陽玉、東北の岫岩である。とくに玉羊頭、玉鳥、玉牛の3点は、ホータンの籽玉(しぎょく 河川の水で長年研磨された卵状の玉)である。
「史記」の記載によれば、先秦時代からすでに「崑崙の玉」が中原にもたらされていたことが知られている。 誰が玉を中国本土に運んだのか。「禺氏の玉」と称されるが、禺氏すなわち月氏である。「漢書」西域伝は「(鄯善)国…は玉を出す」と記すが、楼蘭は玉を産出しない。楼蘭に行けば玉を買うことが出来るという意味である。彼らは直接ホータンから運んだのではなく後に楼蘭と言われた場所から持ち帰ったのである。長澤和俊によれば、BC1500年頃には楼蘭にすでに交易マーケットが建設されていたという。そこは中国本土に向けて砂漠を横断する際の、最後に水を得られるオアシスであった。建設の時期は、斉家文化期出土の例からもう少し遡れる可能性がある。楼蘭は当初は市場と隊商宿だけのささやかなオアシスであったかもしれない。やがて城壁などの防御施設が設けられ城郭都市に成長した。市場の管理者は王になった。この都市の住民は小河墓遺跡のミイラの子孫たちである。彼らはBC3300年頃黒海地方のステップからやってきた印欧語族の一派トカラ語派の人たちである。時間と空間の長い旅路の果てに、彼らが「クロライナ」と呼んだ楼蘭にたどり着いたのである。
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