2014年12月17日水曜日

再び「李柏文書」について~大谷探検隊外伝②

  「大谷光瑞とスヴェン・ヘディン」 白須浄眞 勉誠出版 2014年

 大谷光瑞とスヴェン・ヘディンは20世紀初頭のある時期急接近した。それはあの「李柏文書」の発見にも直結するという。本書の編者白須浄眞はその急接近の背景を当時の国際政治社会の解析を通じてスリリングに解き明かす。
 「ラサ条約(1904年)」を改訂した「チベットに関する英清条約(1906年)」、それに続く「英露協商(1907年)」のチベットに関する取り決めは、当時チベットを探検中であったヘディンを苦しめるものであった。そのヘディンを外交の場まで出かけて支援したのが、西洋の探検家たちではなく、日本の探検家大谷光瑞であった。光瑞はこのため1907年4月北京に乗り込み、ヘディンのため、西蔵域内での探検を可能とする清国護照(パスポート)の取得さえ試みたのだ。それ故ヘディンは幾多の西欧諸国の招聘を断り来日(1908年11~12月)したのである。そしてヘディンは「謝意」として楼蘭(LA遺址)の正確な位置(経緯度)を光瑞に伝えた。光瑞はただちに12月13日この情報をトルファンにいた橘瑞超に打電した。当時新疆には電信線が張り巡らされていた。暗号文によれば楼蘭の位置は「東経90度、北緯41度」とある。実際のヘディンの観測値は東経89度50分55秒、北緯40度31分34秒であるからほぼ正しい。まさしく「李柏文書」は「見出されるべくして見出された文書」であったのである。
 本書の白眉は「李柏文書」の出土地を確定した「第二次大谷探検隊・橘瑞超の楼蘭調査とその波紋」(金子民雄)と「李柏文書」の官文書としての性質を明らかにした「西域長史文書としての『李柏文書』」(荒川正晴)の2論考である。
「李柏文書」の出土地「文書」の出土地がLKではなくLAであることはすでに片山章雄によって指摘されてはいた。然し金子論考において1968年6月21日に瑞超本人が直接金子にLA遺址内での発見を告げていたことが明らかにされる。「『李柏文書』はヘディンの発見した例の粘土の塔(スタインの仏塔)近くの砂地を掘っていたとき、丸められた紙屑として出土したのだと、粘土の塔の写真を示されて、はっきりと説明された」(本書P207)瑞超はその年の11月に死去した。2002年瑞超の子息橘照嶺が金子に知らせた手紙では「父はその後『李柏文書』は三間房から見つけたのだと語っていた」という。これは瑞超がスタインに語った「セリンディア」の記述とぴったりと一致する。そしてこのおりの瑞超とスタインの面談のメモがスタインの故郷ハンガリー科学アカデミーで見つかった。
(官文書としての「李柏文書」)「文書」は従来西域長史李柏が自ら筆をとって書いた、あるいは草稿(下書き)であったため破棄されたというような誤解がまかり通っていたが、荒川はこれを否定する。前涼の一出先機関の長である西域長史李柏には、前涼の統治下にない西域諸国の王に通常の「通信用官文書」を送る権限はない。そこで書簡的な官文書を採用したのだとする。そしてこれは西域長史府において秘書的役割を果たす門下の主簿・録事掾が作成した原案そのものである。古文書学的には「正校案文」として発出元に留め置かれた文書である。原案の謄本を作成して西域諸国の王に送ったのである。
 金子は「あとがき」で「今どき、学派などとっくに消え失せてしまったものと思っていた」が、白須によって後継者が着実に育てられており(広島大学大学院教育研究家の院生ら)、本書の刊行はその成果であるという。「忘れられた大谷探検隊」の実相を近・現代史の中に位置づける白須らの試みは続くのである。

2014年12月7日日曜日

核の砂にまみれた楼蘭

   「核の砂漠とシルクロード観光のリスク」 高田純 医療科学社 2009年

 中国は新疆省楼蘭周辺地区で、1964年から1996年までにのべ46回の核爆発実験を行っている。総威力22メガトン、広島原爆の1375発分に相当する。1980年までは主に空中・地表での爆発、1982年から1996年は地下実験が実施された。とくにメガトン級核爆発では、著者の計算によれば19万人が中枢神経死などで急性死亡し、129万人が急性放射線障害などで甚大な健康障害になっているという。
 核実験場は楼蘭地区のどこにあるのだろうか。旧ロプ湖床だという説があるが、これは違う。楼蘭遺址(LA)からコンチェ河に沿ってボストン湖に向かう北西方向の長径165キロ、短径100キロの楕円の範囲の砂漠地帯に核実験場は集中している。南方(すなわちLAに近い)ではメガトン級の大型核爆弾、北方では中小型爆弾を使用している。
 1980年NHKのシルクロード取材班はメガトン級地表核実験が行われた楼蘭地区の砂漠を巡っている。3月29日敦煌莫高窟を出発し、4月8日809高地で新疆部隊に引き継がれ、3日後ロプノールがあるとされる720高地に到着。翌13日北方80キロはなれた地点(楼蘭の女王撮影のため)往復。一旦720地点に戻り、北西50キロの楼蘭遺址(LA)に移動した。楼蘭の女王ミイラ地点と楼蘭遺址を結ぶ直線から西側地域に複数の核爆発跡地がある。NHK取材班は、4~0.6メガトン核爆発地点の近傍をめぐっている。彼らの全身は核の砂が放つガンマ線で、10日間も照射され続けた。さらに風が舞い上がって核の砂塵が肺に吸着した。その取材で白血症及び肺ガンなどの健康リスクを負っている。
 また1996年7月の最後の核実験が行われた前後にこの地域に潜入した日本人がいる。西燉
(仮名)である。秘かに敦煌を出発してコンチェ河をさかのぼった。「孔雀河は紅葉の季節が終わりかけていて、春の緑の葉をつけていた梧桐の樹はすっかり黄色くなって、冷たい微風に揺らぎ、冬の訪れを感じさせている。そこは軍事基地跡だった。六○を越える全ての建物は巨大な力で吹っ飛び恐ろしい様相を呈していた。原爆地上実験の際のそれである。」(「砂漠の果ての楼蘭」 西燉
朝日ソノラマ 1997年)
 中国の核実験は1972年の日中国交回復以降も33回に及ぶ。72年以降96年までに27万人の日本人がシルクロード観光に訪れている。核爆発を繰り返す危険な期間に旅行していた。核ハザードはそれ以降も残る。97年から2008年までにさらに57万人の日本人が同地区を訪れている。とくに楼蘭地区の危険度は高い。著者によればシルクロード観光の核リスクは以下の五つである。
①核爆発に巻き込まれて即死
②核爆発を目撃し急性放射線障害で死亡
③核爆発を目撃しないが、核爆発直後の砂を被り急性死亡
④急性障害とはならないが核の砂を被り後障害である白血病、固形ガンを帰国後発症する
⑤妊婦が核の砂を被り、死産・流産・奇形の出産など
①から③までは行方不明者となり帰国していない。97年以降の旅行者でゼロ地点に接近した場合は④、⑤の可能性がある。1994年に食道ガンを発症した楼蘭研究の第一人者長澤和俊はその顕著な例である。1988年の楼蘭遺址踏査をはじめ、数多いシルクロード踏査が原因である。
 核リスクは旅行者だけにとどまらない。地元住民とくにウイグル族の被害はさらに深刻である。楼蘭地区で行われた3発のメガトン級核爆発の被害は核の砂による急性死亡19万人(A地区 風下245キロ)、白血病死などの急性症は129万人(B地区 風下450キロ)に及ぶ。さらに3万5千人以上の死産・奇形などや3700人の白血病、1万3千人以上の甲状腺ガンの発生が推定されるという。
 以上は著者の推定である。然し著者のプロジェクトチームは2012年8月に13日間かけてタリーム盆地の周辺で隠密裏に核ハザード調査を実施し、推測を裏付ける調査結果を得ている。もちろん著者本人は参加していない。現地警察によって指名手配されているからである。

2014年11月7日金曜日

「盧溝橋事件」の謎~昭和史の謎を追う⑦

  「盧溝橋事件の研究」 秦郁彦 東京大学出版会 1996年

 1937年(昭和12年)7月7日夜、支那駐屯軍の第1連隊第3大隊第8中隊(清水節郎中尉)は、「マルコポーロ橋」として有名な盧溝橋付近で夜間演習中に、2回の銃撃を受けた。第3大隊戦闘詳報によれば22時40分頃数発(第1次銃撃)、23時頃10数発(第2次銃撃)背後より発射されている。仮設敵の軽機(空砲)発射と第1次銃撃、集合ラッパと第2次銃撃はいずれも因果関係があったと清水中隊長手記は記述している。兵1名の行方不明(のち帰還)があり、清水中隊長は、ただちに一木大隊長(第3大隊)に報告。大隊長は牟田口連隊長(第1連隊)の命令下に、大隊主力を現場に出動させた。これが日中戦争、当時は北支事変の開幕である。
 然し何故北京から近いこの盧溝橋付近に日本軍はいたのか。まずこのことから説明しよう。
支那駐屯軍の駐兵権は北清事変最終議定書(1901年9月7日)に根拠を持っている。北京に列国公使館区域を設定するとともに、外国軍隊の平津地区における無期限駐屯を認めている。もう一つの根拠は1902年7月の天津還付に関する列国との交換公文。外国軍隊に鉄道沿線両側2マイルの範囲で犯罪捜査や処罰権を与える「弾圧治罪権」を認めている。
(駐兵の規模)1901年4月の列国司令官会議で、1万2千人(のち2万人)の総枠と国別割り当てが合意された。11ヵ国が駐兵権を得たが、ベルギー、スペイン、オランダは行使せず、のちロシア、ドイツ、オーストリアは途中で放棄した。日本(2600人)、イギリス(2550人)、アメリカ(150人)、フランス(2600人)、イタリア(950人)の5ヵ国が行使した。(ちなみにドイツは2600人であった)ただし実際の兵力は割り当てより少なかった。(日本は1910年当時1149人、英は747人など)その後各国は儀礼的役割しか果たさない駐屯軍になったが、日本軍だけが実践部隊に近い特異な性格を保持した。
(日本軍の増強)日本軍は1911年支那駐屯軍に改称したが、兵力は永く千人規模であった。1936年4月広田内閣は駐屯軍の増強を閣議決定。改編前(1771人)を一挙に3倍の5774人に増加した。司令官を親補職の中将に格上げ。部隊を1年交代から永駐制とした。歩兵2個連隊、砲兵連隊、戦車隊を加えた特別旅団編成とした。そして新編第1連隊の第3大隊が北京近郊の豊台に駐屯した。
(清水中隊の編成)歩兵第3大隊は第7中隊(青森歩兵第5連隊より抽出)、第8中隊(秋田歩兵第17連隊より抽出)、第9中隊(山形歩兵第32連隊より抽出)の3個中隊編成であった。そして問題の第8中隊の編成は新歩兵操典による新編成であった。すなわち小銃3個分隊と擲弾筒1個分隊の編成。小銃分隊は15人(小銃13、軽機1)、擲弾筒分隊は15人(小銃15、筒4)、小隊長連絡2人。したがって1個小隊は小隊長以下63人。1個中隊はおよそ200人である。強固なソ連軍陣地を突破するための編成で、夜間訓練に励んでいた。
 盧溝橋発砲の犯人として著者は次の諸説をあげている。A日本人説、B西北軍閥説、C藍衣社説、D中国共産党説、E偶発説。そしてA~Dは根拠が薄く、第29軍金振中指揮下の正規兵による偶発説が最も確度が高いとしている。「金振中回想」によれば
①部下の第11中隊を永定河の堤防に配地していた。
②7月6日何旅団長より219連隊に対し、日本軍の行動に注意、もし発砲してきたら必ず断固として反撃せよとの命令が来た。大隊はかねがね日本軍の挑発行動に憤慨していたので、決死で抵抗する意思を確認しあった。
③同日、日本軍の演習状況を視察したのち金は部下の各中隊に戦闘準備を指令し、日本軍が中国軍陣地の百米以内に侵入したら射撃せよ、と指示した。
永定河堤防に配兵していたのは決定的証言であり、夜間の千米(堤防と仮設敵の距離)は至近に感じやすく、「演習を目前に眺め、敵意と恐怖に興奮していたであろう堤防陣地の下級将校か兵士が、指示されたとおりの状況下にあると判断し、発砲するのは自然の成り行きだった」そして「その発砲者は単にナシュナリストとして抗日敵意に燃えた兵士であったかもしれないが、沈忠明のような中国共産党の秘密党員ないしシンパが混じていた可能性もあろう」(本書P180)と著者は推測している。29軍には多数の中共秘密党員が潜入していた。軍参謀副長や、団長(連隊長)3名、師参謀長2名。とくに現場の37師の110旅長何基澧はシンパに加わっていた。
 日中両軍の戦闘と現地での停戦協議は7月8日から11日まで同時併行的に続いた。そして11日20時には現地停戦が成立した。10万人の29軍に対して支那駐屯軍は5千余にしかすぎない。
北平の第1連隊は千余人の兵力で、保護する4千余人の邦人をかかえていた。現場の一木大隊は小兵力で周囲を中国軍に囲まれていた。とくに何基澧は日本軍への攻撃を画策していた。日本政府は現地停戦協定成立の寸前に華北派兵を声明した。関東軍から2個混成独立旅団、朝鮮軍から1個師団、内地2個師団。これは中国軍も同様だ。すでに中央軍が大挙北上を開始していた。そして7月17日蒋介石の「最後の関頭声明」として知られる「廬山声明」が出された。かくして支那駐屯軍と冀察政権(29軍)の局地紛争は日中全面戦争に燃え広がった。7日の「一発」から11日の「現地停戦協定」、その細目の成立(19日)を経て、28日には北京ー天津付近の29軍に対する総攻撃が始まった。中国側については「盧溝橋事件」の本質に対する「誤解」と日本軍の戦力に対する過小評価があった。また日本側にとっては武力の「威嚇」か「一撃」で中国は屈するはずだという「誤算」があった。「暴支膺懲」と「抗日救国」という空疎なスローガンが独自ノダイナミズムで自動し始めたと著者はいう。

2014年10月22日水曜日

幻の湖~ロプ・ノールの謎

   「湖が消えた ロプ・ノールの謎」 石井良治 築地書館 1988年


 1934年スウェン・ヘディンはクルック・ダリヤ、クム・ダリヤをカヌーで流れ下り、出来たばかりの新ロプ・ノールに到達した。かつて(1900年)歩いてたどったクム・ダリヤの河床に水がもどっていたのである。そして30年前に唱えたロプ・ノールは1500年を周期に南北に移動するという「さまよえる湖」説を鮮やかに実証した。
 ヘディンは、ロプ地方のような平坦な砂漠地帯では、河水はきわめてわずかな地表の変化にでも対応し、流路は敏感に変わると考えた。河道の変遷は流水の堆積作用と風蝕によって起こる。楼蘭遺址から出土した漢文紀年文書の下限によれば、330年頃ロプ・ノールに流入していたタリム河は、堆積作用の結果、流路を南方にかえてカラ・ブラン、カラ・コッシュを形成したとした。そして今後カラ・ブラン、カラ・コッシュの両湖には堆積物が沈殿しつつあり、一方ローラン方面の砂漠は風蝕が進んでいるので、川水は再び東流し、かつての旧湖床にもどると予言した。ロプ・ノールは南北に移動する「さまよえる湖」だとした。その予言は見事に実証されたかに見えた。
 この「さまよえる湖」説が市民権を得るまでには長い「ロプ・ノール論争」があった。中国では黄河の源流と考えれれていたロプ・ノールはタリム河が東流した末端、クルック・タグの南にあると考えられてきた。1863年刊行の「大清一統図」にもそう描かれている。1876~7年ロシアのプルジェヴアルスキーはタリム河を探検し、カラ・ブランがタリム河の末端であることを確認した。タリム河は東流せず、南流しており、カラ・ブランは中国古地図のロプ・ノールより1度南に位置していた。プルジェヴアルスキーはカラ・ブランこそロプ・ノールであると主張した。これに対しドイツの地理学者リヒトホーヘンは、中国の古文献によればロプ・ノールは鹽湖でなければならないとした。カラ・ブラン(そしてカラ・コッシュ)も淡水湖であった。ロプ・ノールはもっと北方にあり、東流するタリム河の一支流を見落としていると批判した。その後プルジヴアルスキーの弟子コズロフとリヒトホーヘンの弟子ヘディンが論争に加わった。この論争に終止符を打ったのがヘディンの1934年クム・ダリヤ探検であった。
 然し、ロプ・ノールは「さまよえる湖」ではなかった。中国科学院のロプ・ノール調査(1981~2年)結果によれば、ロプ・ノールの水はすっかり涸れてしまっていた。「1959年の調査では、煙波ひろびろたゆたう湖面に水鳥が群れ遊び、絵のように美しい景色で、人の身の丈ほどの大魚を捕えた」のに、この変わりようである。原因は気候の変化などによる自然の働きではなく、人為的に水流が分断されたためである。1952年ボストン湖から流れ出るコンチェ・ダリヤの水を南へ流すためのダムが構築されたのが、ロプ・ノールが干上がった直接の原因である。夏訓誠隊長は調査結果を次のように述べている。
①ロプ・ノールの最低部は778米、カラ・コッシュ最低部は788米。ロプ・ノールの水がカラ・コッシュに逆流することはない。
②タリム河や孔雀河がロプ・ノールに流れ込む際の水には、泥や砂が少ない。土砂が河を埋めることはない。
③涸れた湖底は、硬い岩塩層でおおわれているので、風の浸蝕によって新しいへこみが作られることはない。
④ロプ・ノール湖底をボーリングした結果、各地層からガマ、ハマスゲなどの水生植物の胞子が発見された。このことはロプ湖がずっと水をたたえ、湖水が移動しなかったことを語っている。
⑤堆積物に含まれる炭素を用いて年代測定すると、深さ1.5米の堆積物は3600年間かかって湖底に積もったことがわかった。これは湖底の沈殿作用が3600年間進行したことを物語っている。(夏訓誠報告「人民中国」1983年12月号)
著者はこの調査報告は必ずしも、「さまよえる湖」説を積極的に否定する直接的証拠にはならないとしている。例えば④のボーリング結果にしても、「地層が下から上までとぎれることなく連続して堆積したのであれば、湖底はずっと水におおわれていたことになります。しかし何層かの地層があるということは、層と層の間にとぎれた期間があったということは明らか」(本書P145)である。湖底はある時は水をたたえ、ある時は水が涸れて地表に出ていたかもしれないとしている。
長澤和俊によれば内陸アジアの鹽湖は、ガシュン・ノール(居延海)やバルハシ湖など大湖が二つに分かれたものも少ない。ロプ・ノールもそうであるという。プルジェヴアルスキーが探検した頃は、たまたま河水の少ない時期で、タリム河は東流していなかった。水量豊富な時期は、昔のように最も低い地域に水は流れていた。ロプ・ノールは乾燥化とともに二つに分かれた。その正体は「さまよえる湖」ではなく二つに分かれたロプ・ノールの末路であったと。(「楼蘭王国」長澤和俊 徳間文庫 1988年)
 その後のロプ・ノールについてふれておこう。1998年1月6日付の新華社電は次のように伝えている。現在,塩殻に覆われた砂漠になっていて「地下には死海と同様の巨大な塩湖があることが判明した」とある。浅い所で地表から2米掘れば到達する地下塩湖は、面積1300平方キロに及び、水深60米、塩分濃度は35%で海水の十倍となっている。また1997年10月、東大山岳部OBなどの楼蘭探検隊(増田昌司隊長)が四輪駆動車と徒歩でトルファンからタリム盆地を南下してロプ・ノール旧湖に到達。そして現在乾燥湖になっているロプ・ノールに小規模な湧水を発見した。(「冒険物語百年」武田文男 朝日文庫 1999年 P151)
なおロプ・ノール旧湖床が中国の核実験場になっている説があるが、これは誤り。場所は近いが、楼蘭遺址西北の砂漠地帯である。これについては稿を改めて詳述する。

2014年9月23日火曜日

大空のシルクロード~昭和史の謎を追う⑥

  「満州航空の全貌」 前間孝則 草心社 2013年

 第二次世界大戦前の一時期、日本には「欧亜連絡航空路」構想というのがあった。東京と満州の新京、ドイツのベルリンを中央アジア経由の空路で結ぼうというものである。空のシルクロードとでもいうべき1万2千キロの日独航空路の開拓構想である。この構想を強力に推し進めたのが満州航空の永淵三郎である。満州航空はその成立も含め関東軍の強い影響下にあった。関東軍の「中央アジア防共回廊」工作ともあいまって、実現するかに見えたが、日中戦争の勃発などにより頓挫した。
 関東軍は陸軍中央から華北工作への関与を抑制されたが、内蒙工作に関しては認められていた。関東軍の欲求のはけ口は内蒙から更に西へ拡張した。寧夏、甘粛、青海、新疆へと延び、アフガニスタンでドイツと連絡して防共回廊を建設しようという欧亜連絡航空路計画にのめり込んだ。陸軍中央や外務省は関東軍の「赤化防止」の強調を単なるイデオロギー問題としか受け止めていなかった。そのため日中の外相会談で日中共同防共や日中航空路交渉を主要課題としたことは、その主観的意図(関東軍の華北への関与の防止)とは逆に、欧亜連絡航空路を設定して中央アジアに防共回廊を建設しようという関東軍の後押しをする結果となった。
(欧亜連絡航空路の内容)交渉は民間ベースで進み、1936年12月18日満州航空・恵通航空とルフトハンザの間で関係国政府の許可を留保するという条件つきで「協定」が締結され、翌年3月20日に日本政府は閣議で承認した。協定によれば航空路は「伯林ーロードスーバグダッドーカヴールー安西ー新京ー東京の定期航空路」(第二条)である。第四条ではカヴール以西はルフトハンザ、以東は満州航空が航空路の整備と試験飛行の責任を持つとある。また第六条では開始時期を1938年初頭の3ヵ月と定めている。
 当時の航空技術では、新京からカヴールまで直行できる航空機はなく、中継飛行場が必要であった。当初安西に中継飛行場を置く予定であったが、満州航空の使用するスーパー機の航続距離
(1200キロ)は短かった。そのため包頭に飛行場を整備し、アラシャン、オジナに前進補給基地を設置する必要があった。
 1936年9月関東軍はアラシャン(定遠営)に飛行場を整備した。更に11月23日第1次輸送隊が500箱のガソリンを陸路で搬送した。同年9月15日満州航空3名がオジナに入り、25日には特務機関員6名も陸路で到着した。そしてアラシャンーオジナ間の定期航空(週1便)を開始した。また関東軍は特務機関員大迫武夫を青海省の馬歩芳の下に送り、回教軍閥の懐柔工作を進めていた。然しこの時綏遠事件がおこり、その失敗により関東軍は前進拠点を喪失し、アラシャン・包頭の飛行場は使用不能になった。
 一方日独防共協定交渉は進展し、国策レベルでは航空路構想は具体化していた。その成否のカギは安西飛行場の確保にあった。1937年2月の時点でも馬歩青は「飛行場の設定並びに飛行機の乗り入れ」に異存のないことを関東軍に確約していた。そして国際航空(満州航空特航部を改組)は1937年5月ドイツより航続距離3600キロのハインケルHe116型2機の購入を決めていた。カヴールから包頭まで無着陸で飛行できた。パミール高原の最低部であるワハン回廊の峠(5600米)を安全に越える性能を持つ機種として、He116型機を高度仕様にかえ、8席の客席を持つ旅客機に改造するという仕様で発注していた。だが大きな手違いがあり、実際に納入されたのは(1938年4月23日羽田到着)ルフトハンザが南米線の郵便輸送機用として設計されたもので、上昇限度は4300米に過ぎなかった。パミール高原を越えることは不可能であった。何故この空域を「乃木号」「東郷号」と命名された2機が一度も飛ばなかったのかの疑問が氷解する。石川島播磨で永年ジェットエンジン設計に携わった著者ならではの鋭い探求である。
そのようなミスは別にしても、盧溝橋事件(1937年7月7日)の勃発に始まる日中戦争の全面化で、「欧亜連絡航空路」構想は挫折する。「協定」のいう「関係国の許可を留保するという条件つき」の物質的基礎そのものが失われたからである。
(後日譚
日中戦争の全面化によって、消えたのは「構想」だけではない。敵中に孤立して撤退できなかったオジナの特務機関員と満州航空社員、そして行方不明となった第2次ガソリン輸送隊員はどうなったのか。国民政府側の李翰園(寧夏省民政府長)の手記によれば。7月7日夜李は馬歩康の部隊とともに日本人10名を逮捕し、20日粛州に送った。また寧夏省磴口県で大2次輸送隊の3名を補足した。合わせて日本人13名は蘭州に送られ、日本航空隊の蘭州爆撃の報復として10月11日蘭州城安定門外で処刑された。この処刑の様子はドイツ人カトリック司祭が目撃している。第2次輸送隊の荷物には相当数の武器類(小銃、機関銃、弾薬)が含まれていた。これは関東軍より馬歩芳への贈り物であったという。実際馬はそれをすべて回収している。またこのキャラバンの案内人蒙古人サンジャチャップ(大迫武夫)はからくも馬歩康に救われ、西寧に逃れた。然し後に日本人であることが露見し処刑された。

2014年9月3日水曜日

1968年のクロニクル~関学全共闘前史③

 「関西学院新聞」縮刷版 1968年より


 「43学費闘争」の敗北から新たな「6項目闘争」の幕開けまで1968年の関学キャンパスの情況はどうであったのか。そしてそれと密接に関連する兵庫県の学生運動はいかに展開されていたのか。関西学院新聞1968年を参考にして素描してみよう。
 関学全共闘の「43学費闘争」に対して学院当局は3月23日26名(退学11名、無期停学8名、停学7名)の大量処分で答えた。内訳は社会学部7名、文学部9名、商学部3名、法学部7名で、最も強硬に戦った社自治会に対して全員退学と厳しかった。ついで処分の厳しかった文闘争委の動揺は深刻であった。9名と量的にも最大で、無期停学というのは期限のない分より過酷であった。当時の学生運動に対する処分は所謂「矢内原三原則」に準拠するもので、ストライキを決議した自治会執行部(委員長)、学生大会議長、ストライキ提案者の三者であった。「教育的処分」であり形式的でもあり、反省の態度が認められれば解除するというものであった。然し関学の教授会は違った。
「4月17日、法学部教授会22日付で、7名の処分解除を発表した」(学院新聞542号 5月15日)
最も民主的と言われた法教授会は慣例に従い処分を解除した。然し社教授会はかたくなであった。「社教授4名(田中、遠藤、倉田、杉原学部長)は5月8日第一会議室で学生70名と団交。
『被処分者は学生でないから、彼らを会議に加えれば話し合わない』と拒否」(学院新聞543号 5月30日)「教育的」という配慮は微塵もない。この「論理にならない論理」は6項目闘争でも、学院当局が話し合いを拒否する時しばしば使われることになる。
一方大学生協は総代会で被処分者も総代として承認している。「5月25日第17回生協総代会は『被処分者5名を総代として認めるか』の動議を賛成多数で可決」(学院新聞543号) 
商学部・文学部で処分が解除される。商学部は全員だが、文学部は一部にとどまる。
「文学部では6/15付で無期停学2名と退学1名の処分を解除。商学部では無期停学の3名の処分を解除」(学院新聞546号 9月15日)ただし文のY全執副委員長の退学処分解除は誤りとの訂正が出る。最も右翼的な社教授会、また一部反動教授をかかえる文教授会の処分に対するかたくなな対応が、6項目闘争の火種になり、その泥沼化の大きな要因になったのである。
4.26国際反戦統一行動(神戸)
「県学連統一行動には、学院150人、神大150人、神戸商船大・神戸商大・神戸女学院など400人が結集。(中略)社会学部自治会は処分闘争に集中するとして参加を呼びかけなかった。(中略)関学反戦がこの日のデモに初めて参加した。」(学院新聞541号 4月30日)処分への対応によって反戦闘争の取り組みに差がでてきたのである。
5月30日反戦反安保を軸に神戸では
「学院・神戸外大の反帝学評70名、革マル全学連30名、社学同ML派10名の計110名がデモ。生田区総合庁舎前で神大の中核派30名が加わり、うずまきデモ」(学院新聞543号)反帝学評・革マルブロックの親密ぶりがうかがえる。
一方改選期を迎えた各学部自治会の動向はどうであったのだろうか。
(経済学部)5月29日の自治会選挙では闘争放棄の民青系に代り革マル系(425票)が当選。次点は反帝学評系(274票)。(学院新聞542号)
(商学部)5月20日の自治会選挙では、反帝学評系(487票)が前執行部の青年インター系(374票)を破って当選。総投票数1200票(42.6%)で前年より26%と大幅に上昇している。(学院新聞543号)青年インター内では「加入戦術」方針をめぐって分裂が進行。翌年3月には社青同国際主義派を正式に解散し、独自組織の国際主義学生同盟(学生インター)を結成する。関学の青年インターは他派に吸収されたりし、消滅する。
(文学部)5月21日の自治会選挙で前執行部の民青系は学費闘争からの逃亡で候補も立てられない。また文闘委も壊滅状態で各派が乱立。フロント系候補(417票)が反帝学評系(282票)、ML系(82票)、革マル系(82票)をおさえて当選。(学院新聞543号)総じて反帝学評、革マルの勢力が伸長している。とくに革マルは43学費以降、それまでの「学生会議」にかえて「関学全学闘」を名のって登場している。
9月7日関西反帝学評第1回大会
社青同解放派は大阪中之島公会堂で関西反帝学評結成大会を開催。学院、関西大、京大などから100名結集。(「資料戦後学生運動別巻」三一書房1970年)
法学部では反帝学評系候補が対立候補のないまま無投票で当選。他派は候補もたてられない。社会学部でもフロント系の執行部が確立。(学院新聞546号 9月30日)
9月21日伊丹軍事基地撤去闘争
関西地区反戦、反帝全学連(反帝学評、社学同)1000名、中核全学連200名、革マル全学連100名、自治会共闘200名、高校生など3000人が参加。新明和工業前で投石合戦、45名が逮捕。(学院新聞546号)
10月21日神戸で県学連千名が決起
兵庫県学連の約1000名が決起。学院100名、神大850名、商船大・神戸女学院など120名、神戸行動委50名。(学院新聞547号 10月31日)
11月10日大16回兵庫県学連大会
学院2号別館で150名を集めて開催。フロント派と反帝学評の対立で運動方針を出せず、役員人事のみで閉会。これが最後の県学連大会になる。(学院新聞548号 11月20日)
11月神戸港軍事使用反対闘争に全関西から千人
中核派300人、社学同100人、反帝学評80人、革マル100人、毛沢東思想40人など学生700人が参加。神大で午後3自から中核、フロント、民学同、社学同、反帝学評により別個に集会が開かれ、4時半に教養部を出発、三宮市役所前集会に合流。(学院新聞548号)もはや県学連としては闘争が組めない。フロントの動員がめっきり減っている。とくに神大フロントは住吉寮闘争に便乗したにかかわらず70~80人しか動員できない。
11月21日全学執行委員長に反帝学評系のW候補が当選
反帝系(1351票)がフロント系(1164票)ブント系(620票)を破り当選。これは10月31日に不信任されたフロント系のN執行委員長の後を受けたもの。(学院新聞548号)学院でもフロントの退潮と反帝学評の伸長が進行している。フロントの退潮は最大拠点神大でも同様である。12月教養部選挙では、前期多数を占めたフロントは全員落選、新執行部は民学同7名、中核系1名、NR1名、民青系1名という構成になっている。
12月8・9日革マル派と反帝学評の党派闘争
「9日正午すぎ、関学法学部前広場で完全武装した反日共系全学連社青同解放派の学生約40人と同革マル派の学生約20人が角材を持って乱闘、法学部自治会室の窓ガラスがこわされ、学生会館に逃げ込んだ革マル派が机やイスでバリケードを築くなど大騒ぎになったが、約20分でおさまった。(中略)東大・早大など東京での両派の衝突が関学まで波及したものとみられ、11月末の全学執行委員長選挙で前執行部の構造改革派(フロント)を倒し学内での主導権をとった反帝が、戦術的にあいいいれない革マルとぶっかったものらしい」(神戸新聞68年12月10日)
かくして革マル派は関学キャンパスから追放され、同派の経済学部自治会も崩壊した。68年の革マル・反帝・フロントのブロックはフロントの退潮、革マル・反帝の党派闘争激化で、全国的にも関学でも崩壊した。このような状況下で関学6項目闘争は幕を開けることになる。然しこの「党派闘争」は革マルのみならず反帝学評にとってもダメージは大きかった。全執・法・商の自治会を掌握して学内主流派になった反帝学評だが、その後の6項目闘争において一度も主導権をとれなかったのである。W全共闘議長(全執委員長)はあの1・24集会には登場できなかったのである。

2014年8月14日木曜日

再び楼蘭について

 「楼蘭はなぜ滅んだか」 伊藤敏雄 ~「イエローベルトの環境史」 弘文堂 2013年~

 楼蘭の滅亡については、従来その原因として下記の五つの説が提示されている。①交易路(シルクロード主要ルート)の変化、②戦争や征服、③環境の変化(ロプ・ノールの涸渇)、④中国王朝駐屯軍の撤退、⑤僧侶の腐敗。然しいずれも実証が不十分で、楼蘭(鄯善)王国の滅亡と楼蘭地区(LAを中心とする遺跡分布地区)の荒廃を混同している。とくに長澤和俊の研究(楼蘭王都は終始LAにあった)の影響により同一視している説が多いと著者は指摘している。そして楼蘭王国の滅亡と楼蘭地区の荒廃は分けて考察すべきだとして、以下のような仮説を提示している。
A楼蘭王国は当初楼蘭地区に都を置いたが、前漢の西域都護設置(全60年)前後か後漢前期に 若羌地区に遷都した。若羌地区の鄯善王国は北魏の征服(448年)で滅亡し、その後住民は離散 した。
B楼蘭地区は遷都以降、中国王朝の駐屯軍が駐屯し、屯田を展開。その後前涼か北魏の時代に駐屯軍は撤退。隋・唐では楼蘭地区の戦略的重要性が失われたため、駐屯軍は派遣されなくな った。
Cその背景としては、シルクロードの主要ルートの変更やクム・ダリヤとその下流域の涸渇が想定 できる。後者は実証困難である。駐屯軍が撤退した結果、水利施設が再開発されることなく荒廃してゆき、時期は不明であるがクム・ダリヤとその下流域が涸渇するようになり、荒廃に変わっていった。
 楼蘭(鄯善)国都については北方説、南方説、南遷説があるが、著者は南遷説である。北方説批判の根拠は、①LAからは前漢時代の遺物は出土せず、炭素14測定値も前漢晩期から後漢時代の年代の数値を示している。故にLAは前漢末期・後漢時代に建設され、魏・晋時代の西域長吏府であるとする。②カロシュティー文書の語句クロライナ(楼蘭)、クヴァニ(扞泥)、マハームタ・ナガラ(大都市)が同一のものを指すということがLA国都説の根拠とされてきたが、クロライナ=マハームタ・ナガラは実証されているが、クロライナ=クヴァニは実証されていないとする。然し①については故城内三間房背後の地層に焼け跡が見られるので、故城建設以前に都市・集落があった可能性は捨てきれない。それは伊藤もLAは再建された可能性があるとかつて指摘している。(「楼蘭国都考」 西北出土文献研究6号)②についてはクロライナ=マハームタ・ナガラは論証されており、クヴァニ=マハームタ・ナガラであれば、クロライナ=クヴァニは成立する。
 仮説Aについては、遷都の時期を西域都護設置から後漢後期としているが、これは早すぎる。カロシュティー文書によれば5代の王の治世(榎説246-341年、長澤説203-288年)は国都はLAであったことがわかる。ただし榎も4世紀のある時期に国都がミーラン方面に移動したとしている。Bについてはシルクロード新道(玉門関から五船を経てトルファン)の開設によって中道(玉門関ー都護井ー三隴沙ー居蘆倉ー沙西井ー楼蘭)がすたれ、楼蘭の中継地としての重要性が低下したことが認められる。
 楼蘭地区の荒廃の原因は水利施設の維持管理もさることながら塩害であった。佐藤洋一郎によれば過灌漑によって塩が地面に吹いてしまったためという。(「よみがえる緑のシルクロード」岩波書店 2006年)漢書西域伝によれば楼蘭の人口は1万7千人。人ひとりが年間に食べる小麦を100キロ、1ヘクタール当たりの生産量を1トンと仮定すると、1万7千人分の畑は最少でも1700ヘクタールになる。つまり4.5キロ平方の畑がなければ、これだけの人口はささえられない。実際には楼蘭地区の可耕地は城の北側からクム・ダリヤ下流域に散在していた。クム・ダリヤからの取水は相当量に達した。塩害が楼蘭地区を荒廃させ、のみならずタリム盆地の沙漠化を進行させた。ただし、これは文献によっては検証不可能である。


2014年8月4日月曜日

「シルクロード史観」論争その後②

 「『シルクロード史観』再考」(「史林」91-2所載) 間野英二  2008年

 前稿(「シルクロード史観」論争」)で一方の当事者間野英二が護雅夫の批判を黙殺したため、この論争は継続せず「すれ違い」で終わったと述べた。然し近年間野が護の弟子筋にあたる森安孝夫「シルクロードと唐帝国」に対する再批判を発表している。一般にはなじみの薄い学術誌掲載論文なので簡単に論点を紹介する。
 間野は森安のこの批判(①シルクロードの抹殺反対②イスラム化強調への疑問)について、これは一方的な曲解であって当たらないとする。すなわち①については「シルクロード」が、地域を指す言葉としてはあまりにもあいまいな言葉であるため、研究者が地域を指す言葉として、研究論文などで使うことには賛成できない。然しマスコミや出版社・旅行社が使うのは自由であるとする。②については東トルキスタンのイスラム化の時期を15世紀とする森安に対し、カラ・ハン朝の成立期(9-10世紀)を以て対置する。森安が東トルキスタン東部のトルファン(ここのイスラム化は15世紀までずれ込む)に視点を置いて批判するのは客観性に欠けるとする。ここに視座を置いて30年前の研究視角をとるのは、畢竟イスラム史料を十分に利用することができないからだとも。そして「シルクロードと唐帝国」のような一般読者を対象とした書物で、曲解に基づく一方的な批判は慎むべきだという。然しこれはやや疑問である。間野が「シルクロード史観」を批判したのは、同様の一般読者を対象にした「シルクロードの歴史」においてである。
 そして「シルクロード史観」についての現在の考えを述べている。まず松田寿夫の「シルクロード史観」について「隊商路としてのシルクロードの存在が、中央アジアのオアシス都市の死命を制するものであり、シルクロードの存在なくしてオアシス都市の繁栄をありえない。シルクロードの存在が中央アジアそのものの死命を制する」と定義する。同時に「オアシス都市の商人たちの活動の意義をあまりに過大視するのは問題」とする。すなわちオアシス都市の基本的性格の認識として、松田(森安も)は隊商貿易依存説であり、間野は農業依存説である。然し二者択一ではなく、どちらがより基本的で、より重要であったかという比較の問題であるとする。この問題については、この30年間研究はほとんど進んでいないともいう。
 また「ソグド地方を中心とするオアシス都市を、もっぱら商業都市、隊商都市と規定することは行き過ぎであろう」が、ソグド商人の国際的活動は紛れもない事実であるともする。その商業活動については、①何故乗り出したのか②蓄積した富の行方③商人の地位④隊商の規模と頻度などすべて不明だという。松田の「人口余剰説」を踏襲した森安の「地元経済活性化説」は、ソグド人の隊商貿易が大規模で頻雑に行われたという架空の前提にたって築かれたとする。なお間野はこの中で「ウイグル文書に登場するのはほとんど農民で、隊商貿易に従事する商人の姿をそこに見出すことはできない」という森安が指摘した事実誤認をひっそりと認めている。然しこのやり方はフェアーではない。
 間野は「中央アジアの歴史」で中央アジアを「シルクロードの世界」ではなく「草原とオアシスの世界」としたが、そうであったのは前近代までであるという。中央アジア史には、前近代と近現代の間に大きな断絶がある。イスラム化した中央アジアが近現代に異教徒の国である清やロシアの支配下に入り、独立を失ったという政治的意味においてである。中央アジアの通史を、何を軸に描くべきかという根本的問題について、「解答を見いだせない」という展望喪失状況を吐露している。これはとりもなおさず現在の中央アジア史研究者の立場の困難さを示している。「シルクロード史観」派、「脱シルクロード史観」派ともに「ウイグル独立問題」などで踏絵を拒めないという状況がある。

2014年7月20日日曜日

メト(墨脱)を目指して~チベットの大屈曲部

  「辺境へ」 大谷映芳 山と渓谷社 2003年

 チベットのヤルツァンポ川とインドのプラマプトラ河はかって全く別の川と考えられていた。ツァンポ川はチベット高原を西から東へ流れて、ヒマラヤ山脈の東側で大きく向きを南に変える。北に位置するギャランペリ(7249米)と南のナムチャバルワ(7782米)の二つの山にはさまれて大屈曲部を形成する。ナムチャバルワの山頂から河原まで高度差5千米、眼の眩むような断崖が落ちている。それ故この二つの川が同一であることを実証するのに百年以上の歳月を要した。
 「空白の五マイル」の著者角幡唯介がこの空白部を踏査したのは2009年だが、その旅の終わり部分に興味深い結末が語られている。ツァンポ峡谷から脱出した角幡はポミ(波蜜)-メト(墨脱)間の道路沿いにあるガンデン村で公安の取り調べを受けた。ガンデン村は行政地区としては「メト県ガンデン郷」で、メト県の主邑であるメトで警察に出頭しなければならない。「めったに行けない中印国境の村メトに、やや変則的ではあるが、合法的に入域できるのは幸運かもしれないと思った」
(「空白の五マイル」282頁)然し結果的には、メトではなくポミを経由して「八一」の警察に出頭することになる。
 角幡が訪れることが出来なかった「めったに行けないメト」に入った日本人がいる。テレビ朝日のディレクター大谷映芳、本書の著者である。番組の取材で1996年メトに入る。ルートはラサからポミ経由である。ポミから地図に載っていない軍用道路を1日ほど車で走る。5千米級の峠を越えて、ヤルツァンポの支流を下るように道がつけられている。かつてはインド国境のメトまで道を造ったが、土砂崩れで、今では車道や鉄橋の名残があるだけである。車が使用できたのはここまで。後は徒歩でのキャラバンとなる。このあたりの標高は8百米しかなく、バナナの木まである亜熱帯である。道は大崩壊の跡に消えている。落石を避けながらの危険な行程である。大谷の見たメトは「平地が多く、田んぼや畑の緑が鮮やかで、立派な寺院や聖地があったりし、ヤルッアンポの中では最も豊かな土地に思えた。しかしインドはすぐそこ、大きな軍事基地が南を睨んでいる」(本書214頁)とある。三日間滞在し、めったに入れる土地でないメトをじっくり取材する予定であったが、当局との折衝でそれもかなわなかった。取材班は角幡とは違い正式の許可をとっていたのだが、このありさまである。
 ヤルツァンポはインドに入るとシアン川そしてプラマプトラと名前をかえる。チベット側からつながる山地の部分がシアン川で、平原に出たあたりからプラマプトラ河となる。現在は前者がアルナチャル・ブランデッツ州で、後者がアッサム州に入っている。シアン川流域の景色はチベット側とかわらない。ここに住むアディ族は、遠い昔アボール族と呼ばれた。裸に近い格好をしており、凶暴で好戦的な部族としてヨーロッパの探検隊に恐れられた。
 本書はこの「幻の大峡谷」の他、西ネパール、ブータン、グレート・リフト・バレー、ギアナ高地、パタゴニア、グリーンランドなど7つの辺境の紀行が収められている。すべて「ニュースステーション」の企画などの取材記録をもとにしている。「登山家ディレクター」大谷映芳のえりすぐりのれポートである。

2014年6月15日日曜日

華北分離工作~昭和史の謎を追う④

   「解禁 昭和裏面史」 森正蔵 ちくま学芸文庫 2009年

 満州事変勃発から太平洋戦争終了までの一連の侵略戦争について「15年戦争」という呼称が1960年代以降、所謂「進歩的歴史家」によって唱えられ一般にもかなり定着している。それに対して満州事変は1933年(昭和8年)5月の「塘沽停戦協定」で一応終結し、「盧溝橋事件」に端を発する日中全面戦争は中国の反日運動の激化が原因で起きた新たな事変であるという見解がある。(古くは片倉哀「北支問題弁論根幹案」1946年、最近では臼井勝美「新版 日中戦争」中公新書2000年など)然し「塘沽停戦協定」は軍事衝突が一段落しただけで、双方の間に横たわる溝はむしろ深まった。日本の軍事侵略にどう対応するかで国民党政府内部の対立は激化していた。抗日運動を盛り上げることで正面から対応しようとする宋子分がいた。交渉の責任者黄郛の立場は困難なものであった。一方関東軍も蒋介石否定に傾き「華北緩衝地帯」の実現に向けてひた走ろうとしていた。この硬直した態度の背景には対ソ戦準備をめぐる新局面(防共の強化、緩衝地帯拡大の不断の志向)がある。
 この「塘沽停戦協定体制」の4年間に関東軍は華北侵略の伏線を河北・チャヤハル省のいたるところにはりめぐらした。「協定」の内容は河北省の冀東地区の延慶、通州、蘆台を結ぶ線以東の中国軍は一斉撤退し、その後日本軍も長城線まで撤退、北部河北省に非武装地帯を設けるというものであった。関東軍はこれを空洞化しようとした。著者によればその「侵略」の内膜は以下のようである。1934年(昭和9年)から35年前半にかけて日中関係は比較的順調に推移していた。それは汪精衛外交部長と有吉大使の間で通車協定、通郵協定が成立し、関税引き下げ、日華航空連絡、日華無線問題についても協議が進められていた。
 然し関東軍・支那駐屯軍は非武装地帯を拠点として新たな華北攻勢を企図していた。1935年(昭和10年)5月の天津租界における親日新聞社社主暗殺などの「華北事件」を口実として日本軍は「重大申し入れ」という恫喝を行った。すなわち①中央軍及び国民党支部の河北省撤退②于学忠(河北省主席)の罷免③排日満秘密結社首脳人物の逮捕・抹殺。かくして日本軍の要求に屈し、6月10日梅津・何王欽協定が成立した。中央軍(25指、2師)、旧東北軍、北京憲兵第3団は河北省外へ退去した。更に宋哲元靡下部隊の不法攻撃を口実に、平綏鉄道以北のチャヤハル省内に非武装地帯を設置するという土肥原。秦徳純協定を結んだ。梅津・何応欽協定は宋哲元抱き込みによる華北5省独立運動という大謀略の基底をなし、土肥原・秦徳純協定は関東軍の内蒙工作の基盤を形成した。
 華北5省分離工作  35年10月リース・ロスの幣制改革に反対する農民運動が河北省香河県で起こった。南京の銀国有化反対・防共自治を掲げて県城を包囲し県長を追い払った。この非武装地帯に潜入してくる中国人は日本軍の庇護の下に密輸で甘い汁を吸おうという程度の低い無頼の徒である。工作したのは土肥原の手先である。そしてこれを基礎に11月24日非武装地帯に
東防共自治委員会を成立させた。冀東23県が支配地域になった。主席は半日本人的存在である殷汝耕。この傀儡政権は莫大な麻薬などの商品の密輸基地として機能を果たした。著者はその様子を次のように述べている。「ここから、日本は数百万円の無関税商品、数百万円の阿片を陸揚げして、日本軍特務機関の指揮と保護のもとに動く日本人、朝鮮人の密輸業者の手によって、これらの低廉な密輸品は平津地区に流れ、さらに津浦線によって揚子江流域に下った。これは中国の漸く勃興しかけた軽工業を脆くも破壊せしめるもので、国家財政の主要部分を占める中国の関税収入を著しく低下させた。これは領土を侵略すること以上に、中国民族にとって怨恨深き手傷を負わせ、抗日風潮を経済的背景において決定づける最大の要因となった。」(本書P260)かくして「停戦協定」の空洞化は完成したのである。
 日本陸軍は、その侵略のために華北に一種の真空地帯を必要としたが、南京政府も日本軍の重圧に対処するための緩衝地帯を必要とした。12月1日南京は河北・チャヤハル両省を日中間の緩衝地域として、宋哲元を委員長とする冀東政務委員会を設置した。土肥原は宋哲元の抱き込みによる「北支5省連合自治」を目論んだが、宋の二重性格性に幻惑されて失敗した。「北支5省連合自治」(河北、チャヤハル、綏遠、山西、山東省)なる日本陸軍の華北分離工作は一頓挫したが、これは新たな日中全面戦争化の原因となった。東北4省はいわば隙を見て掠め盗ったのだが、一連の華北分離工作は白昼堂々の強奪に等しい。「満州」には条約上の権益が存在したが、華北にはそのようなものは全く存在しなかった。ただ「義和団事件」後の議定書によって列国と同様に天津に支那駐屯軍の駐留(日本に割り当てられたのは1570名)が認められていたにすぎない。「15年戦争」説、「新たな事変」説いずれをとるにしろ一連の「華北分離工作」は日中全面戦争への「用水路」となった。
 本書は終戦後直後の1945年12月に刊行、47・48年にはベストセラーになった。執筆時著者は大阪毎日新聞社会部長。かつて「言論の自由」を持たなかった時代の新聞記者による報告の書であり、自戒と自省の書でもあるとは本文庫版解説者保坂正康の弁である。

2014年5月18日日曜日

もう一つの大谷探検隊~大谷探検隊外伝


図録 「チベットの仏教世界~もう一つの大谷探検隊」 龍谷ミュージアム 2014年

 大谷探検隊は三次にわたる中央アジア(中国新疆省)踏査にのみ限定されて語られる。然しその実態はインド、セイロン、チベット、ネパール、ビルマ、タイ、中国本土などアジア全域の仏教調査を目的とした大事業であった。とくにチベットに関しては、中央アジア探検に劣らぬ「もう一つの大谷探検隊」というべき意義を有していた。
 何故チベットなのか。そのためには明治中期に日本仏教会を脅かした「大乗非仏説」の話をせねばならない。当時ヨーロッパにおいて、インドなどから得られたバーリ語法典の解読により、上座仏教の研究が進展した。それにより大乗仏教は不純物が多分に混じり込んだ仏教という見方が支配的になった。その結果インドの原典からの忠実かつ正確な翻訳であるチベット大蔵経を求めてチベットを目指そうという所謂「入蔵熱」が高まった。その中心になったのが西本願寺の普通教校の学生団体「反省会」に集う若い仏僧たちである。然し最初にチベット入りをめざしたのは「反省会」とは関係のない河口慧海や東本願寺の寺本婉雅、能海寛である。それは鎖国状態のチベットへの潜入であった。
 大谷光瑞がチベット問題に係る端緒となったのは、1908年(明治41年)弟の尊由を名代として五台山に派遣し、中国に亡命中のダライ・ラマ13世(以下ダライ)と会見させたことである。これ以降光瑞はチベットでの調査について計画を具体化していった。すなわち日本・チベット間での留学生交換が決定する。チベットからはツァラ・ティトゥル僧正、日本からは青木文教、多田等観である。1910年3月インドのダージリンで青木は再亡命中のダライに会見し、ツァラ・ティトゥルにつきしたがい帰国する。ツァラは神戸の二楽荘で日本仏教の研究を進める。この際彼に日本語を教えたのが多田等観である。その後辛亥革命の勃発によりチベット情勢が急変し、ダライはツァラを召喚した。1912年1月青木と多田はツァラと共に神戸を出港、カリンポンでダライに謁見した。その後青木は1912年9月に入蔵(1916年1月まで滞在)した。多田は1913年8月チベットに旅立つ。1923年1月まで10年に近い滞在となる。河口や寺本などの日本人であることを偽っての潜入ではなく、ダライ政府から入蔵認定証と旅券を下付されての正規の入蔵であった。然し英国官憲の監視網を注意深くさけてのチベット行であった。1907年8月の英露協商によって、両国は外国人(とくに日本人)がチベットに入ることを厳禁していたのである。
 青木は1913年1月ラサに到着し、「ヤプシプンカン」と呼ばれる高位貴族の邸宅に滞在し、主にチベット語や歴史を学んだ。とくに写真技術に優れていたため、ラサの上流社会では青木に肖像写真撮影を依頼することが流行した。一方多田は1913年9月ラサに到着。セラ寺に入り、修学は10年に及んだ。博士課程を修了し「チュンゼ」(最高学位「ゲシェー」に次ぐ)の学位を得ている。経典を入手して結果解釈するのではなく、チベットの僧院で実際の修行階梯を経ての学位修得である。かくして多田は「チベット仏教を血肉化した」最初の日本人になったのである。
 青木・多田のチベットでの活動は大谷探検隊の一部というより、事業として更に大きく取り組まれる段階が想定されていたと高木康子は指摘している。(高木康子『大谷光瑞トチベット』「大谷光瑞トアジア」勉誠出版 2010年所収)いわば「もう一つの大谷探検隊」である。然しこれは光瑞の失脚により挫折する。だが青木と多田2人をチベットに派遣したことは画期的な意義を持つ。従来の河口などの入蔵はチベット経典の調査と入手であった。光瑞の関心は、教義・歴史への深い理解とチベット社会の状況についての幅広い調査であった。前者を多田が、後者を青木が担当したのである。青木が何を調査したかは「西蔵遊記」から推測できる。また多田の下からは戦後佐藤長、中根千枝、山口瑞鳳など多くのチベット学者が出た。
(付記)本書は2014年4月19日~6月8日に龍谷ミュージアムで開催された特別展「チベットの仏教世界~もう一つの大谷探検隊」の図録である。「チベット仏教の歴史と仏教美術」(森雅秀)、「釈尊絵伝と多田等観」(能仁正明顕)、「青木文教と多田等観の将来資料」(三谷真澄)、「ラッサからの道」(高木康子)の4論文をを収録している。青木・多田の詳細な年譜とともに非常に有益である。

2014年5月6日火曜日

「物語 ビルマの歴史」を読む

  「物語 ビルマの歴史」 根本 敬 中公新書 2014年

 1989年6月、前年民主化運動を封じ込めて成立したビルマの軍事政権は突如国名を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更した。「ビルマ」は口語、「ミャンマー」は文語で、意味するものはまったく同一でビルマ民族が住む空間である。「ミャンマー」はビルマ民族のみならず周辺のカレンやシャンなどの少数民族を含むと軍事政権は強弁するが、これは事実に反するまやかしである。
 そして2011年3月の軍事政権自らの解散による「民政移管」を契機にビルマの情況は大きく変わった。ティセイン政権によるアウンサンスウチーの自宅軟禁解除により、欧米・日本などの経済制裁措置が緩和された。外資のビルマ市場への参入が本格化した。新聞の経済欄にミャンマーの文字を見ない日はないほどだ。
 このような「変化」は民主化運動の圧力の結果ではなく軍人が自ら姿勢を変えたからである。何故変えたのか。第一の理由は、自国の対外イメージを改善したいという欲求である。2014年に引き受けたASEAN議長国としての風格と品位をつくりあげることができるとティセイン大統領が判断したからだという。第二は長期にわたる安定した経済発展の重要さにようやく気がついたからである。とくに中国一辺倒にたよる経済援助はビルマ国軍のナショナリズムには要注意であり桎梏であった。然しこのような「変化」は軍人たちに囲まれた「小さな土俵」の中で展開されるだけで、民主化の「本格的な一歩」を踏み出したものではないと著者はいう。今後の判断基準として、軍の特権をなくす方向で憲法改正が進めば、その段階で「変化」のカギ括弧がとれるとも。
 突如の国名変更や軍事政権の一方的解散による「民政移管」などの不可解さを解明するためにはビルマの苦難に満ちた近・現代史の知識が不可欠である。本書は全10章のうち9章分を英領植民地時代から「民政移管」までの近・現代史に当てている。分かりずらい「軍事政権」存立の不可解さ、その自らの解散、括弧つきの「変化」の謎を解明するための、本書は唯一ではないが最良の参考書である。

2014年4月16日水曜日

謎の山アムネ・マチン~古書の宝庫を訪ねてみれば⑤

  「謎の山 アムナ・マチン」 レナード・クラーク 恒文社 1974年

 アムネ・マチン(6282m)はかつてエベレストより高い謎の山と思われていた。西洋人で初めてアムネ・マチンを見たのは探検家ジョージ・ペレイラ将軍である。1992年西寧からラサへの途上、ウグツ山脈の南面チュリ・ラから見た。ジョセフ・E・ロックは中国滞在中、黄河のほとり(アムネ・マチンから東方50マイルの地点)から、遠くにチベットの山を望見して28000フィート以上の高さがある山を見たという。(「謎の山々を求めて」 ナショナル・ジオグラフィック・マガジン1930年2月号所載)そして極め付けは、第二次世界大戦中の米軍飛行士の話である。インドから中国に軍事物資を運ぶ途中、29000フィートで航行中、眼前に巨大な雪の壁が突如現れた。その山は飛行機より更に高度が高かったという。
 アムネ・マチンは北部チベットの奥深く、中国青海省の黄河源流部近くに位置している。カイラス山(6658m チベット自治区)、梅里雪山(6740m 雲南省)とならんで古来チベット仏教三大聖山の一つである。周囲を一週間で巡るコルラ(巡礼の道)もある。それにもかかわらず謎の山とされたのは、その地理的隔絶性と厳しい気候条件、それに「アムネ・マチンの番人」と呼ばれる凶暴なゴロク族の存在が部外者(とくに外国人)の接近を峻拒してきたからである。多くの西洋人が殺害された。例えば1894年この地方を歩いたフランスの探検家どドゥトルイユ・ド・ランはゴロク族に捕えられて、皮袋に縫い込められて黄河に投げ込まれて殺害された。
 米国陸軍大佐レナード・クラークはこの謎の山に初めて科学的な調査を企てた。中国国共内戦末期の1949年、国府側の青海省主席馬歩芳の全面援助も得た。敗色濃い国府西北軍の一部を、山を越えてチベットに撤退させて反共戦争を続けるためのルートを探査することを条件にして。
西寧から苦難のキャラバンを続けること2ヵ月、クラークは東方はるかに白い山のかたまりを見た。
謎の山アムネ・マチンである。
「ダンヌール峠の上で、わたしたちはオボの後ろに風を避けた。(中略)わたしは双眼鏡を取り出して、一点から一点へと、中部チベットへと延びている凍った地平線を調べた。(中略)焦点を合わすにつれて、はるかかなたに山々のぼんやりした像がはっきりとしてきて、細かい線が見えるようになった、(中略)突然、蒼白い空の一角に低く離れてたなびく雲がみつかった。たちまちその雲の下に斜めにかかった大きな氷の鏡のように、光を反射しているアムネ・マチンが、横たわっているのをわたしは知ったのである。}(本書P87~88)
山に近づいてクラークは三角測量を実施した。クラークはアムネ・マチンの絶対高度を次のようだとしている。測量地点の高度3860m+三角測量値4616m+測器修正分565m=9041m(29,661フィート)。これはエベレスト(29,144フィート)の高度より517フィート高いことになる。
 アムネ・マチンは1960年中国の調査隊によってその高度が7160mであることが確かめられた。これは後に6282mに訂正された。中国は登頂したとしているが、それは主峰ではなくⅡ峰であるようだ。アムネ・マチン主峰の初登頂は1981年日本の上越山岳会によってなされた。現在はこの秘境地帯にも比較的容易に行ける。空路北京(もしくは上海)経由で西寧にはその日のうちに到着する。西寧で車をチャーターしマチュン(瑪沁 大武)経由で雪山郷に向かう。そこからはアムネ・マチンが見える。西寧から約2日かかる。また日本発9日間のパックツアーもある。





2014年3月16日日曜日

「張作霖爆殺事件」の深層~昭和史の謎を追う③

  「謎解き『張作霖爆殺事件』」 加藤康夫 PHP新書 2011年

 1928年(昭和3年)6月4日早朝奉天郊外、満鉄本線と京奉線が交差するクロス架橋下で張作霖が乗った特別列車が爆破された。張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。所謂「張作霖爆殺事件」である。当時は「満州某重大事件」として報道され、終戦まで内容は明らかにされなかった。近現代の研究書や教科書では、実行犯は関東軍の高級参謀河本大作大佐とその一味であり、関東軍謀略説がほぼ定着している。そしてこの事件の処理をめぐり、」食言問題」により田中義一内閣は倒壊する。大江志乃夫は張作霖爆殺事件と満州事変は一連の連続した過程であったという。「最大の原因は、天皇が張作霖事件の責任を田中首相に問うただけで、陸軍を免責したことにある。何をやっても、政府の責任が問われるだけで、陸軍の責任は問われることはない、という確信が陸軍をあげて次なる謀略に走らせた。」(「張作霖爆殺」中公新書1989年)としている。
 然し近年真の実行犯は河本ではなく、コミンテルン(正確にはGRU ソ連軍参謀本部情報総局)
の工作員によって日本側がやったように巧妙に仕掛けられたという謀略説が登場した。世界的にベストセラーになったユン・チュアンの「マオ」上巻にほんの数行紹介されている。「張作霖爆殺は一般的に日本軍が実行したとされているがソ連情報機関の史料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。」(「マオ」上巻 講談社2005年)本書は「マオ」より先行してソ連謀略機関実行説を唱えたロシア人のドミトリー・プロホフの説を紹介している。「マオ」も基本的にはプロホフに依拠している。プロホフの「GRU帝国」によれば実行犯はフリストフォル・サルヌイニとナウム・エイティゴンの「グリーシカ」機関である。なんと12年後にトロッキーを暗殺を指揮することになるエイティゴンだ。エージェントはあらゆる手段をもって周辺の人物に信用を得、張作霖爆殺がいかに日本にとって軍事的・政治的に有利になるかを納得させた。河本大佐が心を許していた石炭商伊藤謙次郎、満州浪人安達隆成、奉天の遊郭経営者劉載明、料亭「みどり」に集う芸妓たちのだれかが「グリーシカ」機関の巧妙な工作を受けていた。また村岡関東軍司令官も周辺人物を洗われ、エージェントに接近されていた。
 「河本首謀説」の弱点は①動機の薄弱さと②事故現場状況の絶対矛盾だと著者は説明する。日本国内で張作霖殺害の動機が論争になったことはほとんどない。政府(田中内閣)・陸軍中央はどちらかといえば張作霖利用派である。張作霖排除を考えていたのは河本ら関東軍の一部である。然し外には国民党をはじめ多くいた。とくにソ連(スターリン)は、1927年の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖をソ連の満州進出の最大の障害と考えていた。②については、事件現場を調査した関東軍参謀長斉藤恒や奉天領事林久次郎の報告書によれば、爆薬物の装置地点は明らかに橋脚上部か列車内だとしている。それは現場写真(本書P79)ともよく照合している。河本が主張するように、線路脇に200キロの爆薬を仕掛けたら、地面に大きな穴が空いて線路が破壊され、客車の脇腹が爆風で吹き飛び列車は転覆する。ところが現実はそうではなかった。これはとりもなおさずコミンテルン謀略説を補強する。
 河本は事件後盲腸手術をするおり麻酔を使用せず手術をしたという。身辺に張り付いていた「グリーシカ」工作員の存在があったからこそ、麻酔をたってまで隠しとうさなければならない秘密があったと著者は推測する。このコミンテルン謀略説も、決定的な第一次史料が発見されていないという弱点はある。すべて状況証拠の積み重ね過ぎない。 事件の真相については「関東軍謀略説」「コミンテルン謀略説」いずれなのか、依然闇のままである。クレムリンからの新史料の出現はプーチン体制下では当分望むべくもない。然したとえ「コミンテルン謀略説」が立証されたとしても、さりとてその後の関東軍の行動が免責されるべくもない。


2014年2月23日日曜日

玄奘三蔵の旅~パミール越えの路①

  「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 前田耕作 岩波新書 2010年

 西安の大雁塔は唐の時代の長安の面影を今に伝える数少ない建造物である。玄奘がインド
より持ち帰った経典類を保管するため大慈恩寺の境内に建てられた。経典の翻訳は、玄奘によってこの境内で行われた。「西遊記」の三蔵法師のモデルになった玄奘の史実については前嶋信次「玄奘三蔵」(岩波新書1953年)という先駆的著作がある。然し前後18年に及ぶインド大旅行、
就中シルクロード旅程の部分は簡略である。そののような欲求不満を解消してくれるのが本書である。とくに玄奘の往路「シルクロードを行く」部分に焦点をあてており、不明の部分が多いバクトリア、バーミヤンなどの記述について詳説している。永年アフガニスタンの遺跡調査に従事した著者ならではの鋭い指摘が随所に見える。
 本書で注目すべきは点はまず玄奘のオクサス河(アムダリヤ)渡河点を明らかにしたことである。従来は当面の目的地たる小王舎城のあるバルフの対岸テルメズ付近で渡河したと考えられていた。然し玄奘は河の北岸を東行し、もう少し上流のワクシュ川とピヤンジ川が合流してオクサス河となるあたりで渡河したとしている。そこは活国(クンドゥズ)への至近の渡河点であった。さらに興味深いのはバーミヤンの「宿麦」の謎を解明したことである。玄奘は「宿麦」を「むぎ」と表記していたので、従来は「大麦」もしくは「早播きの小麦」と解釈されていた。だが著者は諸文献の検討から「まめ」と「むぎ」の意だとした。「まめ」を表す漢字「菽」(シュク)は古くから「宿」とほとんど同音であり、「菽麦」が「宿麦」になったとした。タリバンに破壊されたバーミヤンの大仏の破片から植物繊維が採集されたが、その中に混じっていた麦粒は「小麦」であることが判明したという。
 本書では玄奘の帰路については触れていないので、少し付け加える。玄奘は西北インドのカシミールからいったんガズニに出てヒンドゥクシュを越えてパンジール渓谷沿いにクンドゥズに至った。往路とは異なってオクサス河を渡らず道を東にとった。バダクシャンのファイザバードを経て、ワハン回廊を抜けてパミールをワフジル峠で越え中国領のカシュガルに到着した。これは難路で謎のルートとされているが、近年このルートの一端を踏査した日本人がいる。1966年「ヒンズー・クシュ登山隊」(第二次RCC中央アジア登山委員会)の安川茂雄である。
 安川の著書(「アフガニスタンの山旅」あかね書房1966年)によれば、玄奘はファイザバードから東進してワハンを目指すのではなく、バロックからコクチャ河上流のジュルム川沿いに南下してケロン(クラナ国)に至った。ケロンは近郊にマダン鉱山があり、古代よりラピスラズリ(瑠璃)の産地である。ケロンより北東にムンジャン峠を越えて現パキスタン領のチトラルに出た。そしてバロギル峠を越えて再び現アウガニスタン領のイシカムに着いた。イシカムは大唐西域記によれば「東西千六百里、南北の広きところころ四、五里、狭きところ即ち一里を越えず」という細長いラダマスティ国の首府で、ワハン回廊入口の都邑である。

2014年2月9日日曜日

「田中上奏文」は偽書か~昭和史の謎を追う②

「日中歴史認識~『田中上奏文』をめぐる相克1927-2010」 服部龍二 東京大学出版会
                                                    2010年

 「田中上奏文」(「田中メモリアル」もしくは「田中メモランダム」)とは何か。それは1927年(昭和2年)6月27日~7月7日に開催された東方会議の対支政策綱領をふまえて、同年11月25日に田中義一首相が昭和天皇に上奏したとされる怪文書である。中国語で2万6千字、邦訳で3万4千字。「満蒙に対する積極政策」から「病院、学校の独立経営と満蒙文化の充実」まで21項目に及んでいる。付属文書として同年7月25日付の一木徳郎内相宛の田中の書簡が添えられている。日本では当初から、内容上の事実の誤りや形式の不備などから偽造文書であると見做されていた。著者によれば、その真偽について世界的に以下の三説がある。
(本物説)真正とするもので中国語圏やロシアで広く流布している。然し形式や内容などから専門家の多くは否定している。
(実在説)どこかに原本があるはずだと主張するもの。中国の専門家に多い。
(偽造説)日本、アメリカの専門家の大半が支持している。
 「上奏文」はどのように流布したのだろうか。まず1929年夏頃中国各地で小冊子として流通しはじめた。第三回太平洋問題調査会(同年10月下旬~11月上旬)で上海YMCA初期の陳立延が「上奏文」を朗読する予定だったが日本外務省により阻止された。同年晩秋には中国東北部での配布が顕著になった。主導したのは新東北学会である。12月には「上奏文」関連記事が南京の「時事月報」に掲載された。1930年6月日本でも日華倶楽部編訳の「支那人の見た日本の満蒙政策」が紹介された。その後英訳版のほか、ドイツ語版、フランス語版も刊行された。ヨーロッパだけでなくアメリカでも広く流布した。またコミンテルンも1931年に「田中メモランダム」の全訳を「コミュニストインターナショナル」に紹介した。同誌は英、ロシア、ドイツ、フランス、中国語でも刊行されている。日本共産党もこの記事を1931年6月小冊子「赤旗パンフレット第25輯」として配布した。そして1932年11月21日ジュネーブの国際連盟において松岡洋右と顧維釣の間で論争が行われた。真贋については顧の旗色が悪かったが、宣伝としてみれば「田中メモリアル」を国際社会に印象づけることになった。
 それでは「上奏文」は誰が何のために作成したのだろうか。著者は新東北学会が作成した可能性が高いと推測する。その経緯については。「台湾の友人」蔡が「某政党幹事長」床波竹次郎宅で東方会議や大連会議に関連した浪人の意見書を筆写して、十数回にわたって奉天に送った。王
家槙は雑多な文書を整合性のある文書に書き改め、上奏文に合成した。然し王は偽造の仕上がりに自信がなく、政府関係だけに配布を限定していた。ところが心ならずも宣伝文書として利用されたというのである。その流布には遼寧省国民外交協会が積極的に関与している。国権回収を進める一環として「上奏文」で危機を煽り、国産品の使用によって「経済侵略」に抵抗するとともに、外交的勝利を当局に促そうとしたのである。
 たわいのない反日文書としてはじまり一時は国民政府ですら抑制しようとしたほどに欠陥の多い「上奏文」は満州事変後の中国にとって格好の宣伝材料となった。さらに「上奏文」は第三国のメディアを巻き込んで情報戦を担うほどに成長した。東京裁判では審理の対象となって共同謀議論を左右しかけた。「上奏文」は現在では「偽造説」がほぼ支配的である。然し近年藤井一行が世界中に流布する「上奏文」のテキストを収集し比較検討することにより、新たに「実在説」を主張している。(「『田中上奏文』は本当に偽書か?」労働運動研究 復刊14号 2006年)著者は本書において藤井論文に全く触れていないが、これは疑問である。それにしても「上奏文」の生命力には恐るべきものがある。

2014年1月26日日曜日

正倉院の謎

   「正倉院ガラスは何を語るか」  由水常雄  中公新書  2009年

 毎年10月下旬から11月上旬にかけて正倉院展が開催される。毎回展示されるのは70点前後。かならず初出展や目玉があるわけではないが10年見学すればほぼ主たる宝物を見ることができる。宝物のなかでもガラス器は正倉院の華だ。本書では正倉院に現存する6点のガラス器と
その来歴が紹介される。すなわち「白琉璃碗」「白琉璃高坏」「紺瑠璃壺」「白瑠璃水瓶」「「緑瑠璃十二曲長坏」「紺琉璃坏」である。そして通説とは異なって「奈良時代には正倉院には一個のガラス器も実在していなかったという事実」が明らかにされる。
 例えば「白琉璃碗」。井上靖の「玉碗記」で有名になった安閑天皇陵出土の玉碗と同様に従来は奈良時代以前に日本に舶来していたとされていた。著者は東大寺に納入されていたものが、江戸期に初めて正倉院に登場し、原産地も通説の北イランのギラーンではなくササン朝の王室工房(イラクのキッシュ)ということを立証する。興味深いことに正倉院60回展(2008年)で通説とともに著者の見解が併記されている。
 また「緑瑠璃十二曲長坏」は明治期に初めて正倉院に登場するなど謎にみちている。描かれているチューリップははイラン高原の野生のチューリップ(鬱金香)ではなく、形状から18世紀以降のオランダのチューリップである。鮮やかなエメラルドグリーンを出す溶解度は1370度以上であり、明らかに近代以降の作品であるとする。自らガラス類の復元を手掛ける著者ならではの鋭い指摘である。
 そして極め付けは「紺琉璃坏」だ。深い古代青藍色の透明なブルー、清々しく輝く銀製の忍冬唐草文の脚台。見る者をひときわ異次元の世界へ誘うような気品に満ちた美しいワイングラスである。ササン朝末期(7世紀前半)に、王室のガラス工房の系統をひく民間工房で作られたものと著者は推定している。正倉院への収蔵が確認されるのは鎌倉時代の建久4年(1193年)。いつ日本に渡来し、だれが保有していたのか、まったく不明である。あるいは文治元年(1185年)の東大寺大仏改鋳の開眼供養に際し、南宋の皇帝からの奉納ではないかと著者は推理する。
 著者は「正倉院の謎」「ガラスの道」の作者で、その謎の正解を極めるため自ら正倉院宝物のガラス器の復元を数十年続けてきた。

2014年1月13日月曜日

大谷光瑞の二楽荘~大谷コレクション③

  「モダニズム再考~二楽荘と大谷探検隊」 芦屋市立美術館 1999年

 大谷光瑞の別荘二楽荘は1908年(明治41年)3月27日に起工、翌1909年9月20日に完成した。場所は六甲山中腹に位置し瀬戸内海に南面する兵庫県武庫郡岡本村の岡本山である。光瑞は別荘の条件として①気候最優秀の土地②特殊な地形の完備③交通至便な土地④天災被害のない土地⑤清涼な水が豊富な所としており、六甲山麓の岡本山が選ばれた。標高は190メートル。中段に二楽荘本館、下段に武庫中学、上段には白亜殿と図書館兼宿舎の巣鶴楼があり、各施設は山麓とケーブルカーで結ばれていた。敷地は約24万6千坪である。その総工費は地所取得費15万円、建築費17万円合わせて32万円(現在に換算すれば約80億円)。なお地元岡本村には各戸に総計1万530円を土産金として配っている。
 二楽荘本館を見てみよう。1階には玄関の右側に英国近代室(食堂)、正面に支那室、南側の扉から仏間に通じる。左に事務室と奥に英国封建室、アラビア室がある。2階は玄関右手の階段から上がりインド室と図書室に通じる。図書室の奥の扉を通じて客室3室とエジプト室があり、その外にバルコニーがある。服部等作によれば二楽荘の建築は、英国マナーハウス建築様式の影響を受けているという。光瑞は英国留学時そのような屋敷に寄宿していたのである。また二楽荘の着想の原点はかつて踏査したパキスタンのタクティバイであるという。ペルシャ語で玉座の山と称され、ユスフザイ平原を見下ろす山の中腹標高200メートルに僧院群の点在する遺跡である。(服部等作
「大谷光瑞と二楽荘」勉精出版「大谷光瑞とアジア」所収参照)
(二楽荘の公開)1912年(大正元年)11月2~3日の両日大阪毎日新聞主催で独占公開された。入場者は2日8千人、3日2万3千人。単なる別荘公開ではなく、第3次探検隊の橘瑞超の講演や新疆発掘品の展示も行われた。翌13年2月1~3日クラブ化粧品主催の無料公開も行われた。その間有料公開(入場料50銭)が幾度かあった。
 二楽荘建設はまさに大谷探検隊活動の時期と重なり、二楽荘は西域文化の研究センターそして
アジアへの「グレートゲーム」の基地でもあった。然し二楽荘の命脈は長くはなかった。探検隊の派遣及び二楽荘建設の出費は西本願寺の財務を揺るがす疑獄事件に発展し、1914年光瑞は門主を辞任した。そして1916年(大正5年)1月17日、二楽荘は土地・建物・発掘品など含めて総額21万円で政商久原房之助に売却された。ここから大谷コレクションの流失がはじまり、光瑞は大連に去り、やがて旅順に居を定めた。
(二楽荘の焼失)1931年(昭和6年)3月21日、六甲山の山火事により二楽荘南側ベランダ及び武庫中学付属施設の一部が焼失した。翌32年10月18日、不審火により本館が焼失した。
(二楽荘その後)1944年(昭和19年)尼崎製鉄に所有権移転。1960年甲南興産に所有権転。1972年東洋綿花を経て坂本紡績に売却され高級マンション建設が持ち上がったが、地元の反対で頓挫。1979年末、宗教法人の所有に移った。
 二楽荘については近年、阪神間モダニズムとの関連で研究が進みその全貌が次第に明らかになってきた。本図録はその成果である。然し服部が指摘するように二楽荘への関心が阪神間の地縁に留まっており、「グレートゲーム」との関わりを探求する視点が希薄なのもいなめない。