「満州航空の全貌」 前間孝則 草心社 2013年
第二次世界大戦前の一時期、日本には「欧亜連絡航空路」構想というのがあった。東京と満州の新京、ドイツのベルリンを中央アジア経由の空路で結ぼうというものである。空のシルクロードとでもいうべき1万2千キロの日独航空路の開拓構想である。この構想を強力に推し進めたのが満州航空の永淵三郎である。満州航空はその成立も含め関東軍の強い影響下にあった。関東軍の「中央アジア防共回廊」工作ともあいまって、実現するかに見えたが、日中戦争の勃発などにより頓挫した。
関東軍は陸軍中央から華北工作への関与を抑制されたが、内蒙工作に関しては認められていた。関東軍の欲求のはけ口は内蒙から更に西へ拡張した。寧夏、甘粛、青海、新疆へと延び、アフガニスタンでドイツと連絡して防共回廊を建設しようという欧亜連絡航空路計画にのめり込んだ。陸軍中央や外務省は関東軍の「赤化防止」の強調を単なるイデオロギー問題としか受け止めていなかった。そのため日中の外相会談で日中共同防共や日中航空路交渉を主要課題としたことは、その主観的意図(関東軍の華北への関与の防止)とは逆に、欧亜連絡航空路を設定して中央アジアに防共回廊を建設しようという関東軍の後押しをする結果となった。
(欧亜連絡航空路の内容)交渉は民間ベースで進み、1936年12月18日満州航空・恵通航空とルフトハンザの間で関係国政府の許可を留保するという条件つきで「協定」が締結され、翌年3月20日に日本政府は閣議で承認した。協定によれば航空路は「伯林ーロードスーバグダッドーカヴールー安西ー新京ー東京の定期航空路」(第二条)である。第四条ではカヴール以西はルフトハンザ、以東は満州航空が航空路の整備と試験飛行の責任を持つとある。また第六条では開始時期を1938年初頭の3ヵ月と定めている。
当時の航空技術では、新京からカヴールまで直行できる航空機はなく、中継飛行場が必要であった。当初安西に中継飛行場を置く予定であったが、満州航空の使用するスーパー機の航続距離
(1200キロ)は短かった。そのため包頭に飛行場を整備し、アラシャン、オジナに前進補給基地を設置する必要があった。
1936年9月関東軍はアラシャン(定遠営)に飛行場を整備した。更に11月23日第1次輸送隊が500箱のガソリンを陸路で搬送した。同年9月15日満州航空3名がオジナに入り、25日には特務機関員6名も陸路で到着した。そしてアラシャンーオジナ間の定期航空(週1便)を開始した。また関東軍は特務機関員大迫武夫を青海省の馬歩芳の下に送り、回教軍閥の懐柔工作を進めていた。然しこの時綏遠事件がおこり、その失敗により関東軍は前進拠点を喪失し、アラシャン・包頭の飛行場は使用不能になった。
一方日独防共協定交渉は進展し、国策レベルでは航空路構想は具体化していた。その成否のカギは安西飛行場の確保にあった。1937年2月の時点でも馬歩青は「飛行場の設定並びに飛行機の乗り入れ」に異存のないことを関東軍に確約していた。そして国際航空(満州航空特航部を改組)は1937年5月ドイツより航続距離3600キロのハインケルHe116型2機の購入を決めていた。カヴールから包頭まで無着陸で飛行できた。パミール高原の最低部であるワハン回廊の峠(5600米)を安全に越える性能を持つ機種として、He116型機を高度仕様にかえ、8席の客席を持つ旅客機に改造するという仕様で発注していた。だが大きな手違いがあり、実際に納入されたのは(1938年4月23日羽田到着)ルフトハンザが南米線の郵便輸送機用として設計されたもので、上昇限度は4300米に過ぎなかった。パミール高原を越えることは不可能であった。何故この空域を「乃木号」「東郷号」と命名された2機が一度も飛ばなかったのかの疑問が氷解する。石川島播磨で永年ジェットエンジン設計に携わった著者ならではの鋭い探求である。
そのようなミスは別にしても、盧溝橋事件(1937年7月7日)の勃発に始まる日中戦争の全面化で、「欧亜連絡航空路」構想は挫折する。「協定」のいう「関係国の許可を留保するという条件つき」の物質的基礎そのものが失われたからである。
(後日譚)
日中戦争の全面化によって、消えたのは「構想」だけではない。敵中に孤立して撤退できなかったオジナの特務機関員と満州航空社員、そして行方不明となった第2次ガソリン輸送隊員はどうなったのか。国民政府側の李翰園(寧夏省民政府長)の手記によれば。7月7日夜李は馬歩康の部隊とともに日本人10名を逮捕し、20日粛州に送った。また寧夏省磴口県で大2次輸送隊の3名を補足した。合わせて日本人13名は蘭州に送られ、日本航空隊の蘭州爆撃の報復として10月11日蘭州城安定門外で処刑された。この処刑の様子はドイツ人カトリック司祭が目撃している。第2次輸送隊の荷物には相当数の武器類(小銃、機関銃、弾薬)が含まれていた。これは関東軍より馬歩芳への贈り物であったという。実際馬はそれをすべて回収している。またこのキャラバンの案内人蒙古人サンジャチャップ(大迫武夫)はからくも馬歩康に救われ、西寧に逃れた。然し後に日本人であることが露見し処刑された。
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