2013年10月19日土曜日

内藤湖南は復活するか

  「内藤湖南への旅」  粕谷一稀  藤原書店  2011年

 昭和9年に死去した内藤湖南は共産中国の出現を予言できず、「五・四運動以後の新しい中国の動きを理解できなかった」(増渕龍夫)と酷評された。のみならず戦後のある時期は日本・中国で戦犯なみの扱いを受けた。とくにその「文明中心移動説」は「文明」を「文化」にかえて日本軍国主義の中国侵略を隠蔽する学説として厳しく批判された。
 その湖南が最近徐々に復活しつつあるという。例えば「中国『反日』の源流」(岡本隆司 講談社 2011年)、「内藤湖南のアジア認識」(山田智/黒川みどり共編 勉誠出版 2013年)の刊行など。本書の出版がその嚆矢であることはいうまでもない。それは何故か。文革の急進主義を是正した鄧小平の「社会主義市場経済」という現実路線は経済的には成功したが、歴史観の問題として「中国はどちらの方向に向かうのか」という方向指示能力をうしなった。そして中国は次第に歴代王朝と同じ相貌を持ち始めたからだ。
 中国は専制と割拠から抜けきれないと考えたウィットフォーゲルや梅棹忠夫とちがって「支那人以上に支那人の立場にたって考えた」湖南は中国の内的発展を信じていた。そしてその湖南の中国認識の基礎になったのが「父老社会」の存在だと著者はいう。「父老社会」とは、中国の郷党社会には、独特の老人支配があって、その長は外交問題や愛国心には関心がなく、郷里の安全、家族の繁栄にだけ関心がある。それさえ満たされば従順に統治者に従う。たしかに中国では、国家は存在しても政治は機能せず、政治社会と普通社会はそれぞれ別々の世界を形づくっていた。相互は無関係かつ無関心であるという特異な構造を伝統的に保持し続けてきた。政府と人民の交渉は、ただ租税の徴収という一事のみで、未納さえなければ双方は関わり合いがなかった。
 「新支那論」において示された「停滞」する中国像を、西欧や日本の未来の姿として読み解こうとすれば、様々な可能性が引き出せる。それでは、このような可能性を有する中国像を提示しえた湖南はどこでその時評を間違え躓いたのか。それは中国を西洋化の途上にあるとする凡庸な進歩史観や、中国社会を分析する概念に日本社会の共同体の感覚をスライドさせる手つきの安易さ(「郷団」概念のイメージの甘さ)である。それが中国を見る目を狂わせ、また中国に接する態度をゆがませるという輿那覇潤の指摘は鋭い。(輿那覇潤「史学の黙示録ー『新支那論」ノート」 「内藤湖南のアジア認識」所収」)