2012年12月17日月曜日

「関西学院百年史」に描かれた関学全共闘の戦い

   「関西学院百年史 通史編2」 1998年 関西学院

 
 「関西学院百年史」(以下「百年史」)は全10章のうち9章「大学紛争と大学改革」を1969年の全共闘の「6項目要求闘争」にあてている。これは一時廃校寸前まで追い込まれた学院当局の衝撃の深刻さを物語っている。「百年史」では関学全共闘の6カ月にわたる全学バリケード封鎖闘争はどのように記述されているのだろうか。全共闘側の資料、「関学闘争の記録」(以下「記録」)「全国学園闘争の記録・関西学院学費値上げ反対闘争」が闘争途中(それぞれ4月、2月)で記述が終わっているのに対し、「百年史」のそれは闘争終了時まで及んでいる。
 69年入学の私には興味深い記述もある。「経済学部は、4月18日、奈良県北葛城郡の信貴山で新入生約600名のオリエンテーションを行った。この日の集合地である大阪城公園には全共闘約30名が履修指導粉砕を叫んで押しかけたが、混乱なく、バスで目的地に到着した」。他の学部については。社会学部が4月17日、18日の両日神戸海員会館。商学部は4月30日関西汽船による「瀬戸内海会場大学」。文学部は5月8日大阪厚生年金会館。神学部は5月9日大阪福島教会。理学部は5月16,17日和歌山県高野山。法学部については記述がない。 
 経済学部のオリエン阻止の全共闘30名という数字は正確だが、闘争の重要な局面における全共闘の動員数については「百年史」の記述には問題がある。以下「百年史」と全共闘側の記録を対比してみよう。
 
 まず1・24全学集会について。「百年史」では「全共闘学生500名一般学生500名が参加した」とある。然し「記録」では「全共闘ヘルメット部隊150人が介入し、大衆団交に切り替える。院長・学長は一切釈明しないばかりか、その場から逃走を図り、一般学生6000名の怒りを買った。その後2000名の学内大デモを貫徹」わずか150人くらいに学生集会を乗っ取られて逃亡したのでは格好がつかない。それで全共闘の数を水増しする。そして抗議デモの2000名を500名に割引する。
 2・6入試阻止について。「百年史」では「武装した全共闘学生250名が体育会館を襲撃し、(中略)800名の学生が学生会館前に座り込み」とある。然し「記録」によれば「全共闘武装部隊80人、右翼学生が看守する体育会館を攻撃し、完全粉砕。学館前で2000人の学友機動隊の導入
に抗議し、徹夜で座り込む」となっている。
 2・26-27全学集会について。「百年史」では「午後1時から6時まで第二グラウンドにおいて5000名が参加し、6時から翌朝1時まで中央講堂に場所を替えて約1500名が残った。(中略)
27日も正午から午後9時半まで中央講堂で行われ、学生約2000名が参加した」とある。「記録」は極めて簡潔。「全学集会粉砕総決起集会」に500人。当日は早朝から武装デモ。(中略)追及集会に切り替える。その後、場所を中央講堂に移し、再び追及するが堂々めぐり。(中略)前日に引き続き追及集会、院長、教授と学生を動員して居直る。5日に対理事会大衆団交を開催することを確約し、解散」。さすが「百年史」には「全共闘〇〇名」の記述はない。
 6・9王子集会について。「百年史」では「全共闘300名が会場に乱入し、(中略)スタンドの一万名に近い学生・教職員によって包囲されるかたちになり、グラウンドから場外に退出せざるを得なくなった」とある。「記録」は4月出版なので記述はない。それで「関西学院新聞(556号)によれば。
「8日から学内に泊まり込んだ全共闘学生約350名は11時より学館ホールで意志統一したのち、、途中で神大の学友100名を加えて王子に向かった。(中略)会場に入った全共闘は、会場内の学友100名を加えて共にジグザグデモなどをくりかえし、(中略)その後西灘付近でバリケードを
きづき、機動隊と衝突した」。スタンドを全関西から動員した応援団などの右翼学生で戒厳令的に制圧して、グラウンドの全共闘から隔離した。グラウンドの全共闘をできるだけ少なく見積もりたかった。然し全共闘は600名の隊列で介入し、市街地でのバリケード戦を1000名の規模で戦ったのだ。
 関学全共闘は活動家150人くらい、動員力も最盛期で2000名を超えない。「百年史」ではどうして全共闘の動員数についてブレがあるのだろうか。前期は多めに、後期は少な目にしたい意図はある。然し根本的な要因は、全共闘の組織原則に全く無知なことにある。そしてなにより学生が学院の何に対して怒り、大量に決起したかまるで理解出来てないことにある。「百年史」は「大学争紛争」の背景として「大学の古い制度や考え方、大学の管理・運営の仕方、マスプロ教育に対する批判、革命を目指す一部学生の煽動」などをあげている。たしかに5G別館のマスプロ授業は不満ではあった。然し学生が本当に怒ったのは、あの1・24集会で露呈した「ヘルメットを脱げ脱がない」論争しかできない大学の「知性の荒廃」に対してなのだ。学費値上げ反対など6項目要求は闘争のスローガンではあった。然したとえ学院当局が6項目要求を丸呑みしたとしても(ありえないが)、学生の怒りは収まらないのだ。



 

2012年12月2日日曜日

再び大谷探検隊について 

   「大谷探検隊研究の新たな地平」 白須浄眞 勉誠出版  2012年


 
 2001年著者は大谷探検隊に関する外交記録を外交資料館で見出した。その内容は実に驚くべきものだった。従来の大谷探検隊研究の成果を更に前進させる宝庫でもあった。著者は前著「大谷探検隊とその時代」で大谷隊の成果を「内陸探検の時代」と「日本近代史」の歴史的重層の所産であったと総括し、何故「忘れられた大谷探検隊」になったのかと疑問を呈した。この謎を解く鍵が外交記録の中にあった。
 外務省は何故大谷探検隊に関する外交記録を作成したのか。その理念は別としても大谷探検隊のアジア広域調査活動は、自己の勢力を扶植し守ろうとする英・露・清を中心とした各国の利害対立の舞台に飛び込むことになり、疑惑を招くのは当然であった。それは国際問題化した大谷探検隊の外交処理のためであった。
 大谷探検隊に対する露国外務省の抗議は既に第一次隊(1902~4年)から始まっている。これは日露開戦前という時代背景を考えれば当然である。そして1905年の日露戦争の終結は永年の英露対決に終止符をうち、英露協調(1907年英露協商)に転換した。チベットを情勢にも大いにに影響し、英露両国のチベットへの不干渉と清国のチベットに対する宗主権は国際政治社会で容認された。おりしも大谷光瑞は1908年山西省五台山に留まっていたダライラマ13世とのコンタクトに成功した。それは光瑞の思惑とは別に、彼が明確に国際政治舞台に登場したことを意味した。主催する大谷探検隊も同様に思われた。英露協商によって空白となったチベットに日本が介入するとみなされたのだ。外務省はそう想定されることを警戒した。英国は日本がチベットに接近しようとする試みをことごとく妨害した。第三次隊野村栄三郎のカラコルムパス通過拒否(1910年1月)はその最もたるもである。そのため第三次隊はインドからではなく遠くロンドンから内陸アジア入りを目指し出発した。その隊員橘瑞超も新疆省で清国外務部の執拗な抗議を受けている。
 それでは何故このような情報記録がこれまで知られていなかったのか。外交上の最重要機密として厳重に秘匿されていたからである。そしてそれは国際政治状況が変化しても変わることはなかった。大谷探検隊の研究者といえどこのような外交記録があることなど想像すらできなかった。これが「忘れられた大谷探検隊」の最深の根拠でもあったのだ。本書では従来知られることのなかった大谷探検隊の調査活動の実態と、当時の国際政治社会の中に映った調査活動の様相があますところなく詳述されている。それが自ずから前著の疑問の解明ともなっている。