2015年2月25日水曜日

西北研究所は日本帝国主義の走狗か~昭和史の謎を追う⑧

   「回想のモンゴル」 梅棹忠夫 中公文庫 1991年

 梅棹忠夫は「一生のうち、もういっぺんだけいってみたいところ」として「張家口、大境門外」と「わが心のふるさと~海外版」に記している。そして張家口(内モンゴル自治区)は次のように回想されている。「町の北を万里の長城がはしっていた。(中略)長城には門があり、大境門といった。それが中国の文明とモンゴルの未開をむすぶ連絡口だった。(中略)北の草原からは、らくだのキャラバンがおりてきた。それは遠い砂漠のかなた、ハミやトルファンなどという町からうりやほしブドウをはこんできた。そして、衣類や日用品などをつみこむと、また草原へかえってゆくのだった。」(本書P217)張家口は当時日本の傀儡「蒙彊政権」の首府であった。その張家口に「西北研究所」はあった。
 1943年大東亜省の大使館が張家口に設けられ、翌44年にその付属機関として西北研究所が設立された。もともとあった蒙古善隣協会の調査部を母体にして新たな研究機関として設立されたのである。発起人は蒙古文化協会の江実。「純粋にアカデミックな研究所として、中国の西北地区すなわちモンゴル以西の内陸アジアの本格的研究をはじめよう」というものであった。機関長(理事長)は土橋一次(蒙古善隣協会理事長、陸軍予備役中将)、所長は京大生態学の今西錦司、次長は民族学者の石田英一郎。文系の主任として藤枝晃、理系の主任として森下正明がいた。プロジェクトとして今西・梅棹の「モンゴル研究」と佐口透・岩村忍の「イスラム研究」があった。然し活動期間が短く充分な成果はあげられなかった。
 然し何故敗色の濃くなった1944年になって、張家口に生態学の研究所として西北研究所を設立したのか。土橋機関長は、「西北研究所」を表看板にしながら、実際は調査部を作ってソ連の情報を分析するために対敵貿易を構想していたと藤枝晃は推測している。西域経由で運送されてくる荷物を包んでいるウイグル語新聞から情報を得ようとするものであった。これは特務機関が実際に行っていたもので、それを西北研究所に移管しようと考えていた。実現には至らなかったが、その設置には極めて軍事的色彩の強い目的が付与されていた。特務機関と西北研究所は直接関係はないけれども、調査研究や実施の段階では無縁であったわけではない。1944年の今西・梅棹のモンゴル探検のプロジェクトや磯野夫妻の西ウジムチンでの住み込み調査などでは「便宜」を受けていた。研究テーマや調査内容については各自で自由に設定したとはいえ、現地での「日本人顧問」すなわち特務機関と接触をもたねばならなかった。
 磯野富士子は「冬のモンゴル」でその調査がどのようなものであったか、戦時の研究を自己批判的に描いている。西北研究所の関係者は戦後アカデミズムの中心となり脚光を浴びたが、そのような反省はきわめて少ない。とくに梅棹には「西北研究所の楽しき日々」が日本帝国主義に守られたものであったことに対する自覚が欠如しているようだ。1943年10月「在学徴集延期臨時特例公布」によって多くの学生は学業半ばに心ならずも戦場に赴いた。所謂学徒出陣である。その一方大学院特別研究生という制度で梅棹は兵役を2年猶予されて張家口に来た。まさしく戦争の中で、「学問」のために兵役を猶予され、特別待遇を受けた学者によってモンゴルに西北研究所が開かれたのである。