2020年5月14日木曜日

禁書「ウイグル人」を読む

  「ウイグル人」 トルグン・アルマス(東綾子訳) 集広舎 2019年

 トルグン・アスマンの「ウイグル人」の邦訳が刊行された。1989年民主化運動高揚の中で書き続かれ、天安門事件4か月後の10月かろうじて出版された(ウルムチ 新疆青少年出版社)。然し年末には書店から姿を消した。「甘州ウイグル国」の章が駆け足で終わり、予定されていた「ヤルカンドハン国」は書かれなかった。本書はいわばウイグル人の未完の歴史書である。反動化した中国当局は何故本書を禁書にしたのか。それは「中国が古来から統一多民族国家であるという事実や中原の漢族とも経済・文化の相互影響を無視し、ウイグル族の歴史を独立史として描いている」からに他ならない。
 トルグン・アルスマンは1924年カシュガル地区で生まれた。1942年省立師範学校卒業後、カラシャールの小学校校長となるが、国民党政府により2回の逮捕を受ける。
その後自治区文学文芸連合会の編集者を務め創作活動に励むが、70年に共産党政府により逮捕7年間重労働に服す。釈放後「匈奴簡史」、「ウイグル人」、「天山ウイグル国」、「チュルク人」、「ウイグル古代文学」など書いたが、出版後禁止される。軟禁状態が続き2001年死去。
 本書は2010年世界ウイグル会議により再刊されたものの翻訳である。楊海英がいうように「民族自決を目指す歴史書」であるが、その分欠点も目につく。汎ツラン(トルコ)主義にもとづく仮説の部分である。その第一はタリム盆地の原住民に対する認識の誤謬である。トルコ族がタリム盆地に住み着いたのは9世紀半ばのウイグル族のモンゴル高原からの南下(天山ウイグル王国の成立)が嚆矢であり、カラハン朝により加速した。然るに著者は、840年に移住してきたのは20万人の東部ウイグル人で、それより遥かに多い西ウイグル人がタリム盆地に大古より住み着いており、印欧語族の存在を否定する。タリム盆地で発見された大量の古文書はインドの言葉で書かれた仏教経典のみで、印欧語を使用するアーリア人種がこの土地に住んでいたことを証明するものではないとする。然しクチャ(トハラ語B),カラシャール(トハラ語A)、クロライナ(トハラ語C)、ホータン(ホータンサカ語)、カシュガル(ソグド語)では仏典以外多くの世俗文書が出土している。これらオアシスの住民は明らかに印欧語派に属するコーカソイドであることを物語っている。小河墓、古墓溝、鉄板河古墓出土ミイラの風貌もそれを補強している。ただしトルファンの出土文書は仏典のみで、車師族はアルタイ系という説もある(嶋崎昌)。第二はタウガチの語源についてである。匈奴では「服従」「植民地」の意味で中国をタウガチと呼んだとする。匈奴は周の時代山西省北部を占領していたので、中国をタウガチと呼んだという。然し定説では北方民族が中国をタウガチ(タムガチ)と呼称したのは、中国北部に建国した鮮卑系の拓跋氏の北魏(白鳥庫吉)や唐(桑原隲蔵)に由来すると考えられている。
 本書の瑕瑾は上記にとどまらないが、それは著者の汎ツラン主義に起因する。汎ツラン主義19世紀後半に流布したイデオロギーでトルコ系のみならずウラル・アルタイ系民族に対して言語的、文化的、歴史的な共通性を求めようとした。ウラル・アルタイ語族仮説は20世紀には日本や朝鮮まで拡大された。現ウイグル人は840年以降タリム盆地に定住したウイグル族と圧倒的多数のソグド人など印欧語族の混血種である。然し著者はこの結果を原因に帰因させる。例えば古墓溝で発掘されたミイラ(楼蘭の美女)。6412年前(実は3800年前)とされるミイラは明らかにコーカソイドの特徴を示しているが、著者はこれを現在のウイグル人に投影して「8000年前からタリム盆地に住み続けた」祖先であるとする。この本書の瑕瑾の非科学性をあげつらうのは中国的歴史観への無意識の屈伏だと三浦小太郎は解説するが、果たしてそうだろうか。それこそ「中国は古来から統一多民族国家である」という大漢族主義と同列で、それに拝跪するものではないのか。このような瑕瑾について補注などで補足説明されていないのは残念である。また著者は経歴から見れば、「民族共産主義者」として弾圧された東トルキスタン独立運動の系譜に連なると推測されるが、近代・現代の新疆ウイグル人の歴史を書かなかったことが惜しまれる。