2015年11月30日月曜日

ミイラは何語を話したか?~楼蘭王国③

    「楼蘭王国」 赤松明彦 中公新書 2005年

 2004年新疆文物考古学研究所の発掘隊はタリム盆地東端の楼蘭遺跡から西南140キロの小河墓(エルデク共同墓地)で「新しい美女」と名づけられた「楼蘭型」のミイラを発掘した。エルデク共同墓地はヘディン隊の考古学者ベイリマンによって1934年発見され一部発掘されたが、戦乱などにより忘れさられた。その後王炳華によって再発見され、2003年から本格調査が行われていた。「楼蘭型」ミイラの特徴は次のように要約できる。
①棺は野生ポプラの幹でできた厚板で作られている。②棺は牛などの皮で覆われている。③ミイラ
の全身は羊毛の毛織の布で包まれている。④ミイラはフェルトの帽子をつけている。⑤副葬品としてエフェドラの小枝や小麦の種もみが置かれている。⑥副葬品として植物繊維の編み上げた小籠が置かれている。
発掘された「新しい美女」は以上の特徴を全て合わせもっていた。また「楼蘭型」には絹製品が副葬品として出土せず、これらの墓は土着の住民たちのものである。ベイリマンたちは、この地で発掘したミイラの年代をBC100年前漢の時代、中国の影響が及びはじめる直前の時代と考えた。然しそれは違った。古墓溝や鉄板河で発掘された「楼蘭型」ミイラの炭素14による年代測定値は実に3800~4000年前を示していた。そしてこのミイラはいずれも非モンゴロイドのコーカソイド(白人種)の容貌をもっていた。
 (白人のミイラはどこから来たのか)小麦と羊を機軸とするメソポタミアの混合農業が拡散を始めたのはBC5000年頃である。タリム盆地への伝番経路は西(バクトリアモデル)と北(ステップモデル)が想定されるが、現在では後者が有力である。ステップモデルはロシアのクズミナが提唱した。後発のアンドロノヴォ文化(BC2000年紀)に押し出されるようにしてアファナシェヴォ文化(BC3600年)がタリム盆地に流入したとする。タリム盆地の最初の移住者は、アルタイ地方のステップから天山山脈の低い峠を越えて南下し盆地東部に居住した。その時期はBC2000年頃。その場所こそタリム盆地で最初の混合農業の遺跡古墓溝である。
 (ミイラは何語を話したか)19世紀末ペリオやル・コックによってタリム盆地の北東部で最後の印欧語の一語派であるトカラ語が発見された(発見された文書は8世紀のものであり、トカラ語は9世紀には死語になっていた)。そして驚くべきことに、この最も東端で発見された言語は印欧語の中の最も西端のケルト語に近かった。このトカラ語の祖語(原トカラ語、印欧語の西側グループ)がその他の言語(東側グループ)と分離したのは、BC2000年紀を更にさかのぼる。ミイラとトカラ語を結びつける輪は、アファナシェヴォ文化であると著者は推定する。すなわちアフォナシェヴォ文化は、後続する新しい印欧語派のアンドロノヴォ文化によって、ステップ地帯を東に追いやられたのである。つまり、古いトカラ語と同じように西に起源を持ちながら東の端に孤立しているのである。そして何より後代の楼蘭王国では、土地の人々がトカラ語の特徴を残した言語を話していたという事実である。スタインが発掘したカーローシュティー文書の解読によれば、3世紀頃の楼蘭王国では王の命令は全て、ガンダーラ語でカローシュティーという文字で書き写されていた。また土地の売買文書や高官たちの私信も同様である。そのような文書に記された人名・地名・土地の言葉には、トカラ語の特徴的な要素を保った単語が多く残されている。この事実はミイラがトカラ語を話したことを補強し、ミイラが楼蘭人の祖先であることを推定させる。
 楼蘭領域内で発見されたカローシュティー文書の解読について著者ならではの鋭い指摘がある。第一は「法(ダルマ)の観念」についてである。古代インドのダルマは内在的な原理である。例えば宇宙の法則や、社会的な法律、人間にとっての道徳や習慣など。一方中国の法は皇帝によって支えられている規範や枠組み。クロライナ王の命令文書(3世紀後半から4世紀はじめ)の時期は、西晋の宗主権を認めながら、実質的には自治体制を保持していた時期であった。文書345のキラムドラ(楔型の木簡)によれば「ダルマ」は「各地方・州における慣習的・伝統的なやり方」であり、前者である。「3世紀から4世紀にかけての楼蘭王国は、明らかに漢帝国のような国家とは違った統治の観念によって支えられた王国」であったと著者は指摘している。そして第二「はカローシュティー文書の王のいた場所」についてである。文書に現われる「クロライナ」という地名が漢字で「楼蘭」と音写されたことは間違いない。ヘディンが発見したLA(楼蘭)がそのままクロライナではない。そこが楼蘭と呼ばれるようになったのはAD222年以降である。「鄯善」と改名(BC77年)以前の楼蘭は領域名であって、一つの地点の名前ではない。したがって「文書」の中に現われてくるような場所は王都ではない。「文書」に現われない場所、木簡などが発見されない唯一の場所ミーランが王のいた場所だと著者は推定している。
 然し第二の推定については疑問もある。LAが楼蘭と呼ばれるようになったのは魏の西域長史府が置かれたAD222年以降とする根拠についてである。それはLA出土の文書の紀年、遺物の年代値が魏晋(3世紀)の時期をさかのぼれないということに過ぎない。これについては稿を改めたい。

2015年11月15日日曜日

「私の1960年代」を読む

    「私の1960年代」 山本義隆 金曜日 2015年

 山本義隆がながい沈黙を破って東大闘争と自らの1960年代について発言した。それが本書「私の1960年代」である。山本が入学した1960年の東大駒場は安保闘争の渦中にあった。全学連主流派(ブント)の下安保闘争に参加した経験は、その後の山本の「60年代」の原点となる。その後大管法闘争を闘い、東大ベトナム反戦会議を結成して砂川闘争・王子野戦病院闘争にとりくむ。東大闘争が始まった時、山本は大学院博士課程の3年生26歳であった。そして行き掛かり上東大全共闘(代表者会議)代表になる。本書には山本の「沈黙」の謎をとく興味深い記述もある。
 (今井澄とML派)東大全共闘は「自立した個人の集まり」というように「神話化」されて語られるが、実情はいくつかの政治党派(セクト)と無党派(ノンセクト)活動家の複雑な関係であった。山本によれば「学部の党派は、率直にいって口先ばかり達者」で、「もっとも協力的・献身的であったのがML派」であるという。そして11月段階で今井澄(ML派)が提起した「帝大解体・帝国主義大学解体」のスローガンが東大闘争を一歩高めたと証言する。この方針によって中途半端な妥協をせず69年1月の安田講堂死守闘争まで進むことが出来たたのだとも。今井澄はその安田講堂防衛隊長であった。東大闘争の意義の一つは、それまでの運動が法案の上程や条約の締結をめぐり街頭闘争で国会に圧力をかけてゆく運動であったのに対し、「帝大解体」を云うことによって、社会的に構造化された権力機構に自分たちの場であらがってゆくという運動を展開したことだとしている。
 (加藤近代化路線」と「総長室体制」)東大闘争敗北の最深の根拠は東大全共闘独力で全学封鎖できなかったことである。戦術的には全学封鎖の突破口たる図書館封鎖を日共=民青の「都学連」行動隊によって軍事的に粉砕されたことである。それに対抗するにはセクトの全国動員部隊に頼るしかなかった。その敗北過程で登場したのが加藤一郎総長代行(総長事務取扱い)による「加藤近代化路線」の導入である。加藤は代行引き受けに際して、「評議会で意見が分かれた時、または緊急を要するときは、その決定の責任を総長代行に任せる」という「紛争収拾」のための緊急措置を要求した。そしてこの「非常大権」は総長就任にともない「総長室体制」として既成事実化された。すなわち上からピックアップされた「特別補佐」として2名の有力教授と「補佐」として若手の近代派助教授数名が「総長室」を構成した。これを政策や方針の決定のため私的なブレーンとして若干名の教授と文部省から出向している大学の事務官僚が支えた。かくして「総長室」が情報を独占的に管理し、すべてを取り仕切る体制=「加藤近代化路線」が完成した。学部長会議や評議会は単なる事後承認機関に成り下がった。文部省や中教審が意図してきた「管理」と「教育・研究」の分離を大学の側から先取りするものであった。併行して「学部自治」、「教授会自治」は解体していった。これは大学が国家の官僚機構の末端に包摂される端緒となった。そこから国立大学の独立法人化は一瀉千里であると山本は云う。
 (「産学協同」について)東大闘争の時点においても「産学協同」は工学部や薬学部では広く進められていた。当時「反産協」をスローガンに掲げる反帝学評のようなセクトも存在した。然し個別の研究室レベルではなく、大学の機構そのものにおける「産学協同」となると話は別である。例えば「週刊金曜日」(2015.5.29)は次のように報じている。「三菱グループから東大に2013年度1年間で3億6700万円が寄付されている。同大学の『総長選考会議』と『経営協議会』という組織の委員には三菱重工相談役が就いている。国立大学法人・東京大学の大学運営に私企業である『三菱』が深くかかわっている」このようなあきれる現実は、東大闘争圧殺の過程で登場した「加藤近代化路線」の行き着いた先だと山本は指摘する。
 山本は「安田講堂陥落」後逮捕状を請求され潜行、その後全国全共闘結成日の9月5日会場で逮捕される。全国全共闘議長山本の活動阻止を狙ったものである。保釈(1970年10月末)後、東大地震研の臨職闘争に参加し2度目の逮捕(71年3月)。保釈後駿河台予備校の講師を勤めた。
専門の物理学の研究は、学会とは縁を切って独力で続け、「磁場と動力の発見」(毎日出版文化賞)など多くの科学史関係の書物を刊行している。然し、なにより「68・69を記録する会」を立ち上げ全共闘運動の記録を残す活動に挺身した。とくにその白眉は東大闘争中のビラ・パンフ・討議資料・大会議案・当局側資料など5000点を収録した「東大闘争資料集」(1967~69.2)の刊行である。ゼロックス・コピーのハードカバー製本28巻とマイクロフィルム3本。山本は保釈後広松渉に「立場上、今後いつまでも注目され、いろいろな人からいろいろなことを言われ、大変でしょうけれど、ひとつお願いしたいのは、評論家のようなものにはならないでください」と云われたという。その言葉どうり、東大闘争について評論家のように語ることは自ら厳禁した。そのような山本の「沈黙」をたてに「全共闘運動」の総括を回避しようとする風潮があるが、それは明確に違う。山本の「東大闘争資料集」の刊行はそのような「風潮」に「NON]をつきつけている。