2014年9月23日火曜日

大空のシルクロード~昭和史の謎を追う⑥

  「満州航空の全貌」 前間孝則 草心社 2013年

 第二次世界大戦前の一時期、日本には「欧亜連絡航空路」構想というのがあった。東京と満州の新京、ドイツのベルリンを中央アジア経由の空路で結ぼうというものである。空のシルクロードとでもいうべき1万2千キロの日独航空路の開拓構想である。この構想を強力に推し進めたのが満州航空の永淵三郎である。満州航空はその成立も含め関東軍の強い影響下にあった。関東軍の「中央アジア防共回廊」工作ともあいまって、実現するかに見えたが、日中戦争の勃発などにより頓挫した。
 関東軍は陸軍中央から華北工作への関与を抑制されたが、内蒙工作に関しては認められていた。関東軍の欲求のはけ口は内蒙から更に西へ拡張した。寧夏、甘粛、青海、新疆へと延び、アフガニスタンでドイツと連絡して防共回廊を建設しようという欧亜連絡航空路計画にのめり込んだ。陸軍中央や外務省は関東軍の「赤化防止」の強調を単なるイデオロギー問題としか受け止めていなかった。そのため日中の外相会談で日中共同防共や日中航空路交渉を主要課題としたことは、その主観的意図(関東軍の華北への関与の防止)とは逆に、欧亜連絡航空路を設定して中央アジアに防共回廊を建設しようという関東軍の後押しをする結果となった。
(欧亜連絡航空路の内容)交渉は民間ベースで進み、1936年12月18日満州航空・恵通航空とルフトハンザの間で関係国政府の許可を留保するという条件つきで「協定」が締結され、翌年3月20日に日本政府は閣議で承認した。協定によれば航空路は「伯林ーロードスーバグダッドーカヴールー安西ー新京ー東京の定期航空路」(第二条)である。第四条ではカヴール以西はルフトハンザ、以東は満州航空が航空路の整備と試験飛行の責任を持つとある。また第六条では開始時期を1938年初頭の3ヵ月と定めている。
 当時の航空技術では、新京からカヴールまで直行できる航空機はなく、中継飛行場が必要であった。当初安西に中継飛行場を置く予定であったが、満州航空の使用するスーパー機の航続距離
(1200キロ)は短かった。そのため包頭に飛行場を整備し、アラシャン、オジナに前進補給基地を設置する必要があった。
 1936年9月関東軍はアラシャン(定遠営)に飛行場を整備した。更に11月23日第1次輸送隊が500箱のガソリンを陸路で搬送した。同年9月15日満州航空3名がオジナに入り、25日には特務機関員6名も陸路で到着した。そしてアラシャンーオジナ間の定期航空(週1便)を開始した。また関東軍は特務機関員大迫武夫を青海省の馬歩芳の下に送り、回教軍閥の懐柔工作を進めていた。然しこの時綏遠事件がおこり、その失敗により関東軍は前進拠点を喪失し、アラシャン・包頭の飛行場は使用不能になった。
 一方日独防共協定交渉は進展し、国策レベルでは航空路構想は具体化していた。その成否のカギは安西飛行場の確保にあった。1937年2月の時点でも馬歩青は「飛行場の設定並びに飛行機の乗り入れ」に異存のないことを関東軍に確約していた。そして国際航空(満州航空特航部を改組)は1937年5月ドイツより航続距離3600キロのハインケルHe116型2機の購入を決めていた。カヴールから包頭まで無着陸で飛行できた。パミール高原の最低部であるワハン回廊の峠(5600米)を安全に越える性能を持つ機種として、He116型機を高度仕様にかえ、8席の客席を持つ旅客機に改造するという仕様で発注していた。だが大きな手違いがあり、実際に納入されたのは(1938年4月23日羽田到着)ルフトハンザが南米線の郵便輸送機用として設計されたもので、上昇限度は4300米に過ぎなかった。パミール高原を越えることは不可能であった。何故この空域を「乃木号」「東郷号」と命名された2機が一度も飛ばなかったのかの疑問が氷解する。石川島播磨で永年ジェットエンジン設計に携わった著者ならではの鋭い探求である。
そのようなミスは別にしても、盧溝橋事件(1937年7月7日)の勃発に始まる日中戦争の全面化で、「欧亜連絡航空路」構想は挫折する。「協定」のいう「関係国の許可を留保するという条件つき」の物質的基礎そのものが失われたからである。
(後日譚
日中戦争の全面化によって、消えたのは「構想」だけではない。敵中に孤立して撤退できなかったオジナの特務機関員と満州航空社員、そして行方不明となった第2次ガソリン輸送隊員はどうなったのか。国民政府側の李翰園(寧夏省民政府長)の手記によれば。7月7日夜李は馬歩康の部隊とともに日本人10名を逮捕し、20日粛州に送った。また寧夏省磴口県で大2次輸送隊の3名を補足した。合わせて日本人13名は蘭州に送られ、日本航空隊の蘭州爆撃の報復として10月11日蘭州城安定門外で処刑された。この処刑の様子はドイツ人カトリック司祭が目撃している。第2次輸送隊の荷物には相当数の武器類(小銃、機関銃、弾薬)が含まれていた。これは関東軍より馬歩芳への贈り物であったという。実際馬はそれをすべて回収している。またこのキャラバンの案内人蒙古人サンジャチャップ(大迫武夫)はからくも馬歩康に救われ、西寧に逃れた。然し後に日本人であることが露見し処刑された。

2014年9月3日水曜日

1968年のクロニクル~関学全共闘前史③

 「関西学院新聞」縮刷版 1968年より


 「43学費闘争」の敗北から新たな「6項目闘争」の幕開けまで1968年の関学キャンパスの情況はどうであったのか。そしてそれと密接に関連する兵庫県の学生運動はいかに展開されていたのか。関西学院新聞1968年を参考にして素描してみよう。
 関学全共闘の「43学費闘争」に対して学院当局は3月23日26名(退学11名、無期停学8名、停学7名)の大量処分で答えた。内訳は社会学部7名、文学部9名、商学部3名、法学部7名で、最も強硬に戦った社自治会に対して全員退学と厳しかった。ついで処分の厳しかった文闘争委の動揺は深刻であった。9名と量的にも最大で、無期停学というのは期限のない分より過酷であった。当時の学生運動に対する処分は所謂「矢内原三原則」に準拠するもので、ストライキを決議した自治会執行部(委員長)、学生大会議長、ストライキ提案者の三者であった。「教育的処分」であり形式的でもあり、反省の態度が認められれば解除するというものであった。然し関学の教授会は違った。
「4月17日、法学部教授会22日付で、7名の処分解除を発表した」(学院新聞542号 5月15日)
最も民主的と言われた法教授会は慣例に従い処分を解除した。然し社教授会はかたくなであった。「社教授4名(田中、遠藤、倉田、杉原学部長)は5月8日第一会議室で学生70名と団交。
『被処分者は学生でないから、彼らを会議に加えれば話し合わない』と拒否」(学院新聞543号 5月30日)「教育的」という配慮は微塵もない。この「論理にならない論理」は6項目闘争でも、学院当局が話し合いを拒否する時しばしば使われることになる。
一方大学生協は総代会で被処分者も総代として承認している。「5月25日第17回生協総代会は『被処分者5名を総代として認めるか』の動議を賛成多数で可決」(学院新聞543号) 
商学部・文学部で処分が解除される。商学部は全員だが、文学部は一部にとどまる。
「文学部では6/15付で無期停学2名と退学1名の処分を解除。商学部では無期停学の3名の処分を解除」(学院新聞546号 9月15日)ただし文のY全執副委員長の退学処分解除は誤りとの訂正が出る。最も右翼的な社教授会、また一部反動教授をかかえる文教授会の処分に対するかたくなな対応が、6項目闘争の火種になり、その泥沼化の大きな要因になったのである。
4.26国際反戦統一行動(神戸)
「県学連統一行動には、学院150人、神大150人、神戸商船大・神戸商大・神戸女学院など400人が結集。(中略)社会学部自治会は処分闘争に集中するとして参加を呼びかけなかった。(中略)関学反戦がこの日のデモに初めて参加した。」(学院新聞541号 4月30日)処分への対応によって反戦闘争の取り組みに差がでてきたのである。
5月30日反戦反安保を軸に神戸では
「学院・神戸外大の反帝学評70名、革マル全学連30名、社学同ML派10名の計110名がデモ。生田区総合庁舎前で神大の中核派30名が加わり、うずまきデモ」(学院新聞543号)反帝学評・革マルブロックの親密ぶりがうかがえる。
一方改選期を迎えた各学部自治会の動向はどうであったのだろうか。
(経済学部)5月29日の自治会選挙では闘争放棄の民青系に代り革マル系(425票)が当選。次点は反帝学評系(274票)。(学院新聞542号)
(商学部)5月20日の自治会選挙では、反帝学評系(487票)が前執行部の青年インター系(374票)を破って当選。総投票数1200票(42.6%)で前年より26%と大幅に上昇している。(学院新聞543号)青年インター内では「加入戦術」方針をめぐって分裂が進行。翌年3月には社青同国際主義派を正式に解散し、独自組織の国際主義学生同盟(学生インター)を結成する。関学の青年インターは他派に吸収されたりし、消滅する。
(文学部)5月21日の自治会選挙で前執行部の民青系は学費闘争からの逃亡で候補も立てられない。また文闘委も壊滅状態で各派が乱立。フロント系候補(417票)が反帝学評系(282票)、ML系(82票)、革マル系(82票)をおさえて当選。(学院新聞543号)総じて反帝学評、革マルの勢力が伸長している。とくに革マルは43学費以降、それまでの「学生会議」にかえて「関学全学闘」を名のって登場している。
9月7日関西反帝学評第1回大会
社青同解放派は大阪中之島公会堂で関西反帝学評結成大会を開催。学院、関西大、京大などから100名結集。(「資料戦後学生運動別巻」三一書房1970年)
法学部では反帝学評系候補が対立候補のないまま無投票で当選。他派は候補もたてられない。社会学部でもフロント系の執行部が確立。(学院新聞546号 9月30日)
9月21日伊丹軍事基地撤去闘争
関西地区反戦、反帝全学連(反帝学評、社学同)1000名、中核全学連200名、革マル全学連100名、自治会共闘200名、高校生など3000人が参加。新明和工業前で投石合戦、45名が逮捕。(学院新聞546号)
10月21日神戸で県学連千名が決起
兵庫県学連の約1000名が決起。学院100名、神大850名、商船大・神戸女学院など120名、神戸行動委50名。(学院新聞547号 10月31日)
11月10日大16回兵庫県学連大会
学院2号別館で150名を集めて開催。フロント派と反帝学評の対立で運動方針を出せず、役員人事のみで閉会。これが最後の県学連大会になる。(学院新聞548号 11月20日)
11月神戸港軍事使用反対闘争に全関西から千人
中核派300人、社学同100人、反帝学評80人、革マル100人、毛沢東思想40人など学生700人が参加。神大で午後3自から中核、フロント、民学同、社学同、反帝学評により別個に集会が開かれ、4時半に教養部を出発、三宮市役所前集会に合流。(学院新聞548号)もはや県学連としては闘争が組めない。フロントの動員がめっきり減っている。とくに神大フロントは住吉寮闘争に便乗したにかかわらず70~80人しか動員できない。
11月21日全学執行委員長に反帝学評系のW候補が当選
反帝系(1351票)がフロント系(1164票)ブント系(620票)を破り当選。これは10月31日に不信任されたフロント系のN執行委員長の後を受けたもの。(学院新聞548号)学院でもフロントの退潮と反帝学評の伸長が進行している。フロントの退潮は最大拠点神大でも同様である。12月教養部選挙では、前期多数を占めたフロントは全員落選、新執行部は民学同7名、中核系1名、NR1名、民青系1名という構成になっている。
12月8・9日革マル派と反帝学評の党派闘争
「9日正午すぎ、関学法学部前広場で完全武装した反日共系全学連社青同解放派の学生約40人と同革マル派の学生約20人が角材を持って乱闘、法学部自治会室の窓ガラスがこわされ、学生会館に逃げ込んだ革マル派が机やイスでバリケードを築くなど大騒ぎになったが、約20分でおさまった。(中略)東大・早大など東京での両派の衝突が関学まで波及したものとみられ、11月末の全学執行委員長選挙で前執行部の構造改革派(フロント)を倒し学内での主導権をとった反帝が、戦術的にあいいいれない革マルとぶっかったものらしい」(神戸新聞68年12月10日)
かくして革マル派は関学キャンパスから追放され、同派の経済学部自治会も崩壊した。68年の革マル・反帝・フロントのブロックはフロントの退潮、革マル・反帝の党派闘争激化で、全国的にも関学でも崩壊した。このような状況下で関学6項目闘争は幕を開けることになる。然しこの「党派闘争」は革マルのみならず反帝学評にとってもダメージは大きかった。全執・法・商の自治会を掌握して学内主流派になった反帝学評だが、その後の6項目闘争において一度も主導権をとれなかったのである。W全共闘議長(全執委員長)はあの1・24集会には登場できなかったのである。