2014年9月3日水曜日

1968年のクロニクル~関学全共闘前史③

 「関西学院新聞」縮刷版 1968年より


 「43学費闘争」の敗北から新たな「6項目闘争」の幕開けまで1968年の関学キャンパスの情況はどうであったのか。そしてそれと密接に関連する兵庫県の学生運動はいかに展開されていたのか。関西学院新聞1968年を参考にして素描してみよう。
 関学全共闘の「43学費闘争」に対して学院当局は3月23日26名(退学11名、無期停学8名、停学7名)の大量処分で答えた。内訳は社会学部7名、文学部9名、商学部3名、法学部7名で、最も強硬に戦った社自治会に対して全員退学と厳しかった。ついで処分の厳しかった文闘争委の動揺は深刻であった。9名と量的にも最大で、無期停学というのは期限のない分より過酷であった。当時の学生運動に対する処分は所謂「矢内原三原則」に準拠するもので、ストライキを決議した自治会執行部(委員長)、学生大会議長、ストライキ提案者の三者であった。「教育的処分」であり形式的でもあり、反省の態度が認められれば解除するというものであった。然し関学の教授会は違った。
「4月17日、法学部教授会22日付で、7名の処分解除を発表した」(学院新聞542号 5月15日)
最も民主的と言われた法教授会は慣例に従い処分を解除した。然し社教授会はかたくなであった。「社教授4名(田中、遠藤、倉田、杉原学部長)は5月8日第一会議室で学生70名と団交。
『被処分者は学生でないから、彼らを会議に加えれば話し合わない』と拒否」(学院新聞543号 5月30日)「教育的」という配慮は微塵もない。この「論理にならない論理」は6項目闘争でも、学院当局が話し合いを拒否する時しばしば使われることになる。
一方大学生協は総代会で被処分者も総代として承認している。「5月25日第17回生協総代会は『被処分者5名を総代として認めるか』の動議を賛成多数で可決」(学院新聞543号) 
商学部・文学部で処分が解除される。商学部は全員だが、文学部は一部にとどまる。
「文学部では6/15付で無期停学2名と退学1名の処分を解除。商学部では無期停学の3名の処分を解除」(学院新聞546号 9月15日)ただし文のY全執副委員長の退学処分解除は誤りとの訂正が出る。最も右翼的な社教授会、また一部反動教授をかかえる文教授会の処分に対するかたくなな対応が、6項目闘争の火種になり、その泥沼化の大きな要因になったのである。
4.26国際反戦統一行動(神戸)
「県学連統一行動には、学院150人、神大150人、神戸商船大・神戸商大・神戸女学院など400人が結集。(中略)社会学部自治会は処分闘争に集中するとして参加を呼びかけなかった。(中略)関学反戦がこの日のデモに初めて参加した。」(学院新聞541号 4月30日)処分への対応によって反戦闘争の取り組みに差がでてきたのである。
5月30日反戦反安保を軸に神戸では
「学院・神戸外大の反帝学評70名、革マル全学連30名、社学同ML派10名の計110名がデモ。生田区総合庁舎前で神大の中核派30名が加わり、うずまきデモ」(学院新聞543号)反帝学評・革マルブロックの親密ぶりがうかがえる。
一方改選期を迎えた各学部自治会の動向はどうであったのだろうか。
(経済学部)5月29日の自治会選挙では闘争放棄の民青系に代り革マル系(425票)が当選。次点は反帝学評系(274票)。(学院新聞542号)
(商学部)5月20日の自治会選挙では、反帝学評系(487票)が前執行部の青年インター系(374票)を破って当選。総投票数1200票(42.6%)で前年より26%と大幅に上昇している。(学院新聞543号)青年インター内では「加入戦術」方針をめぐって分裂が進行。翌年3月には社青同国際主義派を正式に解散し、独自組織の国際主義学生同盟(学生インター)を結成する。関学の青年インターは他派に吸収されたりし、消滅する。
(文学部)5月21日の自治会選挙で前執行部の民青系は学費闘争からの逃亡で候補も立てられない。また文闘委も壊滅状態で各派が乱立。フロント系候補(417票)が反帝学評系(282票)、ML系(82票)、革マル系(82票)をおさえて当選。(学院新聞543号)総じて反帝学評、革マルの勢力が伸長している。とくに革マルは43学費以降、それまでの「学生会議」にかえて「関学全学闘」を名のって登場している。
9月7日関西反帝学評第1回大会
社青同解放派は大阪中之島公会堂で関西反帝学評結成大会を開催。学院、関西大、京大などから100名結集。(「資料戦後学生運動別巻」三一書房1970年)
法学部では反帝学評系候補が対立候補のないまま無投票で当選。他派は候補もたてられない。社会学部でもフロント系の執行部が確立。(学院新聞546号 9月30日)
9月21日伊丹軍事基地撤去闘争
関西地区反戦、反帝全学連(反帝学評、社学同)1000名、中核全学連200名、革マル全学連100名、自治会共闘200名、高校生など3000人が参加。新明和工業前で投石合戦、45名が逮捕。(学院新聞546号)
10月21日神戸で県学連千名が決起
兵庫県学連の約1000名が決起。学院100名、神大850名、商船大・神戸女学院など120名、神戸行動委50名。(学院新聞547号 10月31日)
11月10日大16回兵庫県学連大会
学院2号別館で150名を集めて開催。フロント派と反帝学評の対立で運動方針を出せず、役員人事のみで閉会。これが最後の県学連大会になる。(学院新聞548号 11月20日)
11月神戸港軍事使用反対闘争に全関西から千人
中核派300人、社学同100人、反帝学評80人、革マル100人、毛沢東思想40人など学生700人が参加。神大で午後3自から中核、フロント、民学同、社学同、反帝学評により別個に集会が開かれ、4時半に教養部を出発、三宮市役所前集会に合流。(学院新聞548号)もはや県学連としては闘争が組めない。フロントの動員がめっきり減っている。とくに神大フロントは住吉寮闘争に便乗したにかかわらず70~80人しか動員できない。
11月21日全学執行委員長に反帝学評系のW候補が当選
反帝系(1351票)がフロント系(1164票)ブント系(620票)を破り当選。これは10月31日に不信任されたフロント系のN執行委員長の後を受けたもの。(学院新聞548号)学院でもフロントの退潮と反帝学評の伸長が進行している。フロントの退潮は最大拠点神大でも同様である。12月教養部選挙では、前期多数を占めたフロントは全員落選、新執行部は民学同7名、中核系1名、NR1名、民青系1名という構成になっている。
12月8・9日革マル派と反帝学評の党派闘争
「9日正午すぎ、関学法学部前広場で完全武装した反日共系全学連社青同解放派の学生約40人と同革マル派の学生約20人が角材を持って乱闘、法学部自治会室の窓ガラスがこわされ、学生会館に逃げ込んだ革マル派が机やイスでバリケードを築くなど大騒ぎになったが、約20分でおさまった。(中略)東大・早大など東京での両派の衝突が関学まで波及したものとみられ、11月末の全学執行委員長選挙で前執行部の構造改革派(フロント)を倒し学内での主導権をとった反帝が、戦術的にあいいいれない革マルとぶっかったものらしい」(神戸新聞68年12月10日)
かくして革マル派は関学キャンパスから追放され、同派の経済学部自治会も崩壊した。68年の革マル・反帝・フロントのブロックはフロントの退潮、革マル・反帝の党派闘争激化で、全国的にも関学でも崩壊した。このような状況下で関学6項目闘争は幕を開けることになる。然しこの「党派闘争」は革マルのみならず反帝学評にとってもダメージは大きかった。全執・法・商の自治会を掌握して学内主流派になった反帝学評だが、その後の6項目闘争において一度も主導権をとれなかったのである。W全共闘議長(全執委員長)はあの1・24集会には登場できなかったのである。

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