「楼蘭はなぜ滅んだか」 伊藤敏雄 ~「イエローベルトの環境史」 弘文堂 2013年~
楼蘭の滅亡については、従来その原因として下記の五つの説が提示されている。①交易路(シルクロード主要ルート)の変化、②戦争や征服、③環境の変化(ロプ・ノールの涸渇)、④中国王朝駐屯軍の撤退、⑤僧侶の腐敗。然しいずれも実証が不十分で、楼蘭(鄯善)王国の滅亡と楼蘭地区(LAを中心とする遺跡分布地区)の荒廃を混同している。とくに長澤和俊の研究(楼蘭王都は終始LAにあった)の影響により同一視している説が多いと著者は指摘している。そして楼蘭王国の滅亡と楼蘭地区の荒廃は分けて考察すべきだとして、以下のような仮説を提示している。
A楼蘭王国は当初楼蘭地区に都を置いたが、前漢の西域都護設置(全60年)前後か後漢前期に 若羌地区に遷都した。若羌地区の鄯善王国は北魏の征服(448年)で滅亡し、その後住民は離散 した。
B楼蘭地区は遷都以降、中国王朝の駐屯軍が駐屯し、屯田を展開。その後前涼か北魏の時代に駐屯軍は撤退。隋・唐では楼蘭地区の戦略的重要性が失われたため、駐屯軍は派遣されなくな った。
Cその背景としては、シルクロードの主要ルートの変更やクム・ダリヤとその下流域の涸渇が想定 できる。後者は実証困難である。駐屯軍が撤退した結果、水利施設が再開発されることなく荒廃してゆき、時期は不明であるがクム・ダリヤとその下流域が涸渇するようになり、荒廃に変わっていった。
楼蘭(鄯善)国都については北方説、南方説、南遷説があるが、著者は南遷説である。北方説批判の根拠は、①LAからは前漢時代の遺物は出土せず、炭素14測定値も前漢晩期から後漢時代の年代の数値を示している。故にLAは前漢末期・後漢時代に建設され、魏・晋時代の西域長吏府であるとする。②カロシュティー文書の語句クロライナ(楼蘭)、クヴァニ(扞泥)、マハームタ・ナガラ(大都市)が同一のものを指すということがLA国都説の根拠とされてきたが、クロライナ=マハームタ・ナガラは実証されているが、クロライナ=クヴァニは実証されていないとする。然し①については故城内三間房背後の地層に焼け跡が見られるので、故城建設以前に都市・集落があった可能性は捨てきれない。それは伊藤もLAは再建された可能性があるとかつて指摘している。(「楼蘭国都考」 西北出土文献研究6号)②についてはクロライナ=マハームタ・ナガラは論証されており、クヴァニ=マハームタ・ナガラであれば、クロライナ=クヴァニは成立する。
仮説Aについては、遷都の時期を西域都護設置から後漢後期としているが、これは早すぎる。カロシュティー文書によれば5代の王の治世(榎説246-341年、長澤説203-288年)は国都はLAであったことがわかる。ただし榎も4世紀のある時期に国都がミーラン方面に移動したとしている。Bについてはシルクロード新道(玉門関から五船を経てトルファン)の開設によって中道(玉門関ー都護井ー三隴沙ー居蘆倉ー沙西井ー楼蘭)がすたれ、楼蘭の中継地としての重要性が低下したことが認められる。
楼蘭地区の荒廃の原因は水利施設の維持管理もさることながら塩害であった。佐藤洋一郎によれば過灌漑によって塩が地面に吹いてしまったためという。(「よみがえる緑のシルクロード」岩波書店 2006年)漢書西域伝によれば楼蘭の人口は1万7千人。人ひとりが年間に食べる小麦を100キロ、1ヘクタール当たりの生産量を1トンと仮定すると、1万7千人分の畑は最少でも1700ヘクタールになる。つまり4.5キロ平方の畑がなければ、これだけの人口はささえられない。実際には楼蘭地区の可耕地は城の北側からクム・ダリヤ下流域に散在していた。クム・ダリヤからの取水は相当量に達した。塩害が楼蘭地区を荒廃させ、のみならずタリム盆地の沙漠化を進行させた。ただし、これは文献によっては検証不可能である。
0 件のコメント:
コメントを投稿