2014年10月22日水曜日

幻の湖~ロプ・ノールの謎

   「湖が消えた ロプ・ノールの謎」 石井良治 築地書館 1988年


 1934年スウェン・ヘディンはクルック・ダリヤ、クム・ダリヤをカヌーで流れ下り、出来たばかりの新ロプ・ノールに到達した。かつて(1900年)歩いてたどったクム・ダリヤの河床に水がもどっていたのである。そして30年前に唱えたロプ・ノールは1500年を周期に南北に移動するという「さまよえる湖」説を鮮やかに実証した。
 ヘディンは、ロプ地方のような平坦な砂漠地帯では、河水はきわめてわずかな地表の変化にでも対応し、流路は敏感に変わると考えた。河道の変遷は流水の堆積作用と風蝕によって起こる。楼蘭遺址から出土した漢文紀年文書の下限によれば、330年頃ロプ・ノールに流入していたタリム河は、堆積作用の結果、流路を南方にかえてカラ・ブラン、カラ・コッシュを形成したとした。そして今後カラ・ブラン、カラ・コッシュの両湖には堆積物が沈殿しつつあり、一方ローラン方面の砂漠は風蝕が進んでいるので、川水は再び東流し、かつての旧湖床にもどると予言した。ロプ・ノールは南北に移動する「さまよえる湖」だとした。その予言は見事に実証されたかに見えた。
 この「さまよえる湖」説が市民権を得るまでには長い「ロプ・ノール論争」があった。中国では黄河の源流と考えれれていたロプ・ノールはタリム河が東流した末端、クルック・タグの南にあると考えられてきた。1863年刊行の「大清一統図」にもそう描かれている。1876~7年ロシアのプルジェヴアルスキーはタリム河を探検し、カラ・ブランがタリム河の末端であることを確認した。タリム河は東流せず、南流しており、カラ・ブランは中国古地図のロプ・ノールより1度南に位置していた。プルジェヴアルスキーはカラ・ブランこそロプ・ノールであると主張した。これに対しドイツの地理学者リヒトホーヘンは、中国の古文献によればロプ・ノールは鹽湖でなければならないとした。カラ・ブラン(そしてカラ・コッシュ)も淡水湖であった。ロプ・ノールはもっと北方にあり、東流するタリム河の一支流を見落としていると批判した。その後プルジヴアルスキーの弟子コズロフとリヒトホーヘンの弟子ヘディンが論争に加わった。この論争に終止符を打ったのがヘディンの1934年クム・ダリヤ探検であった。
 然し、ロプ・ノールは「さまよえる湖」ではなかった。中国科学院のロプ・ノール調査(1981~2年)結果によれば、ロプ・ノールの水はすっかり涸れてしまっていた。「1959年の調査では、煙波ひろびろたゆたう湖面に水鳥が群れ遊び、絵のように美しい景色で、人の身の丈ほどの大魚を捕えた」のに、この変わりようである。原因は気候の変化などによる自然の働きではなく、人為的に水流が分断されたためである。1952年ボストン湖から流れ出るコンチェ・ダリヤの水を南へ流すためのダムが構築されたのが、ロプ・ノールが干上がった直接の原因である。夏訓誠隊長は調査結果を次のように述べている。
①ロプ・ノールの最低部は778米、カラ・コッシュ最低部は788米。ロプ・ノールの水がカラ・コッシュに逆流することはない。
②タリム河や孔雀河がロプ・ノールに流れ込む際の水には、泥や砂が少ない。土砂が河を埋めることはない。
③涸れた湖底は、硬い岩塩層でおおわれているので、風の浸蝕によって新しいへこみが作られることはない。
④ロプ・ノール湖底をボーリングした結果、各地層からガマ、ハマスゲなどの水生植物の胞子が発見された。このことはロプ湖がずっと水をたたえ、湖水が移動しなかったことを語っている。
⑤堆積物に含まれる炭素を用いて年代測定すると、深さ1.5米の堆積物は3600年間かかって湖底に積もったことがわかった。これは湖底の沈殿作用が3600年間進行したことを物語っている。(夏訓誠報告「人民中国」1983年12月号)
著者はこの調査報告は必ずしも、「さまよえる湖」説を積極的に否定する直接的証拠にはならないとしている。例えば④のボーリング結果にしても、「地層が下から上までとぎれることなく連続して堆積したのであれば、湖底はずっと水におおわれていたことになります。しかし何層かの地層があるということは、層と層の間にとぎれた期間があったということは明らか」(本書P145)である。湖底はある時は水をたたえ、ある時は水が涸れて地表に出ていたかもしれないとしている。
長澤和俊によれば内陸アジアの鹽湖は、ガシュン・ノール(居延海)やバルハシ湖など大湖が二つに分かれたものも少ない。ロプ・ノールもそうであるという。プルジェヴアルスキーが探検した頃は、たまたま河水の少ない時期で、タリム河は東流していなかった。水量豊富な時期は、昔のように最も低い地域に水は流れていた。ロプ・ノールは乾燥化とともに二つに分かれた。その正体は「さまよえる湖」ではなく二つに分かれたロプ・ノールの末路であったと。(「楼蘭王国」長澤和俊 徳間文庫 1988年)
 その後のロプ・ノールについてふれておこう。1998年1月6日付の新華社電は次のように伝えている。現在,塩殻に覆われた砂漠になっていて「地下には死海と同様の巨大な塩湖があることが判明した」とある。浅い所で地表から2米掘れば到達する地下塩湖は、面積1300平方キロに及び、水深60米、塩分濃度は35%で海水の十倍となっている。また1997年10月、東大山岳部OBなどの楼蘭探検隊(増田昌司隊長)が四輪駆動車と徒歩でトルファンからタリム盆地を南下してロプ・ノール旧湖に到達。そして現在乾燥湖になっているロプ・ノールに小規模な湧水を発見した。(「冒険物語百年」武田文男 朝日文庫 1999年 P151)
なおロプ・ノール旧湖床が中国の核実験場になっている説があるが、これは誤り。場所は近いが、楼蘭遺址西北の砂漠地帯である。これについては稿を改めて詳述する。