2014年12月17日水曜日

再び「李柏文書」について~大谷探検隊外伝②

  「大谷光瑞とスヴェン・ヘディン」 白須浄眞 勉誠出版 2014年

 大谷光瑞とスヴェン・ヘディンは20世紀初頭のある時期急接近した。それはあの「李柏文書」の発見にも直結するという。本書の編者白須浄眞はその急接近の背景を当時の国際政治社会の解析を通じてスリリングに解き明かす。
 「ラサ条約(1904年)」を改訂した「チベットに関する英清条約(1906年)」、それに続く「英露協商(1907年)」のチベットに関する取り決めは、当時チベットを探検中であったヘディンを苦しめるものであった。そのヘディンを外交の場まで出かけて支援したのが、西洋の探検家たちではなく、日本の探検家大谷光瑞であった。光瑞はこのため1907年4月北京に乗り込み、ヘディンのため、西蔵域内での探検を可能とする清国護照(パスポート)の取得さえ試みたのだ。それ故ヘディンは幾多の西欧諸国の招聘を断り来日(1908年11~12月)したのである。そしてヘディンは「謝意」として楼蘭(LA遺址)の正確な位置(経緯度)を光瑞に伝えた。光瑞はただちに12月13日この情報をトルファンにいた橘瑞超に打電した。当時新疆には電信線が張り巡らされていた。暗号文によれば楼蘭の位置は「東経90度、北緯41度」とある。実際のヘディンの観測値は東経89度50分55秒、北緯40度31分34秒であるからほぼ正しい。まさしく「李柏文書」は「見出されるべくして見出された文書」であったのである。
 本書の白眉は「李柏文書」の出土地を確定した「第二次大谷探検隊・橘瑞超の楼蘭調査とその波紋」(金子民雄)と「李柏文書」の官文書としての性質を明らかにした「西域長史文書としての『李柏文書』」(荒川正晴)の2論考である。
「李柏文書」の出土地「文書」の出土地がLKではなくLAであることはすでに片山章雄によって指摘されてはいた。然し金子論考において1968年6月21日に瑞超本人が直接金子にLA遺址内での発見を告げていたことが明らかにされる。「『李柏文書』はヘディンの発見した例の粘土の塔(スタインの仏塔)近くの砂地を掘っていたとき、丸められた紙屑として出土したのだと、粘土の塔の写真を示されて、はっきりと説明された」(本書P207)瑞超はその年の11月に死去した。2002年瑞超の子息橘照嶺が金子に知らせた手紙では「父はその後『李柏文書』は三間房から見つけたのだと語っていた」という。これは瑞超がスタインに語った「セリンディア」の記述とぴったりと一致する。そしてこのおりの瑞超とスタインの面談のメモがスタインの故郷ハンガリー科学アカデミーで見つかった。
(官文書としての「李柏文書」)「文書」は従来西域長史李柏が自ら筆をとって書いた、あるいは草稿(下書き)であったため破棄されたというような誤解がまかり通っていたが、荒川はこれを否定する。前涼の一出先機関の長である西域長史李柏には、前涼の統治下にない西域諸国の王に通常の「通信用官文書」を送る権限はない。そこで書簡的な官文書を採用したのだとする。そしてこれは西域長史府において秘書的役割を果たす門下の主簿・録事掾が作成した原案そのものである。古文書学的には「正校案文」として発出元に留め置かれた文書である。原案の謄本を作成して西域諸国の王に送ったのである。
 金子は「あとがき」で「今どき、学派などとっくに消え失せてしまったものと思っていた」が、白須によって後継者が着実に育てられており(広島大学大学院教育研究家の院生ら)、本書の刊行はその成果であるという。「忘れられた大谷探検隊」の実相を近・現代史の中に位置づける白須らの試みは続くのである。

2014年12月7日日曜日

核の砂にまみれた楼蘭

   「核の砂漠とシルクロード観光のリスク」 高田純 医療科学社 2009年

 中国は新疆省楼蘭周辺地区で、1964年から1996年までにのべ46回の核爆発実験を行っている。総威力22メガトン、広島原爆の1375発分に相当する。1980年までは主に空中・地表での爆発、1982年から1996年は地下実験が実施された。とくにメガトン級核爆発では、著者の計算によれば19万人が中枢神経死などで急性死亡し、129万人が急性放射線障害などで甚大な健康障害になっているという。
 核実験場は楼蘭地区のどこにあるのだろうか。旧ロプ湖床だという説があるが、これは違う。楼蘭遺址(LA)からコンチェ河に沿ってボストン湖に向かう北西方向の長径165キロ、短径100キロの楕円の範囲の砂漠地帯に核実験場は集中している。南方(すなわちLAに近い)ではメガトン級の大型核爆弾、北方では中小型爆弾を使用している。
 1980年NHKのシルクロード取材班はメガトン級地表核実験が行われた楼蘭地区の砂漠を巡っている。3月29日敦煌莫高窟を出発し、4月8日809高地で新疆部隊に引き継がれ、3日後ロプノールがあるとされる720高地に到着。翌13日北方80キロはなれた地点(楼蘭の女王撮影のため)往復。一旦720地点に戻り、北西50キロの楼蘭遺址(LA)に移動した。楼蘭の女王ミイラ地点と楼蘭遺址を結ぶ直線から西側地域に複数の核爆発跡地がある。NHK取材班は、4~0.6メガトン核爆発地点の近傍をめぐっている。彼らの全身は核の砂が放つガンマ線で、10日間も照射され続けた。さらに風が舞い上がって核の砂塵が肺に吸着した。その取材で白血症及び肺ガンなどの健康リスクを負っている。
 また1996年7月の最後の核実験が行われた前後にこの地域に潜入した日本人がいる。西燉
(仮名)である。秘かに敦煌を出発してコンチェ河をさかのぼった。「孔雀河は紅葉の季節が終わりかけていて、春の緑の葉をつけていた梧桐の樹はすっかり黄色くなって、冷たい微風に揺らぎ、冬の訪れを感じさせている。そこは軍事基地跡だった。六○を越える全ての建物は巨大な力で吹っ飛び恐ろしい様相を呈していた。原爆地上実験の際のそれである。」(「砂漠の果ての楼蘭」 西燉
朝日ソノラマ 1997年)
 中国の核実験は1972年の日中国交回復以降も33回に及ぶ。72年以降96年までに27万人の日本人がシルクロード観光に訪れている。核爆発を繰り返す危険な期間に旅行していた。核ハザードはそれ以降も残る。97年から2008年までにさらに57万人の日本人が同地区を訪れている。とくに楼蘭地区の危険度は高い。著者によればシルクロード観光の核リスクは以下の五つである。
①核爆発に巻き込まれて即死
②核爆発を目撃し急性放射線障害で死亡
③核爆発を目撃しないが、核爆発直後の砂を被り急性死亡
④急性障害とはならないが核の砂を被り後障害である白血病、固形ガンを帰国後発症する
⑤妊婦が核の砂を被り、死産・流産・奇形の出産など
①から③までは行方不明者となり帰国していない。97年以降の旅行者でゼロ地点に接近した場合は④、⑤の可能性がある。1994年に食道ガンを発症した楼蘭研究の第一人者長澤和俊はその顕著な例である。1988年の楼蘭遺址踏査をはじめ、数多いシルクロード踏査が原因である。
 核リスクは旅行者だけにとどまらない。地元住民とくにウイグル族の被害はさらに深刻である。楼蘭地区で行われた3発のメガトン級核爆発の被害は核の砂による急性死亡19万人(A地区 風下245キロ)、白血病死などの急性症は129万人(B地区 風下450キロ)に及ぶ。さらに3万5千人以上の死産・奇形などや3700人の白血病、1万3千人以上の甲状腺ガンの発生が推定されるという。
 以上は著者の推定である。然し著者のプロジェクトチームは2012年8月に13日間かけてタリーム盆地の周辺で隠密裏に核ハザード調査を実施し、推測を裏付ける調査結果を得ている。もちろん著者本人は参加していない。現地警察によって指名手配されているからである。