2017年6月29日木曜日

大空のシルクロード余話~昭和史の謎を追う⑰

「満州航空~空のシルクロードの夢を追った永淵三郎」杉山徳太郎 論創社 2016年

 1936年ベルリンで「日独満航空協定」が満州航空とルフトハンザの間で締結された。東京・新京とベルリンを空路で結ぼうというもので、いわば「大空のシルクロード」である。然しこの日付に明らかなように、同年11月8日には既に綏遠事件が勃発しており、日中は全面的軍事衝突に向かいつつあった。この構想を実施する物質的基礎を全く欠いていたことは拙稿「大空のシルクロード」で触れたところである。この協定ではドイツ側はベルリンからカブールまで、日本・満州側はカブールから新京(東京)までを担当することになっていた。日本機はこの空路をついに飛行することはなかったが、ドイツはベルリンからなんと西安まで試験飛行を実施していたのである。本書にはこの試験飛行の詳細な記録が紹介されている。また関東軍の対回教軍閥工作失敗の真相も示唆されている。
(ベルリンから西安へ)
 1937年8月ルフトハンザは新鋭機ユンカースJu-52型機で、ベルリンと西安間の試験飛行を敢行した。一番機の機長はガルブレンツ男爵で、操縦士ロベルト・ウンフツト、無線技師カール・キルヒホフである。二番機は機長ドクセル、操縦士テッテンボルン男爵、無線技士ヘンケである。強力発動機(BMW-ホーネット132L型)を搭載していた。ガソリンは翼面タンク収納(2500リットル)以外に510リットル缶5缶をキャビンに積み込んだ。
 8月14日未明ベルリン(テンベルホール飛行場)を離陸し、10時間後ロードス島に到着した。(2250キロ)15日早朝離陸後、給油のためダマスカスに立ち寄り、バクダードに向かった。16日早朝バクダードを発ち、テヘラン飛行場に向かった。ここで2日間休養した。18日テヘランを出発し、7時間後1700キロ離れたアフガニスタンのカブール飛行場に到着した。ここで搭乗員に対する歓迎宴が開かれ、機はパミール越えに備えて入念に整備された。24日未明カブール飛行場を離陸した。ここから難関のワハーン、パミールの天険を飛翔するのである。ワハーン回廊の西側の出口アンジュマン峠(4422米)に、ルフトハンザは1年前から測候所を設置して、パミール高原の気象を観測していた。ゼバックを過ぎてイシュシカムのあたりからワハーン回廊が始まる。ワハーンは東西300キロ、南北は最も狭い部分では10キロに満たない。北にはパミールの山、南にはヒンドゥークシュの高山が聳えている。この上を飛行するのは、まるで氷のトンネルを抜けるようである。回廊の中央を眼下に見ながら飛行を続けると、ワクジール峠(4907米)が前方に見える。ここを飛び越えるると中国新疆省に入る。北方に変針して、タクトバッシュ・パミールを北上すると高度は5千米に達している。左手前方にムスタグ・アタの白い山容が見える。しばらく飛行すると眼下にタッシュクルガンの石頭城が見えてくる。山脈を越えて徐々に高度を下げるとヤルカンド上空である。ここで機は方向を東に変え、西域南道に向かって飛ぶ。ホータン・オアシスが大海の小島のように見える。荒涼たるロプ砂漠上空にさしかかるが、この時ロプノールは水を満たしていた。こうして機は安西を経由して粛州飛行場に到着した。カブールから粛州まで1日で飛行したのである。カブールと安西間は無着陸である。そしてガルブレンツは馬将軍に喝見し、ここで2日間休養した。粛州から西安までは約1千キロ、もうすぐである。この年7月7日盧溝橋で日中両軍が衝突し、両国は戦争状態に突入していった。新京や東京への空路は閉ざされていた。西安は事実上の飛行の終着点であった。
(回教軍閥工作失敗の真相)
 粛州でガルブレンツが会った馬将軍とは粛州の旅団長馬歩康である。馬歩康は馬虎山の元部下であったが、その頃は青海省の馬歩芳の軍門に降っていた。馬虎山は1934年8月にはホータンを占領して「東干国」を設立していたが、1937年8月頃、ウルムチ政府との戦闘に利あらず、数人の側近と英領インドのレーに逃亡していた。関東軍(大迫武夫)が安西飛行場使用のため工作していた回教軍閥とは、馬虎山(そして馬歩芳)であったかもしれない。満州航空の第二次ガソリン輸送隊は、馬虎山が放棄した安西に向かっていたのである。この間の事情を知っていた馬歩康が押収物を馬歩芳に送ったと著者は推測している。関東軍は馬虎山との友好関係に期待を抱いていた。馬虎山はウルムチ政府(国民党政府)に対抗して、粛州からホータンまでの西域南道を一時的に支配下に置いていた。関東軍は馬に安西飛行場の使用許可を求め、馬もこれを認めていた。だが馬の逃亡により水泡に帰したのである。
  然し、たとえ回教軍閥による安西飛行場使用許可があったとしても、飛行する空域は国民党政府の領土主権の上空である。日中航空交渉が進捗しない状況下では非合法である。関東軍の防共回廊工作や満州航空のシルクロード構想の「空想性」には実に驚くべきものがある。一方ドイツは国民党政府とも友好関係を維持しており、飛行の物理的基盤を有していたのである。


 

2017年6月15日木曜日

「ユーラシア帝国の興亡」を読む

   「ユーラシア帝国の興亡」 C・ベックウィズ 筑摩書房 2017年

 「コミタートゥス」というのは、命をかけて支配者を守ると誓った友らによる戦闘集団である。彼らは最初インドヨーロッパ族の「二輪馬車の戦士」として現れた。その後中央ユーラシアの主役が、トルコ族や、イスラム、モンゴル族に代わっても存在し続けた。著者はこの「コミタートゥス」を核にして中央ユーラシアの歴史を描いている。「序」にあるように、当初は「中央ユーラシア素描」というエッセイのようなものを念頭においていたが、本書のようなやや冗長な通史風なものになった。然し本書にはインドヨーロッパ人の移動や、トカラ人・トカラ語に関する見逃せない考察がある。とくに付録A・Bは原書出版後、日本語訳書への追記として書いたもので、いわば日本語新版と呼ぶべきものである。
(インドヨーロッパ人の移動)
 インドヨーロッパ人の原住地はウラル山脈南部、北カフカス、黒海の間の平原で、中央ユーラシアである。4千年前から3回にわたって移動を開始した。第一波はBC3千年紀の後半で、一番遠くまで行ったのはトカラ人とアナトリア人の祖先である。(グループA)トカラ人は最終的にタリム盆地まで行き、そこに住み着いた。彼らが故地を離れたのは二輪馬車が発明される以前であった。第二波はイラン人がインド人を追い払うことによってBC17世紀頃起こった。インド人、ギリシャ人、ゲルマン人、イタリック、アルメニア人などである。(グループB)このグループはすでに二輪馬車を有していた。第三波はBC2千年紀の終わりからBC1千年紀の始めである。グループBの住んでいた外側に残っていたケルト、バルト、スラブ、アルバニア、イラン人の祖先である。(グループC)イラン人の中には中央アジアを越えて中国に達した者もいた。
(トカラ人)
 BC2千年紀のの始め頃、原始トカラ人のグループが甘粛の地域に到着した。彼らはシベリアを経由して北から来たと推測される。彼らはタリム盆地の東部ロプノール周辺にも住み着いた。後にクロライナ(楼蘭)と呼ばれる地域である。現在この辺りでは4千年前のミイラが多数発掘されている。それらは白色人種で、ウールの衣服を身につけ、一緒に埋葬された篭の中には、小麦の粒と麻黄という植物の枝が入っていた。これらは明らかにインドヨーロッパ人の特徴を示している。彼らその後「月氏」と呼ばれていた。月氏はやがて匈奴に敗れソグディアナに西走し、大夏(バクトリア)を征服してそこに大月氏国という巨大王国を建設した。その地は後にトカリスタン(トカラ人の地)と呼ばれるようになった。トカラ人のうち遊牧に従っていて部分(行国)が月氏である。一方クロライナ、トルファン、カラシャール、クチャなどのオアシスに定住した人達もいた。
(トカラ語)
 トカラ語は中世の初期まで「四つのトカラの地」と呼ばれたタリム盆地東部のオアシスで話されていた。クロライナの地もそうである。その近辺で発掘されたAD3世紀のカロシュテーイ文字で書れたプラークリットにもその借用語が多く残っている。今日トカラ語は地域で三つに分類されている。すなわちトカラ語A(トルファン)、トカラ語B(クチャ、カラシャール)、トカラ語C(クロライナ)である。トカラ語の命名者はミュラーである。ウイグル人はトカラ語から仏典を翻訳したが、その言語を「Toxariの言語」と呼んだ。ミュラーはそれを「Tocharisch(トカラ語)」とした。なおバクトリアを征服した大月氏(クシャン)がイラン語(バクトリア語)を使用したと考えられること(バクトリア語の碑文)から、月氏=トカラ人説に疑問を持つ者もいる。然しクシャンの民族連合においてトカラ人は少数であったかもしれない。彼らはバクトリアに侵入する以前にイラン語にシフトしていたという説もある。
 本書には「楼蘭王国史」の謎を解明するいくつかのヒントが示されている。例えばクロライナ人は月氏と同じトカラ人であるということ。またAD3世紀クロライナ人がクシャンの影響でプラークリットを取り入れたことなど。その頃クシャンはすでにイラン語(バクトリア語)の話者にはなっていたが。
 

 

2017年6月4日日曜日

内蒙独立運動と関東軍の内蒙工作~昭和史の謎を追う⑤

  「日本陸軍と内蒙工作」 森久男 講談社 2009年

 「15年戦争説」を唱える「進歩的歴史学者」は、日本陸軍の長期間に及ぶ中国侵略には、その背後に日本軍の中国侵略計画・陸軍軍人の中国侵略思想があったと見做している。例えば「日本には1931年9月から、東北だけでなく華北も支配しようという計画が一貫してあっただけでなく、それを実現するために軍事的圧力と政治工作をくり返し実行していた」’安井三吉「柳条湖事件から盧溝橋事件へ」研文出版 2003年)など。これは結果から原因を類推する方法で、陸軍軍人の内在的論理に対する考察が欠如していると著者は指摘する。1930年代の統制派に属する支那通軍人は伝統的な「志那分治論」に加えて、中国がソ連に加担する前に打撃を与えるという「中国一撃論」を体系化していた。
 関東軍は自らの担務でない華北分離工作に走った。それは親補職である大将を軍司令官に擁する関東軍は、軍司令官が親補職の待遇を受けない少将の支那駐屯軍を見下しており、「わが友軍」として手下扱いしていたからである。陸軍中央は華北分離工作の既成事実をしぶしぶながら承認した。然し関東軍の内蒙工作を条件付きで承認する一方、華北工作の権限を支那駐屯軍に移した。その結果、関東軍は欲求不満のはけ口として、急進的な内蒙工作に邁進することになる。外蒙・ソ連からの赤化防止のため、中央アジアに防共回廊を建設し、日本・満州とドイツを空路で結ぶという欧亜連絡航空路構想が内蒙工作に拍車をかけた。アラシャン・オジナに特務機関を進出させて、ゴビ砂漠地帯に補給基地を設営する。甘粛・青海の回族軍閥を懐柔して、安西に中継飛行場を確保し、さらに新疆地方に進出しようというものである。綏遠事件を誘発する原因となった。そしてこれが関東軍の中国一撃論の最終到達点であった。
 然しその前に内蒙の状況を概観してみよう。辛亥革命以降も伝統的な盟旗制度は維持されていたが、1928年9月国民政府は熱河・チャヤハル・綏遠に省制度を施行した。その結果蒙古族・漢族両者が共存する雑居地帯で二重権力・二重行政による矛盾が拡大した。盟旗には統一自治組織がなかったので、省・県の圧力には対抗できなかった。なおかつ盟旗制度の法的行政機構としての法的根拠も失われた。ここにジンギスカン30代目の末裔を称するシリンゴル盟副盟長・西スニト旗長の徳王(ドムチョクドンロブ)が現れ、シリンゴル・ウランチャブ・イクジョウ3盟による内蒙高度自治運動の推進を目指した。すなわち1933年7月26日に第一回百霊廟会議を開催し、内蒙自治政府設立の許可を求める自治通電を国民政府に打電した。
 関東軍は最初索王をチャヤハル工作の対象としていたが、百霊廟会議以降俄然徳王に注目し始めた。土肥原・秦徳純協定によって宋哲元軍が外長城線以北から撤退することにともない、徳王の動向を監視する滂江駐屯部隊も撤収した。そのため関東軍と徳王の連絡も容易になった。「協定」の条項には「チャヤハル省内に於いて飛行場及無線電信設置を許可」という一項が含まれていた。関東軍は徳王にスーパー機(米国製フオッカー・スーパー・ユニバーサル機の改良国産型 乗員2名、乗客6名)を専用機として贈呈した。燃料、パイロット、機関士も提供した。徳王は当初国民政府の力を借りて自己の勢力拡充を考え、日本側を適当にあしらうという二面政策をとっていた。然し蒋介石に武器を要求しても少量しか与えられず、なおかつ「地方自治」しか許されないので、次第に日本側に傾斜していった。おりから綏遠省との阿片通行税徴収をめぐる紛争などで、徳王のみならず雲王も蒙政会が国民政府から離脱して日本に依存することを決断した。1936年1月22日徳王はチャヤハル部を盟に改組してチャヤハル盟公署を設立した。国民政府はそれに対抗して、ウランチャブ、イクジョウ各盟旗、帰化トムト旗、チャヤハル右翼4旗、綏東5県を領域とする綏境蒙政会を設立した(委員長沙王 1936年2月23日)。そして百霊廟蒙政会の委員を兼務することを禁止した。なおかつ百霊廟蒙政会にはチャヤハル移転を命じた。かくして百霊廟蒙政会は国民政府側の綏境蒙政会と徳王の蒙古軍政府(旧蒙政会)に分裂した。南京は徳王の蒙古軍政府を察境蒙政会と読み替えて、察北になお国民政府の地方政庁が存在するという体裁をとろうとした。
(綏遠事件)徳王は関東軍の支援を利用して内蒙西部で、高度自治運動を進め支配領域を拡大したが、その勢力は綏遠省南部には及ばなかった。そこで関東軍第2課の田中隆吉参謀は、綏遠省主席傳作義に対し、特務機関の設置と「共同防共」を申し入れた。傳は特務機関の設置は受け入れたが、国民党関係機関の省外への撤収などには応じなかった。のみならず2万5千の兵力を綏東地区に集中し抗戦に備えた。これに対し田中は素質の悪いゴロツキなどをかき集めて漢族謀略部隊(王英軍10500人、張万慶軍3000人)を編成し綏東のホンゴルトを攻撃した(1936年11月15日)。満州航空の支援爆撃を受けながらも王英軍の士気は低く、綏遠軍の反撃に察北へ敗走した。さらに綏遠軍は蒙古軍第7師が守る百霊廟を攻略した。7師と日本軍特務機関は敗走した(36年11月23日)。この綏遠事件の敗北で関東軍の防共回廊工作は水泡に帰した。のみならず内蒙工作も危機に瀕した。綏遠事件の勝利は中国の民族主義を刺激し、西安事件(36年12月12日)を誘発する。これにより田中と徳王はなんとか事態収拾の糸口をつかむことができた。
 綏遠事件は関東軍第2課かぎりの謀略であるという。当時台湾軍司令官であった畑俊六は日誌に「関東軍の田中中佐あたりが中心となりある様なれば、頗る以って怪しきものなり。恐らくは十分中央の了解を得てやりあることにはあらざるべし」と記している。この田中隆吉は第1次上海事変の演出者であり、終戦後の極東国際軍事裁判では検察側証人として、自己の免責と引き換えに「侵略の共同謀議」を証言した張本人である。この「昭和史の謎を追う」シリーズもようやく、昭和史の黒い影正体のほんの一端をとらまえたというべきだろう。