「ユーラシア帝国の興亡」 C・ベックウィズ 筑摩書房 2017年
「コミタートゥス」というのは、命をかけて支配者を守ると誓った友らによる戦闘集団である。彼らは最初インドヨーロッパ族の「二輪馬車の戦士」として現れた。その後中央ユーラシアの主役が、トルコ族や、イスラム、モンゴル族に代わっても存在し続けた。著者はこの「コミタートゥス」を核にして中央ユーラシアの歴史を描いている。「序」にあるように、当初は「中央ユーラシア素描」というエッセイのようなものを念頭においていたが、本書のようなやや冗長な通史風なものになった。然し本書にはインドヨーロッパ人の移動や、トカラ人・トカラ語に関する見逃せない考察がある。とくに付録A・Bは原書出版後、日本語訳書への追記として書いたもので、いわば日本語新版と呼ぶべきものである。
(インドヨーロッパ人の移動)
インドヨーロッパ人の原住地はウラル山脈南部、北カフカス、黒海の間の平原で、中央ユーラシアである。4千年前から3回にわたって移動を開始した。第一波はBC3千年紀の後半で、一番遠くまで行ったのはトカラ人とアナトリア人の祖先である。(グループA)トカラ人は最終的にタリム盆地まで行き、そこに住み着いた。彼らが故地を離れたのは二輪馬車が発明される以前であった。第二波はイラン人がインド人を追い払うことによってBC17世紀頃起こった。インド人、ギリシャ人、ゲルマン人、イタリック、アルメニア人などである。(グループB)このグループはすでに二輪馬車を有していた。第三波はBC2千年紀の終わりからBC1千年紀の始めである。グループBの住んでいた外側に残っていたケルト、バルト、スラブ、アルバニア、イラン人の祖先である。(グループC)イラン人の中には中央アジアを越えて中国に達した者もいた。
(トカラ人)
BC2千年紀のの始め頃、原始トカラ人のグループが甘粛の地域に到着した。彼らはシベリアを経由して北から来たと推測される。彼らはタリム盆地の東部ロプノール周辺にも住み着いた。後にクロライナ(楼蘭)と呼ばれる地域である。現在この辺りでは4千年前のミイラが多数発掘されている。それらは白色人種で、ウールの衣服を身につけ、一緒に埋葬された篭の中には、小麦の粒と麻黄という植物の枝が入っていた。これらは明らかにインドヨーロッパ人の特徴を示している。彼らその後「月氏」と呼ばれていた。月氏はやがて匈奴に敗れソグディアナに西走し、大夏(バクトリア)を征服してそこに大月氏国という巨大王国を建設した。その地は後にトカリスタン(トカラ人の地)と呼ばれるようになった。トカラ人のうち遊牧に従っていて部分(行国)が月氏である。一方クロライナ、トルファン、カラシャール、クチャなどのオアシスに定住した人達もいた。
(トカラ語)
トカラ語は中世の初期まで「四つのトカラの地」と呼ばれたタリム盆地東部のオアシスで話されていた。クロライナの地もそうである。その近辺で発掘されたAD3世紀のカロシュテーイ文字で書れたプラークリットにもその借用語が多く残っている。今日トカラ語は地域で三つに分類されている。すなわちトカラ語A(トルファン)、トカラ語B(クチャ、カラシャール)、トカラ語C(クロライナ)である。トカラ語の命名者はミュラーである。ウイグル人はトカラ語から仏典を翻訳したが、その言語を「Toxariの言語」と呼んだ。ミュラーはそれを「Tocharisch(トカラ語)」とした。なおバクトリアを征服した大月氏(クシャン)がイラン語(バクトリア語)を使用したと考えられること(バクトリア語の碑文)から、月氏=トカラ人説に疑問を持つ者もいる。然しクシャンの民族連合においてトカラ人は少数であったかもしれない。彼らはバクトリアに侵入する以前にイラン語にシフトしていたという説もある。
本書には「楼蘭王国史」の謎を解明するいくつかのヒントが示されている。例えばクロライナ人は月氏と同じトカラ人であるということ。またAD3世紀クロライナ人がクシャンの影響でプラークリットを取り入れたことなど。その頃クシャンはすでにイラン語(バクトリア語)の話者にはなっていたが。
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