2022年11月23日水曜日

ティリヤ・テペの黄金遺宝「シルクロードの黄金遺宝~シバルガン王墓発掘記」V,サリアニディ 岩波書店1988年

  本書は1978~9年アフガニスタン北部、古代のシルクロードの要衝であるシバルガンの北東5キロにあるティリヤ・テペの発掘の記録である。ティリヤ・テペは綿畑の中にある直径100メートル、高さ3メートルの平凡な小丘である。発掘は著者サリアニディを隊長とするソ連・アフガニスタン調査隊によって実施された。1971年予備調査、77年から本格調査が再開された。然し79年2月アフガニスタンの政治状況悪化により中断した。6基の古代の墓を発掘したが、その成果は実に驚くべきものであった。
(ティリヤ・テペの遺宝)第1号墓の墓主は25~35歳の女性。出土した黄金細工の大部分は服飾品で他と比べて少ない。第2号墓は30~40歳の女性。あごには細長い黄金薄板のあごあてがつけられている。これは3,4,5,6号墓の墓主も同様である。この女性の黄金服飾品は豪華である。こめかみを飾る一対の黄金垂飾、次いで一対の襟止金具。デザインはイルカに乗った少年。胸元のペンダントは女神アフロディテをかたどる。そして黄金の腕輪一対(重さ507.5グラム)、足輪一対(重さ623,9グラム)。指輪は左手の2個、右手に1個。副葬品として、足元に銀製の鉢と前漢時代の中国製銅鏡。第3号墓は18~25歳の女性。マウンドの頂上付近にあったので、この墓だけ野ネズミに食い荒らされている。黄金の鉢(重さ305グラム)を枕にし、黄金の首輪(重さ765グラム)、腕には一対の腕輪(各290グラム)、指輪3個、靴止留金具と黄金尽くしである。副葬品として中国製銅鏡、銀製鉢がある。さらに貨幣が2枚。パルティア銀貨(ミトリダテス二世、在位BC123~88年)、ローマ・アウレウス金貨(ティペリウス皇帝、AD16~21年に打刻)である。第4号墓の墓主は30歳くらいの男性で身長は2メートルに近い。馬を殉葬させている。圧巻は黄金腰帯(重さ840グラム)である。死者の左側には長い鉄剣と黄金製の短剣鞘、右側には黄金製の短剣鞘があり鉄製の短剣が納られている。インド金貨が1枚見つかっている。第5号墓は15~20歳の女性。6つの墓の中では最も遺物が少ない。黄金製のあごあてや首飾り、足輪(306.7グラム)、副葬品として銀製の鉢がある。第6号墓の墓主は25~30歳の女性。銀製の鉢を枕にして装身具は他の女性より一段と豪華である。頭には高い歩揺金冠(214グラム)、こめかみには一対の黄金垂飾をつけ、襟留金具(一対97.2グラム)、首飾りと胸飾りが3本、手首には黄金腕輪(一対150グラム)、足には足輪(一対243.3グラム)がある。左手には宝石をはめた指輪、右手に儀杖を持つ。副葬品として中国の鏡2面がある。そして貨幣が2枚発見されている。パルティア金貨(フラーティス三世、在位BC70~57年)とパルティア銀貨(フラーティス四世、在位BC38~32年)で、後者は死者の口の中から見つかった。6基の墓から発掘された黄金製品は2万点にのぼる豪勢さである。
(墓葬の王)第3号墓出土ティペリウス皇帝の金貨から墓葬の時期はAD20~30年代と推定される。4号墓の男性は族長クラス(翕候)で他は殉死した婦人たちである。とくに6号墓の女性をサリアニディは「スキタイの女王」と名付けている。彼らの王宮はどこにあったのか。それはティリヤ・テペのすぐ近くにあるエムシ・テペである。墓はすべてエムシ・テペが望める北西部分に集中している。エムシ・テペは北アフガニスタンで十指にはいる首都的中心であった。高い城壁、日干しレンガの上に築かれた内城。支配者は常にここからティリャ・テペの丘にある一族の墓を眺めていたのかもしれない。これが盗掘を免れた根拠でもある。
(五翕候の位置)大月氏が滅ぼしたのは大夏ではなくバクトリアである。大夏(グレコバクトリア王国)はサカ系遊牧民(サラウカエ)によって既に簒奪されていた(BC140年)。
サカラウエを打ち滅ぼしたたのがアシアナイ族のトハラの諸王(大月氏)である(BC139年)。大月氏は征服したバクトリアに五翕候を置いた。すなわち中国に近い東から西に休密翕候(ワハン東部)、雙靡翕候(マストウジ)、貴霜翕候(ワハン西部)、肸頓翕候(バダフシャン)、都密翕候(テルメズ)である。アフガニスタン北東部に偏って位置している。この中から貴霜翕候のカドフィセスが他の四翕候を併呑しクシャン王朝を創建した(AD60年頃)。中国の史書「後漢書」はこれを旧名に因んで大月氏と呼ぶ。ティリャ・テペは、五翕候の中で最も西に位置する翕候より更に西にある。
 著者によれば、五翕候のうち少なくとも二つが、アム河を境界として、西バクトリアに位置していた。そしてここに来住した遊牧民は、二つの異なった人種タイプで示されている。その第一はアム河の北に見られるタイプである。ハルチャンで発見された壁画や塑像の顔は「鼻は大きくなくて、真っ直ぐであり、目はいわゆるモンゴルひだのない中程度の大きさ」で、ユーロオペロイドの勝ったタイプである。すなわちヘラウス貨幣に見えるクシャン王の顔である。第二は南に見られるタイプである。ティリャ・テペの人物像は「モンゴル風にあごひげがない」モンゴロイドが勝ったユーロオペロイドである。第二タイプの遊牧民の名称は分からないが、この地は後世トハリスタンと呼ばれるようになる。サリアニディは「墓葬の王」が、クシャン国家最初の王か、五翕候の一人か特定することは困難だとしている。大月氏という名称が、単一の部族ではなく、互いに親近ではあるが同一でない複数の部族グループを意味しているからである。いずれにしてもそれは、クシャンが勃興し、クシャン朝が成立する直前のことである。




2022年5月16日月曜日

大月氏の五翕候とは 「敦煌懸泉漢簡に記録された大月氏の使者」小谷仲男 史窓72号 2015年

漢代の史料に見える大月氏の五翕候について現地(大夏)の土着勢力か、あるいは大月氏が分封した有力諸侯かという論争がある。これは東洋史上の有名な論である。前者には白鳥庫吉、桑原隲蔵、羽田亨、松田寿男、榎一雄などがいる。後者には江上波男、内田吟風がいる。日本の東洋史学会の主流は前者だが、著者は後者である。「翕候」は諸侯、小君長の意である。大月氏はアムダリアの北側に王庭を置き、征服した大夏の地に5人の翕候を置き統治した。すなわち休密、雙靡、貴霜、肸頓、高附の五翕候である。この翕候の実態を解明するに資する重要な発見が近年あった。 
(「懸泉漢簡」の発見)敦煌の東64キロの「懸泉置」と呼ばれる駅伝遺跡から大量の前漢時代の木簡が発掘された1990~92年)。出土木簡の総数35000本、うち文字の残るもの23000本。紀年木簡は1900本である。その中で大月氏の使者に関する木簡17本の存在が明らかになった。ただし第1簡は 烏孫簡で、実際は16簡である。そのうち最古の第2簡は甘露2年(BC52年)の紀年をもつ。それらの木簡は大月氏の使者が、漢朝への朝貢および帰国の途上、懸泉置において宿舎や食事、交通手段の便宜を供与されたことが記録されている。さらに驚くべきは、大月氏のみならず五翕候から派遣された使者の記載も見えるのである。すなわち第3簡(BC43年)は、大月氏への使者として派遣された柏聖忠が帰国に際し連れてきた雙靡翕候の使者萬若山と副使蘇に対して敦煌太守が発給した公用旅券である。第4簡(BC37年)は、自発的に朝貢目的で敦煌まで来た休密翕候ほか西域諸国の使者に対して、敦煌郡の太守が役人を派遣し、長安まで送迎させるために発給した公用旅券である。かくして大月氏の使者には、大月氏王から派遣された使者と五翕候がそれぞれ独自に派遣した使者の両様があることが分かった。これは「懸泉漢簡」によって初めて知ることが出来る歴史情報である。  翕候の実態はつかみにくいが、遊牧社会における支配体制に関する名称であり、小王に相当するもの(部族集団の長)と考えられる。五翕候を大夏の土着の支配者とする考え方は「漢書」西域伝の読み誤りによる。例えば小竹武夫「漢書」(ちくま文庫)である。 「大月氏本行国也。・・・・皆臣畜之。」でいったん区切らねばならない。ところが小竹訳では、次の文書を「皆臣畜之、共稟漢使者」と続けて読み、「大夏は・・・・いずれもみな臣従して月氏を養い、ともに漢の使者に糧食を供給した」と解釈するのである。然し「共稟漢使者・・・・」から始まる文書こそ、五翕候に関する「漢書」の独自情報なのである。その直前までは「史記」(大宛列伝)の引用である。著者が提案する読み方は「共稟漢使者、有五翕候。一曰休密翕 候・・・・」と続ける。以下五翕候の情報(治所、西域都護・陽関からの里数)が詳細に記される。漢王朝にとって、五翕候への関心は、漢の使者が大月氏に赴くとき、沿道で食料、宿舎、交通手段が確保できるかが問題であり、懸泉置で大月氏の使者たちが接待を受けたように、漢の使者たちが、大月氏王の領内や各翕候の領内で同様の接待が確保される必要があった。このような関係が成立したのは、西域都護の設置(BC59年)、烏孫の帰順(BC52年)以降であり、「漢書」の五翕候情報は以外に遅い時期のものである。  「懸泉漢簡」の解読により五翕候が大月氏に所属することが明らかになっが、それだけで大月氏の五翕候が人種的に大月氏と同一民族とは言い切れない。このことを解決しない限り、大月氏=クシャン人とすることはできない。