2014年5月18日日曜日

もう一つの大谷探検隊~大谷探検隊外伝


図録 「チベットの仏教世界~もう一つの大谷探検隊」 龍谷ミュージアム 2014年

 大谷探検隊は三次にわたる中央アジア(中国新疆省)踏査にのみ限定されて語られる。然しその実態はインド、セイロン、チベット、ネパール、ビルマ、タイ、中国本土などアジア全域の仏教調査を目的とした大事業であった。とくにチベットに関しては、中央アジア探検に劣らぬ「もう一つの大谷探検隊」というべき意義を有していた。
 何故チベットなのか。そのためには明治中期に日本仏教会を脅かした「大乗非仏説」の話をせねばならない。当時ヨーロッパにおいて、インドなどから得られたバーリ語法典の解読により、上座仏教の研究が進展した。それにより大乗仏教は不純物が多分に混じり込んだ仏教という見方が支配的になった。その結果インドの原典からの忠実かつ正確な翻訳であるチベット大蔵経を求めてチベットを目指そうという所謂「入蔵熱」が高まった。その中心になったのが西本願寺の普通教校の学生団体「反省会」に集う若い仏僧たちである。然し最初にチベット入りをめざしたのは「反省会」とは関係のない河口慧海や東本願寺の寺本婉雅、能海寛である。それは鎖国状態のチベットへの潜入であった。
 大谷光瑞がチベット問題に係る端緒となったのは、1908年(明治41年)弟の尊由を名代として五台山に派遣し、中国に亡命中のダライ・ラマ13世(以下ダライ)と会見させたことである。これ以降光瑞はチベットでの調査について計画を具体化していった。すなわち日本・チベット間での留学生交換が決定する。チベットからはツァラ・ティトゥル僧正、日本からは青木文教、多田等観である。1910年3月インドのダージリンで青木は再亡命中のダライに会見し、ツァラ・ティトゥルにつきしたがい帰国する。ツァラは神戸の二楽荘で日本仏教の研究を進める。この際彼に日本語を教えたのが多田等観である。その後辛亥革命の勃発によりチベット情勢が急変し、ダライはツァラを召喚した。1912年1月青木と多田はツァラと共に神戸を出港、カリンポンでダライに謁見した。その後青木は1912年9月に入蔵(1916年1月まで滞在)した。多田は1913年8月チベットに旅立つ。1923年1月まで10年に近い滞在となる。河口や寺本などの日本人であることを偽っての潜入ではなく、ダライ政府から入蔵認定証と旅券を下付されての正規の入蔵であった。然し英国官憲の監視網を注意深くさけてのチベット行であった。1907年8月の英露協商によって、両国は外国人(とくに日本人)がチベットに入ることを厳禁していたのである。
 青木は1913年1月ラサに到着し、「ヤプシプンカン」と呼ばれる高位貴族の邸宅に滞在し、主にチベット語や歴史を学んだ。とくに写真技術に優れていたため、ラサの上流社会では青木に肖像写真撮影を依頼することが流行した。一方多田は1913年9月ラサに到着。セラ寺に入り、修学は10年に及んだ。博士課程を修了し「チュンゼ」(最高学位「ゲシェー」に次ぐ)の学位を得ている。経典を入手して結果解釈するのではなく、チベットの僧院で実際の修行階梯を経ての学位修得である。かくして多田は「チベット仏教を血肉化した」最初の日本人になったのである。
 青木・多田のチベットでの活動は大谷探検隊の一部というより、事業として更に大きく取り組まれる段階が想定されていたと高木康子は指摘している。(高木康子『大谷光瑞トチベット』「大谷光瑞トアジア」勉誠出版 2010年所収)いわば「もう一つの大谷探検隊」である。然しこれは光瑞の失脚により挫折する。だが青木と多田2人をチベットに派遣したことは画期的な意義を持つ。従来の河口などの入蔵はチベット経典の調査と入手であった。光瑞の関心は、教義・歴史への深い理解とチベット社会の状況についての幅広い調査であった。前者を多田が、後者を青木が担当したのである。青木が何を調査したかは「西蔵遊記」から推測できる。また多田の下からは戦後佐藤長、中根千枝、山口瑞鳳など多くのチベット学者が出た。
(付記)本書は2014年4月19日~6月8日に龍谷ミュージアムで開催された特別展「チベットの仏教世界~もう一つの大谷探検隊」の図録である。「チベット仏教の歴史と仏教美術」(森雅秀)、「釈尊絵伝と多田等観」(能仁正明顕)、「青木文教と多田等観の将来資料」(三谷真澄)、「ラッサからの道」(高木康子)の4論文をを収録している。青木・多田の詳細な年譜とともに非常に有益である。

2014年5月6日火曜日

「物語 ビルマの歴史」を読む

  「物語 ビルマの歴史」 根本 敬 中公新書 2014年

 1989年6月、前年民主化運動を封じ込めて成立したビルマの軍事政権は突如国名を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更した。「ビルマ」は口語、「ミャンマー」は文語で、意味するものはまったく同一でビルマ民族が住む空間である。「ミャンマー」はビルマ民族のみならず周辺のカレンやシャンなどの少数民族を含むと軍事政権は強弁するが、これは事実に反するまやかしである。
 そして2011年3月の軍事政権自らの解散による「民政移管」を契機にビルマの情況は大きく変わった。ティセイン政権によるアウンサンスウチーの自宅軟禁解除により、欧米・日本などの経済制裁措置が緩和された。外資のビルマ市場への参入が本格化した。新聞の経済欄にミャンマーの文字を見ない日はないほどだ。
 このような「変化」は民主化運動の圧力の結果ではなく軍人が自ら姿勢を変えたからである。何故変えたのか。第一の理由は、自国の対外イメージを改善したいという欲求である。2014年に引き受けたASEAN議長国としての風格と品位をつくりあげることができるとティセイン大統領が判断したからだという。第二は長期にわたる安定した経済発展の重要さにようやく気がついたからである。とくに中国一辺倒にたよる経済援助はビルマ国軍のナショナリズムには要注意であり桎梏であった。然しこのような「変化」は軍人たちに囲まれた「小さな土俵」の中で展開されるだけで、民主化の「本格的な一歩」を踏み出したものではないと著者はいう。今後の判断基準として、軍の特権をなくす方向で憲法改正が進めば、その段階で「変化」のカギ括弧がとれるとも。
 突如の国名変更や軍事政権の一方的解散による「民政移管」などの不可解さを解明するためにはビルマの苦難に満ちた近・現代史の知識が不可欠である。本書は全10章のうち9章分を英領植民地時代から「民政移管」までの近・現代史に当てている。分かりずらい「軍事政権」存立の不可解さ、その自らの解散、括弧つきの「変化」の謎を解明するための、本書は唯一ではないが最良の参考書である。