2015年8月30日日曜日

アムネマチン初登頂~古書の宝庫を訪ねてみれば⑦

   「アムネマチン初登頂」 上越山岳協会 ベースボールマガジン社 1982年

 かつてエベレストより高いと思われたアムネマチンは最近まで謎の山であった。1960年中国の北京地質学院隊がベースキャンプで測定した標高は7160米。この標高は正確ではなかった。海水面ゼロメートル基準を元にした高さではなかったのだ。その後6282米に訂正された。また北京地質学院隊が登頂したとされる峰は主峰ではなく、その南に位置するⅡ峰(6268米)であった。これは1980年青海省登山協会によって明らかにされた。そのアムネマチン主峰に初登頂したのが、本書の編者渡辺義一郎(副隊長)ら上越山岳会協会アムネマチン峰友好登山隊(以下上越山岳協会隊)である。1981年5月22日のことである。
 1981年当時のアムネマチンへの行程はどのようなものであったのか。北京から青海省の省都西寧まで2098キロを鉄道で移動している。北京を夕方に出発した急行は3日目の昼頃西寧に到着する。現在なら飛行機で北京ー西寧は2時間10分である。登山隊は西寧から中型バス1台(隊員16名)と2トントラック1台でマチュン(瑪心 大武)に向かう。1泊2日の行程である。マチュンの正式名称は瑪心県大武であり、標高は3770米。チベットのラサと同高度である。ホテルの他に劇場、病院、郵便局、書店や商店・露店があり、人民解放軍が駐屯している。そして車で半日行程の登山の基地になる雪山公社に至る。雪山公社(村)は人口千人余り、戸数二百、牧畜専門。ヤク、羊、馬、牛など7万頭、鹿が250頭いるとある。
 雪山公社からは徒歩のキャラバンになる。BCは高原状の河岸段丘を登ったところ、標高4500米に設置される。雪山公社からBCまで1日行程。これは馬に乗ってのことで、徒歩なら2日の行程である。C1予定地区に登るルートはハロン1号氷河の右俣左沢である。氷河左岸のモレーンの上をあえぎながら登り、サイドモレーンの終了点からガレを下って氷河に降りる。クレパスの上に雪がかぶって隠されているヒドンクレパスがあり、危険きわまりない。氷河の奥まった二段目の台地の上にC1を設置する。標高は5175米。主稜線は目の前である。C2へのルートは主稜線最低鞍部(コル)へ抜けるもので、稜線上から氷河に降りている細い雪稜を登らねばならない。C2の標高は5700米。頂上アタック隊は渡辺副隊長と山本芳雄、三宅克巳の3名。7時15分C2を出発。主稜線に出るまでは急な雪壁で、苦しい登りの連続である。坊主ピーク(5977米)を経て頂上へ続く広い主稜線を行く。「主稜線の西側は、はるかチベットまで見えそうに頂上のあたりだけに雪をつけた小さな山々が連なっている。眼下には黄河源流地帯の星々海の小さな湖が2か所にかまって見えている。(中略)二つ目のピークは三宅隊員の高度計で6000米あった。(中略)きのうまで主峰でないかと思っていた北方の岩稜から主稜線に続く三角ピークと、その隣のおまんじゅうピークは進むにしたがって低く見えだす。その手前のなだらかな雪稜の、大きな雪庇をもつ右部分の高い所が主峰だろうと話し合う。(中略)私たちは東面へ張り出す雪庇を避けて西面寄りを登っていく。(中略)やがて広い雪原に出た。登りはそこで終わった。」そこがアムネマチンの頂上であった。アムネマチン主峰の初登頂は1981年5月22日12時10分である。
 本書にはアムネマチンの山名について興味深い記述もある。「アムネマチン」の山名を中国語で書くと「阿尼瑪卿」となる。中国語で発音すると「アーニエーマチン」。「アムネマチン」の語源はチベット語で「アムネ」は「老人」、「マチン」は「活仏の従者」を意味する。東京外大の星教授によるとラサ方言では「アニエマチン」、現地青海省のチベット方言では「アムネマチン」になるという。そして登山隊は現地で「アムネマチン」と発音されることを確認した。
 本書については更に印象深いこともある。アムネマチン初登頂(1981年5月)、本書刊行(1982年1月)はどのような時期であったのか。それは日中国交正常化(1972年)、日中友好平和条約締結(1978年)後の友好ムードあふれる時期であった。たとえば北京での歓迎宴では、乾杯は続き、「田中先生(田中角栄)のためにもj乾杯」し、終わることのないありさまだ。また高山病にかかった内薗隊員はマチュンの人民病院に入院して手厚い看護を受けている。束の間の友好期であったが、現在からみれば隔世の感がある。まだ人民公社というものが存在していた。雪山公社がそうである。人民公社が完全に解体されたのは1985年である。そして中国政府が「教科書検定問題」で日本政府に抗議したのは、本書刊行の半年後の1981年7月であった。