2012年7月28日土曜日

「最後の辺境 チベットのアルプス」 中村 保 東京新聞 2012年

 21世紀の現在でも、最も近づきがたい場所・秘境は存在するのだろうか。20世紀初頭ならいざしらず、ランドサットが地球を周回し地理的空白などは最早存在しないといわれている。
 然しそれでも地理的・地政学的要因故に最も到達しがたい場所は確かに存在する。ビルマの最北部、中国雲南省に近接する東チベットの南東部だ。わずか150キロの間を世界の四大河、揚子江(金沙江)・メコン河(瀾滄江)、サルlウイン河(怒江)、イラワジ河(独龍江)が北から南に流れる。険しい幾筋かの横断山脈の存在故に中国本土、あるいはチベット中央部とも隔絶されている。また歴史的には怒江が中国とチベット勢力との境界とされ、怒江以東には多くの少数民族の土候国が存在していた。また現在もカム地方のツァワロン地区は「チベット叛乱」の主役カンパ族の住地ゆえに立ち入りが厳重に制限されている。その中でも極めつけの秘境が「門空」だ。
 著者は2003年10月、雲南経由で東南チベットにアプローチする。経路は航空機で昆明から香格拉(シャングリラ)。パジェロで徳欽から雲南チベット公路ー四川チベット公路を5日間かけて走り、ロヒト川分水嶺を越えて禁断の地「察隅」(ザユール)に入る。察隅の県庁所在地「吉公」で道は
二つに分かれる。南に行く道はインド国境が近いため軍の駐屯地が展開されており、一般の中国人は入れない。北へ行く道は新しくできた村「桑久」が交易キャラバンの起点になっている。陸の孤島への交通は馬と騾馬のキャラバンが唯一の手段で、10日間かけてイラワジ源流を下って「日東」、さらにツァワロン地方の門空に至る。門空は怒江の右岸の200メートルほど上、標高2200~2350メートルの段丘にある要衝である。古くから中国とチベットの攻防の橋頭堡であった。ツァワロン地方の中心で、かつては奴隷貿易のセンターでもあった。
 ベイリーによれば奴隷は背丈の低い種族で南のビルマ国境地帯から連れてこられ、その身長は「男は4フィート8インチ、女は4フィート4インチ」だった。カムの人々が苛酷な風土にかかわらず、洗練された文明と生活環境を持ったのはこの奴隷制度の故であった。
 著者は一橋大山岳部出身で1961年アンデス遠征をプロモートし、ペルーのブカヒルカ北峰、ボリビアのブブヤ山群などを初登頂した。会社生活の間は登山活動は中断していたが、香港駐在時の1990年まだ未開放地域だった雲南省の玉龍雪山踏査で山行を再開した。「キセル登山家」と自称する所以である。その後東チベット、四川、雲南に広がる「ヒマラヤの東」を踏査すること現在まで実に32回に及んでいる。そ成果は「ヒマラヤの東」「深い侵食の国」「チベットのアルプス」(山と渓谷社 1996~2995年)の3部作として刊行されている。本書は3部作以降の踏査や著者の新たなテーマ「雲南・東チベットキリスト教伝道」に関する論考などが収められている。