2013年3月17日日曜日

松本清張の秘密

  「白鳥事件 偽りの冤罪」 渡部富哉 同時代社 2013年

 著者は「白鳥事件」が「冤罪」ではなく、日共札幌地区委員会と翼下の軍事組織「中核自衛隊」の犯行であることを膨大な資料と「白鳥グループ」など関係者の証言から立証している。そして所謂軍事組織「中核自衛隊」存在の否定は、「公判闘争その他いろいろの事情からだ」という「日本の黒い霧」の記述、をはからずも松本清張は本音を書いていると指摘している。本書にはこのような看過できない興味深い示唆が随所にある。以下二、三紹介しよう。
 まず松本清張「日本の黒い霧」(以下「黒い霧」)について。「白鳥事件」の初出原稿「北の疑惑
ー白鳥事件」が文藝春秋誌に掲載されたのは1960年4月号であり、単行本刊行は1973年である。清張はこの間に日本共産党に入党(秘密党員)したとしている。その手土産として、当時国民の間にあった「白鳥事件は共産党の犯行ではなかったのか」というような共産党に対する大きな疑惑を晴らすため「黒い霧」を一部書き直したとしている。その真相として「佐藤が参加した松川事件の極秘の共産党の会議に松本清張が参加した」という松川事件の下被告佐藤一の証言を紹介している。(本書P219~220)また清張は入党したが、六全協後の党の混乱には関係がないし、まったく知らないから党のいうことを鵜呑みにしたともしている。
 日共の元軍事関係の責任者椎野悦郎の聞き取り調査も興味深い。中核派の本多書記長はかなり以前から椎野と極秘の連絡があった。著者は椎野と椎野のマンションの部屋で本多書記長、北小路敏ともう一人の政治局員と会っている。会談の最後に椎野が「内ゲバは止めなければ駄目だよ」と念を押し、本多と北小路、もう一人の政治局員が顔を見合わせて、笑顔で「わかりました」といったという。本多が革マル派との内ゲバで虐殺される一週間前のことである。「革マルに本多のアジトが探りだせるだろうか、内ゲバを止めさせることに反対する者の仕業だろう」と椎野は悔しがっていた。そしてなぜ内ゲバがこうも激しく闘われるのかという西山隆二(ぬやまたかし)の問いに「それは六全協にあるんだ。党が軍事問題の総括をきちんとやらなかったからだ」と椎野は答えている。(本書P277~278)
 最後に北京亡命の「白鳥グループ」と交流の深かった吉留昭弘の新左翼運動に対するコメント。
「日共の右翼日和見主義を批判し、反スターリン主義を掲げたが、その批判は底が浅く多く極『左』
偏向に陥った。内ゲバは致命的であったが、その思想背景にはスターリン主義の『前衛党』論がありました。その反スターリン主義はあまりにも浅薄に過ぎました。」(本書p336)
まだまだあるが後は本書を読んでのお楽しみである。
 
 

2013年3月3日日曜日

楼蘭王国~古書の宝庫を訪ねてみれば~その3

  「楼蘭王国」  長澤和俊  徳間文庫  1988年


 楼蘭は内陸アジアの奥深くタリーム盆地の東端にかつて存在したオアシス都市国家である。シルクロードの要衝として無類の繁栄を誇ったが、いつしか流砂に埋もれ忘れられた。そして1900年スウェン・ヘディンによって深い流砂の中から発見された。所謂LA遺跡がそれである。井上靖の小説「楼蘭」(昭和33年)の発表や、ヘルマンの「楼蘭 流砂に埋もれた王都」の邦訳、本書のオリジナル(以下旧版)が角川新書の一冊として刊行されたことなどにより、わが国でも広く知られるようになった。然し楼蘭王都の位置については異説も多い。すなわち北都説(ロプノール北岸、LA遺跡)、南都説(ロプノール南岸ミーラン)、移動説(前77年前漢の保護下に鄯善王国が成立した時にLAからミーランに移動)の三説がある。本書の著者長澤の立場は北都説である。
 本書の構成は、楼蘭探検小史(1章)、楼蘭と密接な関係にあるロプノール論争史(2章)、楼蘭の歴史(3,4,6,7章)と社会(5章)、とその史的意義(8章)からなっている。また「その後の研究の進展により、考え方の変わった部分はできるだけ書き改めた」として旧版に対して大幅に加筆・訂正されている。大きく変更しているのは以下の四点である。第一はロプノールの正体についての解明。旧版ではヘディンのロプノール千六百年周期移動説を批判して、現ロプノール(ヘディン再訪時)とカラ・コッシュは二つに分かれた旧ロプノールの残骸と推定していた。本書では完全に干上がったロプノールの原因を急激な人口増加による水量の激減としている(中国社会科学院の分析)。日中関係正常化以降の中国学会との情報交換の成果といえる。第二は2世紀後半におけるクシャン朝移民団による楼蘭征服説の提起である。現地出土のカローシュティー文書の研究から全77年に前漢が設立した鄯善王国(鄯善第一王朝)はクシャン朝文化をもつ移民団に滅ぼされ鄯善第二王朝が成立したとする。すなわちプラークリット語による公文書をカローシュティー文字で記録し、法制・慣行その他にインド的要素をもつ、あたかも敗戦後の米国占領下の日本のような状態であったとする(文書から見た鄯善王国の年代)。第三は伊循城の位置の解明である。本書ではロプノール北岸の土垠遺跡を伊循城と推定する。敦煌から楼蘭(LA遺跡)を経由してコルラ方面にゆくシルクロードの要衝である。ここで中国の考古学者黄文弼は「伊循都尉」の木簡を発見している。第四は従来不明の部分が多いとされていた大谷コレクションの散逸状況の説明である。本書のユニークな部分は勿論二と三である。著者によればカローシュティー文書の解読によらないヘルマンの著書や旧版は時代遅れということになる。
 著者は楼蘭王国史研究の第一人者であり(「楼蘭王国史の研究」 雄山閣出版 1996年)、本書は一般向けに書かれた最も体系的な楼蘭王国史である。その時点での最新の研究成果が盛り込まれ、謎の満ちた楼蘭王国史が鮮やかに素描されている。然し楼蘭王国の謎がすべて解明されたかといえば、そうではない。例えば中国の考古学者には王国維以来鄯善国成立時に楼蘭王都はLAから他に移動したという説が根強い。またLA出土の文書が後漢以前にさかのぼれないことは北都説の弱点である。LAは西晋時代の西域長吏の軍事拠点でありえても、漢代の楼蘭王都ではありえないと。著者はその後LA遺跡を踏査している。外国人でニヤとLAの両遺跡を踏査したのは著者だけである。そのような体験を踏まえて更なる本書の改訂版の刊行が期待される。