2013年3月3日日曜日

楼蘭王国~古書の宝庫を訪ねてみれば~その3

  「楼蘭王国」  長澤和俊  徳間文庫  1988年


 楼蘭は内陸アジアの奥深くタリーム盆地の東端にかつて存在したオアシス都市国家である。シルクロードの要衝として無類の繁栄を誇ったが、いつしか流砂に埋もれ忘れられた。そして1900年スウェン・ヘディンによって深い流砂の中から発見された。所謂LA遺跡がそれである。井上靖の小説「楼蘭」(昭和33年)の発表や、ヘルマンの「楼蘭 流砂に埋もれた王都」の邦訳、本書のオリジナル(以下旧版)が角川新書の一冊として刊行されたことなどにより、わが国でも広く知られるようになった。然し楼蘭王都の位置については異説も多い。すなわち北都説(ロプノール北岸、LA遺跡)、南都説(ロプノール南岸ミーラン)、移動説(前77年前漢の保護下に鄯善王国が成立した時にLAからミーランに移動)の三説がある。本書の著者長澤の立場は北都説である。
 本書の構成は、楼蘭探検小史(1章)、楼蘭と密接な関係にあるロプノール論争史(2章)、楼蘭の歴史(3,4,6,7章)と社会(5章)、とその史的意義(8章)からなっている。また「その後の研究の進展により、考え方の変わった部分はできるだけ書き改めた」として旧版に対して大幅に加筆・訂正されている。大きく変更しているのは以下の四点である。第一はロプノールの正体についての解明。旧版ではヘディンのロプノール千六百年周期移動説を批判して、現ロプノール(ヘディン再訪時)とカラ・コッシュは二つに分かれた旧ロプノールの残骸と推定していた。本書では完全に干上がったロプノールの原因を急激な人口増加による水量の激減としている(中国社会科学院の分析)。日中関係正常化以降の中国学会との情報交換の成果といえる。第二は2世紀後半におけるクシャン朝移民団による楼蘭征服説の提起である。現地出土のカローシュティー文書の研究から全77年に前漢が設立した鄯善王国(鄯善第一王朝)はクシャン朝文化をもつ移民団に滅ぼされ鄯善第二王朝が成立したとする。すなわちプラークリット語による公文書をカローシュティー文字で記録し、法制・慣行その他にインド的要素をもつ、あたかも敗戦後の米国占領下の日本のような状態であったとする(文書から見た鄯善王国の年代)。第三は伊循城の位置の解明である。本書ではロプノール北岸の土垠遺跡を伊循城と推定する。敦煌から楼蘭(LA遺跡)を経由してコルラ方面にゆくシルクロードの要衝である。ここで中国の考古学者黄文弼は「伊循都尉」の木簡を発見している。第四は従来不明の部分が多いとされていた大谷コレクションの散逸状況の説明である。本書のユニークな部分は勿論二と三である。著者によればカローシュティー文書の解読によらないヘルマンの著書や旧版は時代遅れということになる。
 著者は楼蘭王国史研究の第一人者であり(「楼蘭王国史の研究」 雄山閣出版 1996年)、本書は一般向けに書かれた最も体系的な楼蘭王国史である。その時点での最新の研究成果が盛り込まれ、謎の満ちた楼蘭王国史が鮮やかに素描されている。然し楼蘭王国の謎がすべて解明されたかといえば、そうではない。例えば中国の考古学者には王国維以来鄯善国成立時に楼蘭王都はLAから他に移動したという説が根強い。またLA出土の文書が後漢以前にさかのぼれないことは北都説の弱点である。LAは西晋時代の西域長吏の軍事拠点でありえても、漢代の楼蘭王都ではありえないと。著者はその後LA遺跡を踏査している。外国人でニヤとLAの両遺跡を踏査したのは著者だけである。そのような体験を踏まえて更なる本書の改訂版の刊行が期待される。

 

  

1 件のコメント:

  1. 約50年前、お書きになった読書感想文を思い出しました。かしりん

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