2024年1月27日土曜日

楼蘭王国~在りし日の姿

「楼蘭古城にたたずんで」 長澤和俊 朝日新聞社  1989年

 

 本書は、1988年朝日新聞社など日中共同楼蘭探検隊に顧問として同行した著者の記録である。楼蘭、ミーラン、ニヤの3か所の遺跡を踏査した東洋史学者は、1,2の中国人を除けば世界中で著者ただ一人である。楼蘭研究30年、「楼蘭王国」や「楼蘭王国史研究」の著書がある長澤の眼に楼蘭の「在りし日」の姿はどのように映ったのか。楼蘭古城の滞在・見学は10月3,4日の2日間にしか過ぎない。

 楼蘭は「流砂に埋もれた都」と思われているが、実は全く違う。楼蘭古城(LA)は周囲20~30キロを白いヤルダンで囲まれている。LAの位置は中国隊の測量によれば、東経89度55分22秒、北緯40度29分55秒である。そこはロプ湖の北岸から西に約26キロ、孔雀河の南約20キロに位置している。孔雀河の支流の一つはLAの西方6キロの地点で分流しLAの南北を流れ、更に東方16キロで再び合流し、ロプ湖に注いでいる。孔雀河とLAの間には4本の乾河の跡があり、かつては水に恵まれていたと思われる。

 LAはほぼ正方形で、城壁は西壁と北壁は約327メートル、東壁は約333,5メトル、南壁は約329メートルで、総面積は約10万8千240平方メートル(甲子園球場3個分)もある。城壁の幅は基部で5,5メートルから5,9メートルある。城内には西北から東南に流れる水路跡がある。水路は幅16,8メートル、深さ4,5メートルある。この灌漑水路は北側の城壁外の水路もしくは外堀から20センチ角の暗渠(1乃至2~3個)によって、城内に導入され貯水池を経て暗渠で城外に排出されていた。LAは巨大な外堀に囲まれていたと推測される。そして西壁と東壁には城門があり、西壁は甕城になっていた。 古城内の主な遺跡は北東隅にある仏塔、三間房、その北にある大きな家である。仏塔は高さ約10メートルあり、最も目立つ遺跡である。往時は金色に輝いていたかもしれない。その東側には僧房があった。仏塔の南側には立派な木造建築物の建物がある。楼蘭国王の住居、宮殿であろう。三間房は中国駐屯軍の軍司令部、おそらく魏,晋、前涼の西域長史府の跡である。

 LAの周囲はヤルダンに囲まれた不毛の地であるが、その西側の河川敷跡には砂原が所々あり、農耕しようと思えば出来ないことはない。LA西部や北部には、魏晋時代屯田が10か所程度営まれていた。LAには長官の西域長史以下、副長官の司馬、属吏として監察の督郵、綱紀の功曹 、門下の主簿、録事掾などの胥吏がいる。各地の屯田には兵20数名を率いた将が屯田事業に従事していた。屯田の兵士は約300名、文官属吏ら50~60名、護衛兵や、ニヤ遺跡の駐屯員を合わせると楼蘭屯戊の駐屯員は400~500名。そうちLAにいたのは100名足らずで、意外に少ないのである。

 孔雀河の下流域にはBC3800年頃からトハラ語派の人々が住み着いていた。楼蘭(LA)~敦煌間は隊商にとっては17日間行程である。やや長いが、ここから以東には水はなく白龍堆の険路が続く。LAはヤルダン群の真っただ中であるが、北方の遊牧民の襲撃も防ぎ安く、北道にも南道にも通じる要衝であった。BC1500年頃には玉の市場が設けられていた。やがて市場の長は王になった。最初は玉の中継市場に王城が併設されるという簡素のものであった。然しBC2世紀の後半には、西域のオアシスには不釣り合いな巨大城郭都市に成長していた。「史記」大宛伝には「楼蘭・姑師には城郭があり、塩沢に臨むんでいる」と記述されている。東西の交易ルートがここを通るかぎり、楼蘭は永遠の繁栄を約束されていた。