2013年8月18日日曜日

「シルクロード史観」論争その後

   「シルクロードと唐帝国」  森安孝夫  講談社  2007年

 前稿で「シルクロード史観論争」は一方の当事者間野英二が護雅夫の反論を黙殺したため継続せず「すれ違い」で終わったと書いた。これは筆者の思い違い。2007年刊行された本書で森安孝雄は、近年中央アジア学者の間で「シルクロード史観論争」がむしかえされているとし、間野説に徹底的な批判を加えている。間野説の核心は、「中央アジア出土の古代ウイグル文書に登場する住民はすべて農民であり、東西貿易に関係した『オアシス商人』の存在は確認できない」というものである。然し、これは森安によれば明らかな事実誤認なのである。古代ウイグル宗教文書や東トルキスタン・敦煌などから出土したカロシュティー文書・ソグド文書・チベット文書からシルクロード商業の実態を示す文書が発見されているという。
 本書は講談社「興亡の世界史シリーズ」の一冊で唐の建国から終末までの時代を担当している。その中でとくに第1章「シルクロードと世界史」を設け上述の「シルクロード史観」論争を紹介しながら間野説を厳しく批判している。そしてユーラシア史の時代区分やイスラム化強調に疑問を呈している。巷間の回教とは「回鶻=回回=ウイグル」民族が伝えた宗教であるというような完全な嘘なども一刀両断する。
 従来の生産力中心のマルクス主義史観と違って著者は軍事力と経済力を中心とした世界史の時代区分8段階説を唱える。とくにその第5段階「中央ユーラシア国家優勢の時代」(一千年前より)が本書の該当部分であり、唐朝の成立から安氏の乱までが中央アジア史の分水嶺であるとする。本書の本編部分の歴史叙述は、ソグド商人の軌跡を、西域出土の文書を縦横に使用しながら、唐代の歴史を甦らせる。唐が、北魏や隋などと同様に鮮卑系王朝=「拓跋国家」といわれる多民族国家であった実態が明らかにされる。太宗に対して遊牧民族が「天可汗」という称号を奉った事実を、とりもなおさず中国の天子たる「皇帝」に加えて北・西方の草原地帯の天子たる「大可汗」として認知されたとするのは、大唐帝国に対する過大評価だとする。古代トルコ民族史料などによれば、唐王朝は「タブガチ」と称したことが明らかになっている。この「タブガチ」は「タクバツ」(拓跋)であり、太宗は遊牧民族から見れば拓跋国家の汗なのであるというように。読み応えがあり面白いのだが、こういう方法は間野によれば30年前に批判した古い交渉史的研究視角ということになる。
 また本書で注目すべきは序章「本当の『自虐史観』とは何か」である。著者はナショナリズムの問題について、民族と国民(国家)は近代の産物であり、フィクションだと裁断する。つまるところ人類は東アジアの大地溝帯に発生し、各地に分散したのだと。「歴史を学ぶ究極の意義は、人類にも民族にも言語にも思想にも何一つ純粋なものはなく、すべては混じり合って形成されてきた歴史的産物であるから、そこにはいかなる優劣も差別もないということを、明確に認識することである。」
(本書P.40)歴史家たるもの、やはりこれくらいの見識がなければならない。著者は本書の読者として最も期待しているのは高校の世界史・日本史・現代社会の教師だというが、教師のみならず広く読まれてほしい。
(付記)2008年間野英二が本書に対しかなり詳細な批判を発表している。(「『シルクロード史観』
再考」 史林91-2所載)これについては稿を改めて紹介する。

2013年8月4日日曜日

神戸新聞が記録した関学全共闘の闘い~その3

 「神戸新聞 昭和44年2月、3月」 ~マイクロフィルムから

 東大闘争は1・18~19の安田講堂攻防線で実質的に終焉した。ろう城組の大半は外人部隊で、東大全共闘は物理的には健在であったが、その後日共系が軍事的に制圧したキャンパス内で主導権をとることはなかった。関学闘争は違った展開をみせた。全共闘は50名を超える逮捕者により組織的存続の危機かとみられたが、新たに広範な学生が結集し更に戦列を強化した。然しそれは2日間に及ぶ5号別館死守闘争の戦術的正しさを証明するもでは必ずしもない。一部指導者はそう信じ込みたかったにもかかわらず。それはともかく全共闘は2月15日理学部を除く全学部を再封鎖した。キリスト者反戦連合やサークル闘争委によるによる宗教センター・学生会館の自主管理や教授研究棟、同窓会館の封鎖など全学封鎖体制の構築の圧力により学院側は2月26日の「学生集会」を提案した。
2/26~27大衆団交。「ヘルメット、ゲバ棒姿の全共闘学生約200人が全学集会のため設けられた臨時の演壇付近を占拠したが、同1時55分全学集会がはじまった。同日午前3時ごろ、武装した全共闘学生約150人が会場に設けられた金網、放送設備をこわし、午前10時から中央芝ふで決起集会を開いたあと演壇付近を占拠した」(2/26夕刊)
「同大学の新グラウンドの演壇周辺はヘルメット・ゲバ棒姿の全共闘学生約300人が占拠(中略)機動隊の導入などの自己批判を要求する全共闘派学生たちが同学長代理の責任を追及する格好で集会が続いた。(中略)平行線のまま日没で、場所を中央講堂に移して続けられた。(中略)同学長代理は一学生の釈放要求を求めたことについて、学生の6項目要求闘争を弾圧したとの学生の考え方にかなりこだわりながらも、結局は要求を認めて自己批判書に署名した」(2/27朝刊)
27日正午から全共闘主催の「自己批判追及集会」を再開することで、午前1時いったん散会した。
「前日に続き27日午後1時から、中央講堂で小宮学長代理が出席して全学共闘会議主催の『自己批判追及集会が開かれた。朝からの雪で講堂に集まった学生は泊まり込みを含めて約1000人。ヘルメットの埋まる会場では全共闘学生が同学長代理に機動隊導入による入試強行、スト体制の実力排除など4項目について前日に引き続き責任を追及している」’2/27夕刊)
「午後10時前、同学長代理が『3月5日午後1時から中央講堂で全共闘主催の大衆団交を開く』との確約書に署名、約9時間にわたった同日の集会を終わった。確約書は①機動隊導入による入試強行と封鎖校舎の実力排除②学生の構内立ち入り禁止と臨時休校③26日からの全学集会など3項目の収拾策に対する自己批判と6項目要求を対象とした大衆団交を大学の最高機関である理事会、常務会、大学評議会の出席のもとに開くというもの。(中略)この日の『追及集会』は約2000人の学生が参加、前日同様一般の教職員は締め出されたまま終始全共闘ペースで進められた」(2/28朝刊)
そして「収束へやっと一歩 双方それぞれに評価」という同日の解説記事は次のように述べる。「20時間余りにわたった集会の幕切れは『5日に全共闘主催の大衆団交を開く』という一片の確約書だった。小宮学長代理が初めて全共闘学生と対決、学生たちと話し合う姿勢を示したことは事態収拾へのきっかけをつくったといえる。(中略)紛争後初めて大学、全共闘側が一つの舞台に上がる5日の大衆団交でどんな話し合いが持たれるか(中略)小宮学長代理も6項目要求について『論理的に打ち破られるなら白紙撤回もありうる』といままで違った発言をしており、徹底して論争を受けて立つ構え、全共闘もこれまでのような”つるし上げ”の姿勢を捨て、一般学生を含めた幅広い話し合いを持つことが要求され、三月卒業の限度ぎりぎりになって開かれる大衆団交が注目される」
(2/28朝刊)
取材する神戸新聞記者たちの期待が高まった場面だが、それは3/2小宮学長代理、大学評議会評議員全員の辞任(3/3小宮院長職も辞任)で裏切られる。やっと勝ち取った一片の「団交確認書」だが、学院側は「小宮辞任」という形でこれを反故にしてしまった。団交確約書に署名した時点でそれは既定路線であったのだ。5号別館・法学部本館死守闘争という大きな犠牲を払った全共闘学生の怒りは大きかった。
 この時全共闘は構成員・動員力ともピークに達していた。神戸新聞によればノンセクトのヘルメット部隊だけでも200人を超えていた。「6項目要求から大学解体へ」「関学を70年安保粉砕の砦とせよ」というスローガンは提起はされていたが、まだ一部でしかなかった。然しこの大学当局者の総逃亡という「目くらまし」で全共闘は明確な「敵」の姿を見失ったといえる。当面とりうる戦術は各学部教授会への追及しかなかった。中大学費・学館闘争の指導者神津陽が言うように、学園闘争は革命闘争ではなく、閉鎖的な一学園内だけで革命的状態が構築できる訳もない。学園闘争で可能なのは法的規制の枠内で最大限改良でしかないのである。かくして6項目要求を勝ち取るチャンスを全共闘は失ったのだ。(この項続く)