2018年10月23日火曜日

ミイラ何処から来たか

   「馬・車輪・言語(上、下) D・W・アンソニー 筑摩書房 2018年

 言語学者は印欧言語の間に、共通する明確な「対応の一致」が見られることから、一つの祖先言語「印欧祖語」があると考えた。この仮定上の言語は、「再構」という方法によって構築された。文献的証拠はないにもかかわらず、「進化過程の模擬操作」をする「再構」という手法によって、印欧祖語は一つの系統樹にまとめられた。この言語学者の「再構」という作業を、考古学的証拠によって補強したのが本書の著者アンソニーである。アンソニーは「クルガン仮説」で印欧語派の原郷とその拡散の謎を解き明かす。本書はなかなか難解な書物である。歴史言語学の説明や、舌を噛みそうな文化名・遺跡名の羅列などとくにそうである。然し興味深い指摘などもいくつかある。
(印欧祖語の原郷と拡散)
 印欧祖語を話す人々の原郷は、カフカスとウラル両山脈の間、黒海とカスピ海北部のステップ地域(ポントス・カスピ海ステップ)である。彼等は家畜化した馬、牛、羊を生贄にし、穀類もときおりは栽培していた。制度化された身分格差が葬送儀礼には見られた。この牛や羊は、おそらくドナウ川流域から持ち込まれた。それをもたらしたのは、アナトリア西部を発祥とする非印欧語を話す開拓者である。BC5800年頃移住してきた農耕民と先住の採集民との間に文化の境界地帯が生まれた。この固定化は2000年以上続いた。BC5200年頃、牛と羊の牧畜経済がポントス・カスピ海ステップに広がった。牧畜は食糧生産のための新しい手段であっただけではなかった。武力外交と儀礼に基礎をおく印欧文化の特徴を築くものであった。
  最初に移動を開始したのはグループAの特徴を持つ人々であった。まずBC4200~3900年頃前アナトリア語派が西に分離した。ステップにワゴンが導入されたのはBC3900年頃であるから、彼等は車を持たずに移動した。BC3700~3300年頃前トカラ語派が東へ移動した。次にグループBの西への移動が続いて起きた。前ゲルマン語派(BC3300年頃)、前ギリシア語派(BC2500年頃)、前インド・イラン語派(BC2500~2200年頃)である。その後インド語派とイラン語派は分離した。最後にグループCの前ケルト、バルト、スラブ、アルバニア語派が北・北西に移動した。そしてイラン語派は再び移動した。
(トカラ語の成立)
 注目すべきは前トカラ語派の移動である。彼等はカザフスタンを越えて2000キロ以上東のアルタイ山脈にまで移動した。アルタイ西部の草原松林地帯にアファナシェヴォ文化を開いた。ステップに由来する家畜と、金属器の形式、土器の形式と葬送習慣を持ち込んだ。後期アファナシェヴォの牧畜民はアルタイ山脈から天山山脈まで家畜をつれて移動した。そしてBC2000年以降、彼等は天山を越えてタリム盆地北部のオアシスに達した。タクラマカン砂漠北部で発見されたユーロポイドのミイラ(古墓溝、鉄板河古墓)はそのことを証明している。これらのミイラの最古のものはBC1800~1200年と測定されている。ミイラは葬送儀礼(周囲に岩棚状の段があり、蓋をした墓杭に、仰臥屈葬)に加え、象徴(ミイラの頬に描かれた頭飾りの絵)がステップのそれに類似している。BC12~9世紀にかけて、ユーラシアでは気温が低下して、旧来の生業パターン(農牧複合経済)がすたれ、北寄りの人々は遊牧を選び、南寄りの人々は定住農耕に活路を見出した。前者は騎乗を習得し、騎馬遊牧民となった。後に「月氏」と呼ばれた。後者はトカラA語(トルファン、カラーシャル)、トカラB語(クチャ)、トカラC語(楼蘭)の話者となった。トカラ語はクチャではAD8世紀頃まで使われていた。
(チャリオット)
 チャリオット(二輪戦車)は、二輪のスポーク型車輪を、ハミを付けた馬に引かせ、立ったまま操縦する乗り物で、ギャロップで走らせる。御者が座って操縦するカート(二輪馬車)とは違う。最古のチャリオットは、ステップでBC2000年以前に発明された。そこで戦争に使われた。二輪戦車は、ステップの馬と鋲つきのチークピースとともに中央アジア経由で近東に導入された。ミンタニオ人の戦車戦術は、戦車5~6台で部隊を組織し、それが6部隊(30~36台)と歩兵が合わさって旅団を形成する。中国(周)でも1部隊(戦車5台)×5で旅団を形成する。戦車1台に10~25人の歩兵が随伴する。戦車は戦場で轟音をたてて、高速で走り威圧感があった。中国に戦車をもたらしたのはアンドロノブォ文化の人々(イラン系)である。彼等は先発のアフォナシェヴオ文化(トカラ系)の人々を追うように、殷王朝時代の黄河渓谷地帯に到達した。戦車の傭兵として入ったという説もある。
 クルガン文化の拡散と原印欧語派の移動を結びつけるクルガン仮説は、印欧語派の原郷とその移動を説明しうる最も有力な推論である。以上を敷衍すれば、原印欧語派の分離と拡散から明らかなように、人種的・民族的同一性というようなものは存在しない。印欧語派やその一部を「アーリア人」や「アーリア民族」というのは明らかに誤りである。それは「言語」と「民族」や「人種」を同一視する近代の妄想でしかありえない。