2014年1月26日日曜日

正倉院の謎

   「正倉院ガラスは何を語るか」  由水常雄  中公新書  2009年

 毎年10月下旬から11月上旬にかけて正倉院展が開催される。毎回展示されるのは70点前後。かならず初出展や目玉があるわけではないが10年見学すればほぼ主たる宝物を見ることができる。宝物のなかでもガラス器は正倉院の華だ。本書では正倉院に現存する6点のガラス器と
その来歴が紹介される。すなわち「白琉璃碗」「白琉璃高坏」「紺瑠璃壺」「白瑠璃水瓶」「「緑瑠璃十二曲長坏」「紺琉璃坏」である。そして通説とは異なって「奈良時代には正倉院には一個のガラス器も実在していなかったという事実」が明らかにされる。
 例えば「白琉璃碗」。井上靖の「玉碗記」で有名になった安閑天皇陵出土の玉碗と同様に従来は奈良時代以前に日本に舶来していたとされていた。著者は東大寺に納入されていたものが、江戸期に初めて正倉院に登場し、原産地も通説の北イランのギラーンではなくササン朝の王室工房(イラクのキッシュ)ということを立証する。興味深いことに正倉院60回展(2008年)で通説とともに著者の見解が併記されている。
 また「緑瑠璃十二曲長坏」は明治期に初めて正倉院に登場するなど謎にみちている。描かれているチューリップははイラン高原の野生のチューリップ(鬱金香)ではなく、形状から18世紀以降のオランダのチューリップである。鮮やかなエメラルドグリーンを出す溶解度は1370度以上であり、明らかに近代以降の作品であるとする。自らガラス類の復元を手掛ける著者ならではの鋭い指摘である。
 そして極め付けは「紺琉璃坏」だ。深い古代青藍色の透明なブルー、清々しく輝く銀製の忍冬唐草文の脚台。見る者をひときわ異次元の世界へ誘うような気品に満ちた美しいワイングラスである。ササン朝末期(7世紀前半)に、王室のガラス工房の系統をひく民間工房で作られたものと著者は推定している。正倉院への収蔵が確認されるのは鎌倉時代の建久4年(1193年)。いつ日本に渡来し、だれが保有していたのか、まったく不明である。あるいは文治元年(1185年)の東大寺大仏改鋳の開眼供養に際し、南宋の皇帝からの奉納ではないかと著者は推理する。
 著者は「正倉院の謎」「ガラスの道」の作者で、その謎の正解を極めるため自ら正倉院宝物のガラス器の復元を数十年続けてきた。

2014年1月13日月曜日

大谷光瑞の二楽荘~大谷コレクション③

  「モダニズム再考~二楽荘と大谷探検隊」 芦屋市立美術館 1999年

 大谷光瑞の別荘二楽荘は1908年(明治41年)3月27日に起工、翌1909年9月20日に完成した。場所は六甲山中腹に位置し瀬戸内海に南面する兵庫県武庫郡岡本村の岡本山である。光瑞は別荘の条件として①気候最優秀の土地②特殊な地形の完備③交通至便な土地④天災被害のない土地⑤清涼な水が豊富な所としており、六甲山麓の岡本山が選ばれた。標高は190メートル。中段に二楽荘本館、下段に武庫中学、上段には白亜殿と図書館兼宿舎の巣鶴楼があり、各施設は山麓とケーブルカーで結ばれていた。敷地は約24万6千坪である。その総工費は地所取得費15万円、建築費17万円合わせて32万円(現在に換算すれば約80億円)。なお地元岡本村には各戸に総計1万530円を土産金として配っている。
 二楽荘本館を見てみよう。1階には玄関の右側に英国近代室(食堂)、正面に支那室、南側の扉から仏間に通じる。左に事務室と奥に英国封建室、アラビア室がある。2階は玄関右手の階段から上がりインド室と図書室に通じる。図書室の奥の扉を通じて客室3室とエジプト室があり、その外にバルコニーがある。服部等作によれば二楽荘の建築は、英国マナーハウス建築様式の影響を受けているという。光瑞は英国留学時そのような屋敷に寄宿していたのである。また二楽荘の着想の原点はかつて踏査したパキスタンのタクティバイであるという。ペルシャ語で玉座の山と称され、ユスフザイ平原を見下ろす山の中腹標高200メートルに僧院群の点在する遺跡である。(服部等作
「大谷光瑞と二楽荘」勉精出版「大谷光瑞とアジア」所収参照)
(二楽荘の公開)1912年(大正元年)11月2~3日の両日大阪毎日新聞主催で独占公開された。入場者は2日8千人、3日2万3千人。単なる別荘公開ではなく、第3次探検隊の橘瑞超の講演や新疆発掘品の展示も行われた。翌13年2月1~3日クラブ化粧品主催の無料公開も行われた。その間有料公開(入場料50銭)が幾度かあった。
 二楽荘建設はまさに大谷探検隊活動の時期と重なり、二楽荘は西域文化の研究センターそして
アジアへの「グレートゲーム」の基地でもあった。然し二楽荘の命脈は長くはなかった。探検隊の派遣及び二楽荘建設の出費は西本願寺の財務を揺るがす疑獄事件に発展し、1914年光瑞は門主を辞任した。そして1916年(大正5年)1月17日、二楽荘は土地・建物・発掘品など含めて総額21万円で政商久原房之助に売却された。ここから大谷コレクションの流失がはじまり、光瑞は大連に去り、やがて旅順に居を定めた。
(二楽荘の焼失)1931年(昭和6年)3月21日、六甲山の山火事により二楽荘南側ベランダ及び武庫中学付属施設の一部が焼失した。翌32年10月18日、不審火により本館が焼失した。
(二楽荘その後)1944年(昭和19年)尼崎製鉄に所有権移転。1960年甲南興産に所有権転。1972年東洋綿花を経て坂本紡績に売却され高級マンション建設が持ち上がったが、地元の反対で頓挫。1979年末、宗教法人の所有に移った。
 二楽荘については近年、阪神間モダニズムとの関連で研究が進みその全貌が次第に明らかになってきた。本図録はその成果である。然し服部が指摘するように二楽荘への関心が阪神間の地縁に留まっており、「グレートゲーム」との関わりを探求する視点が希薄なのもいなめない。