2017年9月23日土曜日

宇宙から来たブッダ

   「ナチスと隕石仏像」 浜本隆志 集英社親書 2017年

2012年秋、ナチス・ドイツのチベット探検隊(1938年)が持ち帰ったとされる仏像が、1万5千年前宇宙から落下した隕石でできているという驚くべき鑑定結果が発表された。日本でも日経新聞(同年9月27日)などによって報じられた。発表したのはシュットウットガルト大学のエルマール・ブーフナー博士。(「隕石学と宇宙科学」12年月)分析結果から仏像の成分は、1万5千年前にモンゴル国境に近いソ連のチンガー川周辺に落下した「チンガー隕石」であることが分かった。鉄、ニッケルを主成分とするアーキサイトである。仏像は重さ10・6キロ、高さ24センチ。チンガー隕石の中でも三番目に大きい隕石塊である。仏像の胸には「スワティカ」と呼ばれる左回りの卍の標章が刻まれている。ブーフナーは、この仏像は仏教の毘沙門天とボン教の「幸運の神」のハイブリッドであり、制作年代を11世紀頃と推定している。チンガー隕石が発見されたのは1913年であるが、それより随分早くチベットにもたらされたとしている。然し仏像に詳しいバイエル博士は「ズボンを穿いたラマ」という論文で、風貌や服装がチベット人と異なるなど13点の疑問を提起した。そして時代考証から、この隕石仏像は1910~70年の間にヨーロッパ人によってつくられたものだとした。
  これに対して著者はバイエル博士の論拠に依拠して、「仏像」の各パートについて次のように考察している。①頭帽はダライ・ラマをモデルにしており14世紀以前にはさかのぼれない。②顔立ちはイラン系アーリア人(ゾロアスターなど)をモデルにしている。③鎧の上にスワティカを刻印した仏像は例がない。④ズボンはイラン系遊牧民の服装である。⑤鎧に羽織るマントはアレクサンダーの軍装をモデルにしたものである。以上から、この「仏像」はアーリア人のイメージをモンタージュしたものであり、チベット人が制作したものではないと推定する。それでは誰がつくったのか。ドイツ探検隊(シェーファー隊長)は「仏像」を将来したのではなく、隕石を持ち帰ったのである。チンガー隕石は現在までに250キロ収拾されているが、その中の一つが、隕石信仰の強いチベットにまで運びこまれていたのである。それをシェーファーがドイツに持ち帰ったのである。この隕石塊から仏像制作を命じたのはナチスの親衛隊隊長ヒムラーである。アーリア人のルーツをチベットに求めるヒムラーの妄想が、隕石からの仏像制作を主導したと著者は推測するのである。
 何故ナチス・ドイツはチベットに探検隊を派遣したのか。それはこの探検隊のプロモーターであるヒムラーのオカルト癖に大きく帰する。チベットに存在したとされる地底王国シャンバラや、アーリア人種の一部がチベットにたどり着いたとする妄説にヒムラーは異常な興味を持っていた。アーリア人の原郷探査はチベットのみならず、アイスランドや北欧、クリミアなどにも及んだが、いずれも失敗に終わった。このアーリア人の原郷探しは、架空の「アーリア神話」を補強するためでもあった。たしかに「アーリア」という言葉はサンスクリットで「高貴な」という意味であったが、ナチスはそれを北方ドイツ人の「金髪、碧眼、長身、高鼻細面の白人」という身体的特徴に置き換えた。そもそもこれらドイツ人(ゲルマン族)はインド・ヨーロッパ語族の一部であるが、BC2000年頃北ドイツに移動し、そこで先住民「巨石文化人」と混血して形成されたものである。ナチスはインド・ヨーロッパ語族全体を「アリア人種」と名付け、その中で北方系を優等とした。このような「アーリア神話」は、言語が共通していることが同じ人種であるとするまやかしに立脚したものにすぎないのである。

2017年9月2日土曜日

「東トルキスタン共和国」の真実

  「東トルキスタン共和国研究」王柯 東京大学出版会 1995年

 「東トルキスタン」や「東トルキスタン共和国」の語句は現在中国では禁句とされている。「三区革命」は「中国人民民主革命の一部」として評価されているのに東トルキスタン独立運動について語ることはタブーなのである。何故か。それは中国共産党の民族政策の基調が民族区域自治政策であることに起因する。国内少数民族の自治権を特定地域にのみ限定して付与するが、分離独立は決して認めない。鄧小平はいみじくも「民族主義はブルジョワ思想の重要な側面であり、プロレタリアートの世界観とはあい入れないものであって、反マルクス・レーニン主義、反共産主義の思想である」(鄧小平報告 8期3中全)と述べている。かくも中国では民族自決主義は排斥されるのである。
 本書はこの「東トルキスタン共和国」の誕生から消滅までを、「三区革命に関するイリ州の未公刊資料」などをもとに余すところなく描いている。然し本書刊行後、ソ連崩壊によって公開された秘密文書から驚くべき事実が明らかになった。従来「共和国」と「独立運動」の最後は次のように信じられ、本書もそれに従っている。1949年8月三区の元「共和国」リーダー達は中共の「新政治協商会議」に出席するため、ソ連経由で北京に向かう途中、ソ連領内で飛行機事故にあい、全員死亡した。ただ一人新疆に残っていたサイフジンが改めて北京に向かい、9月中共に服従する旨を表明したと。だがソ連文書は、「飛行機事故」ではなく、全員ソ連に連行され殺害されたことを明らかにしている。
(東トルキスタン共和国」
 東トルキスタン共和国」(以下「共和国」)は第二次大戦末期から新中国成立までの混乱期に、新疆省の一部に存在したトルコ系少数民族の国家である。人口70万人の小さな国である。1944年7月7日イリ区のクルジャでゲリラによる蜂起が起き、12日「共和国」臨時政府を樹立した。ゲリラ側は新疆省政府軍より劣勢であったが、ソ連赤軍の強力な支援(飛行機、戦車、大砲など)があった。45年4月には1万5千人の「共和国」民族軍を創設し、8月までにはイリ、タルバガタイ、アルタイの3区を完全に制圧した。然し快進撃を続けていた民族軍は省都ウルムチを目前にして、攻勢を停止した。それはソ連の政策転換による。ウルムチのソ連領事館の仲介で、国民政府との交渉が始まり、46年1月2日に「クルジャ和平協定」が締結された。続いて民族軍の帰趨を決める第二段階の和平協定が6月6日に調印された。そして6月28日「共和国」政府は「自己の使命は終えた、三つの専区はそれぞれ連合政府に直接帰属する」と宣言した。「共和国」は誕生から2年弱で淡雪のように消えたのである。連合政府も1年足らずで崩壊し、「共和国」のリーダー達は三区に引き揚げた。
(ソ連の政策転換)
 ソ連の政策転換は何故起きたのか。45年2月のヤルタ会談で、米英はソ連の対日参戦を早期に実現すべく、ソ連の中国における権益要求を容認した。すなわち外モンゴルの現状維持、大連商港における優先的利益擁護、旅順港のソ連租借権回復、東清鉄道・南満州鉄道の中ソ合弁である。ソ連はこれらの権益を獲得するため「共和国」の独立を売り渡したのである。ソ連は最初新疆に外モンゴル型の独立衛星国を考えたが、その後国民党政府との友好維持と権益獲得のため、「共和国」を捨てたのである。「共和国」は国際戦略上の一つの駒にしか過ぎなかったのである。
 「共和国」は消滅したが、その母体となった第二次東トルキスタン独立運動は、その後の中国のトルコ系イスラム住民に強い影響を与え続けた。それは二つの特徴が刻印されていた。第一の特徴は、第一次独立運動がウイグル人主体であったのに対し、あらゆるトルコ系住民ーウイグル、カザフ、ウズベク、タタール、キルギスを抱合した民族独立運動であったことである。彼らはイスラム教徒であり、異教徒への聖戦として、強い求心力を持っていた。第二はそのリーダー達が親ソ派知識人であったことから、ソ連との結びつきが強かったことである。地政学的にもソ連の支援なしに、中国領内に民族国家を建設することは不可能であった。それはその後の新疆の現代史に深く投影されている。例えば大躍進時代に新疆で「百家争鳴」に参加した民族幹部は、ソ連で教育を受けた経歴を持つ、三区革命のクルジア・グループの生き残りであった。また1962年、6万人のトルコ系住民のソ連への越境・逃亡を指導したズヌン・タイボフは三区革命の生き残りで元「東トルキスタン人民軍」の副司令官であった。逃亡前は人民解放軍新疆軍区の副参謀長であった。
その後トルコ系住民の独立運動はソ連に代わって、周辺の民族共和国なかんずくカザフ共和国やアルカイダ系の援助を受けるようになる。とくに後者は97年に組織された「東トルキスタン独立運動」(ETIM)である。
 そして本書の著者王柯をめぐる事件である。王柯(神戸大学国際文化学部教授)は2014年3月17日、出張先の福建省泉州市で「西安の母親を訪ねる」との連絡後消息を絶った。公安に拘束されていたのである。18日間の取り調べの後24日に釈放された。王柯はその間の経緯を黙して語らない。サントリー学芸賞を受賞した本書は中国にとって「危険図書」であるのだ。中国で「東トルキスタン共和国」を語るのはタブーなのである。