2016年12月27日火曜日

NLD文民政権のミャンマー

    「『アウンサンスーチー政権』のミャンマー」永井浩他編 明石書店 2016年

 NLD文民政権が2016年3月に成立して以降、ミャンマーの民主化は着実に進展しているようにも見える。本書は7人のジャーナリストや研究者によるこの政権移行過程の最新のレポートである。特に興味深いのは軍政内部に詳しい宇崎真(アジアウォッチ代表)のレポートである。なぜ国軍が自ら民主化に踏み切り(2011年民政移管)、混乱なくNLD文民政権に道を譲ったのかが明らかにされる。また五十嵐誠(朝日新聞ヤンゴン支局長)レポートではそれを可能ならしめたNLD側の要因を探る。そして永井浩(元毎日新聞バンコク特派員 アウンサンスーチー「ビルマからの手紙」の共訳者)のレポートでは「アジア最後のフロンティア」論の問題点が指摘される。
 (宇崎真「軍政内部から見た民政移管の深層」)
 2004年に独裁体制を確立したタンシュエの権力の源泉は人事と金である。国営企業の民営化、国有地の払い下げでクローニー(軍政の取り巻き財界人)と将軍達は利権漁りに奔走した。
クローニーの蓄財は、公共料金の値上げなどで国民が喘いだ時期に行われ、社会の格差が一挙に拡大した。とくに利権に関係ない軍人の困窮は著しく、下級兵士の逃亡があいつぎ、国軍の崩壊状況が進んだ。これに危機感を持った国軍幹部(反タンシュエ派、タンシュエ派の一部)が西側の経済制裁緩和を望んだというのである。そして政権移譲がスムーズに行われたのは、2015年総選挙前に主だった利権の分配がすでに終わっていたからである。主なクローニーには次のようなのがいる。古くは元祖麻薬王のローシンハ。キンニャンとのコネで少数民族との「和平協定」締結の見返りに、アジアンワールドを設立する。ヤンゴン中心部にあるトレダースホテル(現シャングリラ)のオーナーでもある。ティザー(トゥーグループ)はタンシュエとのコネでエアーパガン(ミャンマー初の民間航空)を立ち上げた。木材輸出、銀行、観光事業、携帯電話サービスなどに手を広げている。日本に留学経験のあるゾーゾー(マックスグループ)もマウンエイ(軍政序列2位)のコネで中古車輸入を皮切りに建設、ゴムプランテーション、天然ガス事業などで巨富を得ている。
(五十嵐誠「アウンサンスーチー政権の挑戦」)
 五十嵐によれば、経済制裁解除と軌を一にしてティンセインの「民主化」は足踏み始めたという。改憲論議が進むにつれ」国軍の権利喪失に躊躇しはじめた。それでもスーチーが改憲論議を進めることが出来たのは、与党内に「協力者」を得たからである。それはUSPDの事実上の党首で、下院議長のシュェマン(軍政3位)である。シュェマンは国軍士官学校11期で、ティンセイン(軍政4位)より2年後輩だが序列は上である。
(永井浩「『アジア最後のフロンティア』論を越えて」)
 NLD文民政権成立後もミャンマーへの駆け込み投資は過熱している。まるで経済発展が人権・民主化にとって代わったようである。然し日本が官民あげて開発支援したティラワン工業団地では、移転を迫られた住民の反対運動が起きている。住民代表が来日し政府や国会議員に問題の解決を訴えている。劣悪な労働環境や長時間労働などの人権侵害が放置されれば、「経済発展」も他の後進国と同じ道をたどることになる。「アジア最後のフロンティア」の実体は低賃金と未開拓の市場に他ならない。そこそこの経済成長を達成する普通の後進国として再び世界から忘れ去られる危険性を永井は警告する。
 最後に本書の編纂者の一人である根本敬について。根本は日本政府と外務省は2015年11月の総選挙直前までNLDの政権掌握の可能性を想定していなかったとしている。そしてスーチーの2013年訪日時の講演談話「日本の外交の欠点は、政権が交代することがあるということをほとんど考えていない点にある」を引用している。歴史家だけにこのような過去の分析には鋭いが、将来の予測については誤りが多い。例えば「アウンサンスーチー」(角川書店2012年)のテインセイン政権のタンシュエ黒幕説。これはその後の事実経過によって否定されている。もう一つは「物語ビルマの歴史」(中公親書2014年)における括弧つき民主化説。これは現在進行形である。それよりもNLD文民政権にもしぶとく寄生しているクローニーの問題が看過されているのが気にかかる。

2016年11月25日金曜日

「大谷探検隊」の跡を訪ねて

   「シルクロードに仏跡を訪ねて」 本多隆成 吉川弘文館 2016年

20世紀初頭三次にわたって中央アジアを踏査した大谷探検隊。その業績は欧米の探検隊に比肩する。然し研究者やシルクロードに関心を持つ一部の人を除いて、その偉業はほとんど知られていない。大谷探検隊が高校世界史の教科書(第一学習社)に載ったのは、つい最近である。その報告書「新西域記」があまりに大部(上下2巻で13キロ)で、稀覯書であり一般には利用しづらかったためである。近年大谷探検隊に関する研究は急速に進んでいる。その成果をふまえつつ、その全貌を平易に伝えようとするのが本書である。
 「研究面での新たな貢献は少ない」(著者)が、大谷探検隊に関する最新情報を盛り込んだ入門書である。その特色の第一は白須浄眞、片山章雄などの最新の研究成果を取り入れ、研究の現段階を解説している点である。第二は分散して収蔵されている大谷コレクションの現況を明らかにしていることである。第三は探検隊に関係ある土地や将来資料が収蔵されている博物館を四半世紀かけて全て訪れている点である。これが最大の特色で、著者撮影のこれらの写真が本書に色をそえている。サブタイトルを「大谷探検隊紀行」とした所以である。
 (研究の現段階)
 従来第2次隊の帰路はミンタカパス越えか、K2西方のムスタクパス越えと考えられるような地図
 が使われ、そう信じられていた(藤枝晃「大谷コレクションの現状」1991年、著者「大谷探検隊と本多恵隆」1994年)。然しそれは誤りで、実際はカラコルムパスを越えてレーに出、そこからスリナガルに至った。(「西域考古図譜」所収の大谷光瑞「大谷探検隊の概要と業績」ではカラコルムパス越えとある)これが第3次隊に予定されていた野村栄三郎のカラコルムパス通過拒否につながるのである。すなわち短期間に二度連続して国境付近を通過することが、大谷探検隊の「スパイ疑惑」を生んだのである。これは日本外務省文書の発掘と解読によって白須が明らかにした)白須「大谷探検隊研究の新たな地平」2012年)。第2次隊橘の楼蘭故城発掘についても、光瑞がヘディンから得た正確な経度・緯度を暗号電報で指示したことを明らかにしている(白須編「大谷光瑞とヘディン」2014年)また片山は探検隊編成の策源地であったロンドンにおける光瑞の動静・企図などをつまびらかにしている。
(大谷コレクション)
 大谷コレクションは二楽荘の閉鎖以降複雑な分散・移転をたどったが、現在大きく次の4か所に収蔵されている。中国旅順博物館、韓国国立中央博物館、東京国立博物館、龍谷大学大宮図書館である。旅順、韓国については2014年に本書執筆のため再訪しており最新の状況がわかる。韓国国立中央博物館は2005年10月28日にソウル特別市龍山区の米軍基地跡地に移転し開館している。9万2千坪の敷地に地下1階・地上6階で世界6位の規模である。大谷コレクションは3階のアジア館の中央アジア室に展示されている。379件1700点あまりである。ベゼクリク千仏洞壁画、キジル千仏洞壁画、アスターナ古墳群出土の伏羲・女媧図などがある。旅順博物館の大谷コレクションは、その一部が日本で4回公開されている。①1988年神奈川県立歴史博物館「中国遼寧省文物展」、②1992~93年京都文化博物館「旅順博物館所蔵品展」、③2002年佐川美術館「絲綢の至宝」、④2007年青森県立美術館「旅順博物館展」である。現在は一般のツアーにも開放されている。また龍谷大学に関しては龍谷ミュージアム開設(2011年)に続き、2015年「龍谷大学世界仏教文化センター」が創設され、「西域総合研究班」で大谷探検隊に関する研究がなされている。
 本書のハイライトはいうまでもなく著者による四半世紀にも及ぶ「大谷探検隊」探求紀行である。一気呵成に読むのは惜しい。暮夜、左党の向きには洋酒をチビリとやりながら少しずつ読むのがふさわしい。ちなみに著者は「大谷探検隊」研究の専門家ではないが、第1次隊員本多恵隆の孫にあたる。書かれるべくして書かれた本である。

2016年11月15日火曜日

続・西北研究所~昭和史の謎を追う⑮

        「近代日本の人類学史」 中生勝美 風響社 2016年


戦後の京大学派の総帥と目される今西錦司についての一つのエピソードがある。1943年10月東北帝大文学部助教授に転任する桑原武夫の送別会の帰り道、加茂川の葵橋たもとのことである。「クワ、俺はやるぜ」と言った今西の言葉を桑原は回想している。その意味は、好きな探検や山登りのためなら「軍とでも手を結びまっせ」ということだと、桑原は解釈している。桑原は人も知る反軍思想の持主である。その桑原に今西はこう言ってのけた(「今西錦司伝」斉藤清明)。そして44年4月張家口に設立された西北研究所の所長に今西は迎えられた。
 西北研究所でなぜ自由な研究が保証されたのか。それは当時の戦争遂行計画が関わる。ソ連との国境近辺に居住していたオロチョン、ダフール、そしてムスリム宣撫工作がなによりも重視されていた。モンゴル民族に対しては食糧と家畜の増産が政策目標とされるに過ぎなかった。こうした事情により軍事的空白地帯として自由な研究が許されていた。
 然し西北研究所が直接的に戦争と関係していた事実を著者は本書で指摘している。それは京都帝大同窓生による軍部との関係であった。その中心人物が篠田統(1899~1978)である。
(篠田統とは)
 篠田は京都帝大理学部化学科卒、動物大学院に進学後、オランダ(ユトレヒト大学)、ドイツ(ミューヘン大学)、イタリア(ナポリ水族館)に留学。1938年から陸軍技師として関東軍に所属し昆虫防疫を担当した。1940年から北支軍軍医部所属、1945年北京衛生試験所技師、同年12月内地に引揚(逃亡)、戦後は大阪学芸大教授を務めた。軍属時代の痕跡を隠すため専門を食物学
にかえた。動物科出身の篠田は、同じ研究室の先輩今西と親交があった。篠田がいた北京衛生試験所とは、中国の微生物研究所を接収したもので北京市内の北海公園にあった。それは1938~45年の間、表向きは「北京防疫給水部」と名乗っていたが、実は1855部隊と称する細菌戦部隊の一つであった。第三課あるいは篠田部隊と呼ばれた。篠田はその責任者で大佐級の軍属であった。篠田部隊の任務はペスト菌を持ったノミと破傷風をもったハエの培養で、人体実験も行っていた。
(タイプス左翼旗調査旅行)
 1945年6月、篠田が隊長として一個分隊を率いてタイプス左翼旗までの調査旅行を実施した。名目は内モンゴル草原の「生物相」の調査。この調査に西北研究所の今西と梅棹忠夫(篠田の後輩)が同行した。この時の調査で捕獲した動物は少量で、「この奇妙な作戦」を梅棹は「軍隊を使って自分の好きな研究をしている」と能天気に回想している。然しこの場所は、ソ連軍がモンゴルから満州へ進撃すると想定された通過ルートで、実際ソ連軍はそのルートで張家口に侵攻した。この地域での生物相や、ペストノミを植え付けた齧歯類の調査は細菌戦にとって不可欠の研究であった。中国側の記録では、1945年8月21日王爺廟(ウランホト)でソ連軍兵士がペストに感染して死亡したとある。また1947年から49年に旧満州西部から内モンゴルにかけてペストが大流行したという。
 西北研究所にいた藤枝晃は篠田が中国で従事した仕事(細菌戦関係)について「おぼろげながらわかっていた」と認めている。藤枝と梅棹は回想録でタイプス左翼旗への篠田隊との同行について言及している。然し今西は沈黙している。「健筆家の今西が、自分の論文で1945年6月の篠田隊に同行したことを全く触れていない点には疑問が残る」と著者はしている。そして戦時中の研究を戦争協力という単純図式で全面否定はできないと留保しながら、西北研究所について「学問と戦争の関係を考える上で大きな問題を提起している」と言う。なぜなら戦時中の西北研究所での活動こそが、フィールドから理論構築する戦後の京都学派の出発点だったからである。

2016年10月22日土曜日

瀬島龍三の秘密~昭和史の謎を追う⑭

       「私を通り過ぎたスパイたち」 佐々淳行 文芸春秋 2016年



 本書には驚愕すべき事実がさりげなく書かれている。あの瀬島龍三が「ソ連のスパイ」というのである。瀬島は大本営参謀・陸軍中佐、11年間のシベリア抑留にもかかわらず不屈の非転向を貫いた「不毛地帯」の主人公にも擬せられた。その後伊藤忠会長、第二次臨調委員として国鉄民営化などに辣腕をふるい、中曾根内閣のブレーンのみならず歴代内閣の「参謀総長」として君臨し続けた。そして昭和59年勲一等瑞宝章の栄誉に輝いている。その瀬島がスリーパーとしてソ連に協力することを約束した「誓約引揚者」だというのである。
(瀬島龍三とは)
 瀬島は11年間のシベリア抑留を終えて昭和31年8月19日ソ連から帰還した。32年には伊藤忠に入社する。就職の斡旋をしたのは元内閣書記官長の迫水久常である。戦前元首相岡田啓介を中心に、岡田家、迫水家、松尾家、瀬島家の間で官僚・軍人の閨閥ができていたのである。
この頃は迫水が四家の家長的存在であった。伊藤忠は防衛庁商戦に参入するための戦力として瀬島に期待していた。
 瀬島の最初の成功はバッジシステム導入商戦の逆転勝利である。優勢だった米GE-三井物産をおさえて米ヒューズと組んだ伊藤忠が受注したのである。それを皮切りに戦後賠償(インドネシア、韓国)商戦に介入して成果を上げた。36年に業務部長、翌37年取締役業務本部長。38年常務取締役となり、53年には会長にまで昇進している。同年東商特別顧問となり財界活動を開始する。そして56年第二次臨調委員となり、中曽根内閣成立後は総理府臨時行政改革推進議会委員として、総理の「参謀総長」としt辣腕をふるう。なお「行革」に専念するため伊藤忠相談役に就任している(56年6月)。中曽根に瀬島を紹介したのは東急グループの総帥五島昇である。
(東芝機械事件)
 昭和62年東芝機械のココム違反事件が発覚した。東芝機械がココム規制に違反して大型工作機械を第三国のノルェーを迂回してソ連に不正輸出していた。不正輸出した五軸大型スクリュー工作機械によってソ連原潜のスクリューの形状が変わり、米海軍はスクリュー音の感知ができなくなった。米国防長官の強硬な抗議によって、警視庁は時効すれすれの2件を立件した。「外国為替及び外国貿易管理令違反」により、東芝機械は企業として罰金200万円、同社材料事業部長懲役10か月執行猶予3年、工作機械事業部工作技術部専任部長に懲役1年執行猶予3年の有罪判決がでた。然し親会社東芝と斡旋した伊藤忠には刑事責任は届かなかった。東芝の佐波会長と渡里社長が道義上の責任をとり辞任。伊藤忠は瀬島を相談役から特別顧問に形式的に降格したのみであった。この不正輸出を強力に主導したのは瀬島であった。事件が発覚しなかったら「スターリン勲章」ものの大仕事であったと著者はいう。
(瀬島龍三の秘密)
 この事件で瀬島はからくも逃げ延びた。「黒幕は瀬島龍三氏であり、何らかの政治的社会的制裁を加えてしかるべし」という著者(当時は内閣安全保障室長)の意見具申は通らなかった。然し捜査の結果から瀬島の過去の秘密が改めて浮上してきた。かつて著者がラストボロフ事件の残党狩りをしていた時、KGBと不審接触した日本人の中に、伊藤忠ヒラ社員の瀬島がいた。当時瀬島はあまりにも「小物」と判断され、深く追及しての捜査対象にはならなかったのである。以下著者と後藤田長官との対話。
 (後藤田) 「瀬島龍三氏のことになると佐々君はバカに厳しい。中曽根さんの経済問題の相談  役なのに、なんで悪口ばかり言うのか」
 (著者)  私は警察庁の元外事課長ですよ。KGB捜査の現場の係長もやったんです。瀬島がシベリア抑留中、最後までKGBに屈しなかった大本営参謀というのは事実ではありません。彼はスリーパーとしてソ連に協力することを約束した『誓約引揚者』です」
 (後藤田) そうか。瀬島龍三は誓約引揚者か」 (本書P178)
瀬島はブレーンとして中曽根の周りにつきまとい、それをツイタテにして「ソ連のスリーパー」としての追及をかわそうとしていた。著者によれば、会議で同席することが多かったが、なぜか目をそらしたという。そしてお世事めいた手紙をよこしたこともあったと。
 その瀬島に対して昭和天皇は田中清玄に次のように語っている。「許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全てに渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし、戦争責任の回避をおこなっているものである。瀬島のようなものがそれだ。」(「田中清玄自伝」(ちくま文庫P309)そして田中は中曽根に瀬島のような男を重用することを注意したという。彼によれば瀬島とゾルゲ事件の尾崎秀美は感じが同じだという。また保坂正康「瀬島龍三 参謀の昭和史」には、中曽根が58年に訪米した時に米国の高官が「あなたの傍から、ミスター・セジマを離しなさい」と伝えたともいう。
 瀬島はかつて大本営参謀として、ジュネーヴ条約の存在を隠して下級将校や下士官・兵に「戦陣訓」をタテに投降・捕虜になることを禁じ、死を強制した。自らは虜囚となったことを恥じず、喜々として勲一等瑞宝章を受章したのである。
 

2016年10月13日木曜日

「図説シルクロード文化史」を読む

      「図説シルクロード文化史」 ヴァレリー・ハンセン 原書房 2016年

 東洋と西洋を結ぶ中央アジアの砂漠の道を「シルクロード」と名付けたのはドイツの地理学者リヒトフォーヘンである。本書の著者はこのスーパーハイウェイに実にユニークな指摘をしている。本書が扱うのは「中国と西洋の交易のはっきりした証拠が現れはじめる」2~3世紀から「敦煌とホータン出土文書の最後の年代」である11世紀のはじめまでである。
(「シルクロード」について) 
 「シルクロード」は古来から人々が往来する一本の連続する道と思われてきたが全く違う。機上から眺めたとしても見えない。それは実際の道ではなく、「広大な砂漠と山岳地帯をつらぬく、標識もない、つねに変化する道筋のつらなり」であったと著者は言う。つねに道筋が変わるので、旅人は行程の区切りごとにガイドを雇わねばならなかった。そして、ほとんどの旅人は「自分の住むオアシスから次のオアシスへの500キロほどを旅するだけで、それより遠くへはいかなかった」のである。したがって、その商品取引も地区ごとの微々たる量の取引であった。「シルクロード」を象徴する絹も数多い商品の中の一つに過ぎなかった。それ故この土地に住む当時の人々はこの道を「シルクロード」とは呼ばなかった。
 然し紀元前後に漢王朝が西域に軍隊を派遣・駐屯させてから事情が変わった。兵士達の報酬として絹織物を使ったので、これらの地域に大量の絹が流入した。それは唐王朝の時ピークに達する。730~40年代にこの地域の四つの駐屯地に送り込まれた絹織物は毎年90万疋に達した。この絹は現地で様々な商品(生活必需品)と交換された。この期間が「シルクロード」が最も輝いた時代であった。そして唐王朝が西域から召喚した755年以降この地域は自給自足経済に戻っていった。
(ガンダーラからの移民)
 紀元200年頃「シルクロード」を通って最初の移民がガンダーラからやってきた。現地ではクロライナと呼ばれたローランやニヤに定住した。中国名で「鄯善」と呼ばれた地方である。その規模は一回では最大でも100人程度であった。移民の波は何度かあった。高度な技術を持った移民が、ニヤなどの支配者を倒して新国家を建設した可能性を著者は否定する。この指摘は重要である。かくして長澤和俊のクシャン朝遺民団による「鄯善第2王朝説」は明確に否定される。その根拠の第一はラバータク碑文の解読によってクシャン朝の王統の継続性が確認されたことである。第二はニヤ出土文書解読による王の名前と書記の名前の分析である。王の名前がすべて現地人であるのに対し、書記の名前はすべてガンダーラ人であった。移民がもたらしたのは文字体系(カロシュティー文字)と木簡を作る技術であった。クロライナの住民はそれまで自らの言語を表現する文字を持たなかったのである。
(トカラ語について)
 1908年ドイツの言語学者ジークとジークリングは、現在「トカラ語」として知られる未知の言語の解読に成功した。この言語はトカラ語A (アグニ)、トカラ語B(クチャ)、トカラ語C(ローラン)としてかつてタリム盆地北東辺で使われていた。トカラ語は遊牧民族月氏(クシャン)が話した言語であると言われている。「月氏は甘粛を離れるときにはトカラ語を話していたが、その後アフガニスタンにやってきたときにバクトリア地方で使われていたイラン語に切り替えたのだと主張する研究者もいた。しかし月氏の子孫がニヤにたどりついたときには、彼らはまた別のガンダーラ語を話していた」と著者は指摘している。このトカラ語はインド・ヨーロッパ語族群の一つであるが、近隣のインド語やイラン語とは遠く、最も西のケルト語と近いことが分かってきた。何故タリム盆地の一角でこの言葉が使われていたかは不明である。遠い昔の民族移動によって生じたと推定されるに過ぎない。
 本書は中央アジアのニヤ、クチャ、トルファン、ホータン、ソグディアナのオアシスと中国の敦煌、長安など7つの都市の遺跡と出土資料を紹介・解説している。その結論とは次のようだ。「シルクロード」の交易は小規模であっが、その陸路を人が移動することによって東西の文化交流がおこった。最大の影響力を持ったのが難民、移民であった。そして彼らは最初の仏教徒でもあった。たしかに本書に描かれた時代が、「シルクロード」という言葉が使用されるに最もふさわしい時代であった。

2016年9月26日月曜日

大谷コレクションの現況

     「西域~流砂に響く仏教の調べ」 能仁正顕編 自照社出版 2011年

  本書は「龍谷大学仏教学特別講座」の第2回目講義(2008年秋)を編集載録したものである。とくに大谷コレクションの最新の現状(特に国内)を報告した三谷真澄「大谷コレクションと敦煌資料」は注目に値する。その他トルファン出土写本の同定作業の紹介(同「トルファン資料の意義」)や、ベゼクリク第15石窟壁画の復元(入澤豪「壁画復元」)は興味深い。後者は2011年開設された「龍谷ミュージアム」にデジタル復元された壁画として結実している。
(大谷コレクションの現状)
 大谷探検隊将来の所謂「大谷コレクション」は中国、韓国、日本の三カ国に分散保管されている。
その経緯については既述した(「みたび大谷探検隊について」)。すなわち藤枝晃が分類したように(A-1)中国旅順博物館所蔵、(A-2)同北京図書館所蔵、(B)韓国中央博物館所蔵、(C-1)東京国立博物館所蔵、(C-2)京都国立博物館所蔵、(D)龍谷大学所蔵、(E)その他個人・機関所蔵である。本書はD,Eについて、とくにDについてはその後収蔵されたものも含め詳しく紹介している。
(龍谷大学所蔵品)
 龍谷大学所蔵品の内訳は戦後大谷家から寄与された大谷光瑞の遺品木箱2箱(D-1)が中心である。その他(D-2)探検隊将来敦煌写経若干巻(西域史料501~537)、(D-3)橘瑞超氏贈敦煌写経6巻、(D-4)吉川小一郎氏寄贈分(写真原版「流沙残闕」さらに1988年遺族より探検中に使用したカメラ、三脚、鞄、旅装等が寄託)、(D-5)堀賢雄、渡辺哲信の日記(「新西域記」未収分)である。なお商人より購入したNo539以降のものには探検隊将来品とはまぎらわしいものもある。
これ以降寄与及び購入されたものには以下がある。(D-6)野村栄三郎師将来仏頭(1996年)、(D-7)青木文教師将来チベット文化資料(2000年、2002年)、(D-8)堀賢雄師将来資料(2002年)、(D-9)藤谷晃師将来資料(2004年)などである。
(個人・機関の手にあるもの)
 個人・機関については次のような所に収蔵されている。すなわち出光美術館、MOA美術館、シルクロード研究所、天理大学付属図書館、東京大学東洋研究所などである。これらの出所は光瑞が発掘品の一部を隊員や他の人に現物給与のような形で分け与えたものや、二楽荘で古写本の極小断片を台紙に貼って販売したものである。
(トルファン資料の同定)
 旅順博物館には2万6千点の写本の断片が収蔵されている。そのほとんどは漢字資料だが、それは「藍冊」に保管されている。2006年その中から1429点を精選した図録が出版された。その過程で、296年書写とされる「諸仏要集経」写本の離れが見つかった。「西域考古図譜」に収められているこの写本本体は現在行方不明である。「藍冊」にランダムに貼られた写本断片の一つ(LM20_1456_16_15)が同じ写本の離れであることが分かった。このような同定作業はコンピューターの検索によって龍谷大学と旅順博物館との間で行われている。
(ベゼクリク石窟壁画の復元)
 ベゼクリク第15石窟の壁画はドイツ隊、ロシア隊(エルミタージュ博物館所蔵)、イギリス隊(インド国立博物館所蔵)、大谷探検隊(韓国中央博物館所蔵)が持ち帰った。ドイツ隊が持ち帰った部分はわずかだが第二次大戦で焼失した。これらを集めて復元し三次元コンピュターグラフィクで再現したものが、2005年2月NHK「新シルクロード第2集 トルファン灼熱の大画廊」として放送された。
 かつて大谷光瑞の没後、木箱2箱の遺品(仏典写本など)が龍谷大学に寄託され、その研究のために西域文化研究会が発足した。研究の集大成として「西域文化研究」全6巻が刊行された。本書の刊行は新たな「西域文化研究」の可能性を示唆するものである。

2016年9月15日木曜日

「スターリンと新疆」を読む

     「スターリンと新疆」 寺山恭輔 社会評論社 2015年

 19世紀中葉から20世紀初頭にかけて大英帝国と帝政ロシアが広大な中央アジアを舞台に領土獲得競争に明け暮れていた。この状況を英国の作家キプリングは「グレートゲーム」と名付けた。グレートゲームの実態はスパイ合戦である。その後グレートゲームの舞台はチベットと新疆に移ったが、表面的には日露戦争(1904~5年)におけるロシアの敗北で終結に向かう。日本は従来グレートゲームの埒外にあったが、この頃から次第に関与の傾斜を強めてゆく。第三次大谷探検隊の野村栄三郎が英国から疑惑され、カラコルム越えを拒否されたのはその顕著な例である。
 然し辛亥革命(1911年)による中華民国の成立(1912年)やロシア革命によるソ連邦の誕生(1917年)などにより、新疆は次第に外国人にとって入りにくい土地になっていった。中華民国の成立は知識人に強烈なナショナリズムを呼び起こした。スタイン、ペリオなど外国人探検隊の新疆での遺跡発掘、遺物持ち出しはそれに拍車をかけた。また新疆省に独裁的な権力を築いた盛世才主席はスターリンへの依存をより一層強め、さながら新疆はソ連の衛星国のようであった。それは本書に詳述されている。そのスターリンが最も警戒したのが、満州方面よりする日本の軍事スパイの浸透であった。
(戦間期に新疆に入った日本人)
 第一次大戦終了後から第二次大戦前まで新疆に入った日本人について、著者はソ連文書より摘出している。本書の最も興味深い部分である。以下概略を紹介しよう。
◎1920年秋、日本人将校ナガミニ(長嶺亀介大尉 1889~1975 クルジャ駐在員)、サトウ(クルジャ駐在の佐藤甫嘱託 1884~1929)がクルジャからチュグチャクを訪れ、オレンブルグ軍(白軍)支援の可能性を探った。
◎1920年末、ツガ少佐(継屯 楊増新主席の顧問)がウルムチからチュグチャクを訪問し、部隊への物資支援と30万ルーブルの供与を約束した。
長嶺、継は中華民国陸軍と「日支陸軍共同防敵軍事協定」(1918年5月)を結んだ日本軍部が送り込んだ諜報機関員である。
◎1924年から25年にかけて副島次郎が北京からウルムチを訪れている。副島はその後ソ連領に入り、イスタンブールを経由して天津に帰着している。「アジアを跨ぐ」の著書がある。ウルムチ滞在中に中共新疆省の初代主席になるブルハンに二度あっているのが注目される。
◎馬仲英軍参謀オオニシ・タダシ(中国名は于葦亭)。1931年何らかの理由で天津駐屯軍を離れ、北京在住のイスラム信者川村経堂の推薦状をもって馬仲英の元に走った。馬仲英軍(馬仲英は1934年ソ連に亡命したが、彼の残した軍隊は義弟の馬虎山に率いられていた)は37年10月までホータンを占拠していたが、盛世才軍によって敗れた。オオニシは戦闘中に捕らえられウルムチの獄につながれた。オオニシのその後も、日本軍部の特務機関員かどうかも定かではない。
(甘粛の回民軍閥)
 新疆省の手前河西回廊地帯には「五馬」と称される回民軍閥が蟠踞していた。すなわち馬鴻逵(寧夏)、馬鴻濱(甘粛)、馬歩芳(青海)、馬歩青(青海)、馬仲英である。彼らは必ずしも血縁関係はないが、馬姓のムスリムであり、先祖は河州(現在の臨夏回族自治州)である。1860年代の回族反乱で左宗棠軍(政府軍)に寝返った馬占鰲にその流れは発している。反乱鎮圧の功が認められ、官職を授けられることで馬姓ムスリム軍事勢力の西北支配は強固なものになっていった。その後彼らは国民党政府に忠誠を誓うと同時に日本軍部とも接触を保ち大量の武器を購入していた。
馬鴻逵(1930年1月38式歩兵銃2千丁)、馬歩芳(1937年12月38式歩兵銃1千丁、小銃弾百万発)、馬歩青(1937年12月38式歩兵銃1千丁)など。然しこれは武器入手のためのプラグマテイック対応で、積極的に「対日協力」を選択することはなかった。
 日本軍部はこのような回民軍閥の二面性に幻惑されたといえる。それは華北分離工作における宋哲元などの軍閥工作と同様の轍を踏むことになる。かくして回民軍閥の「対日協力」を前提にした防共回廊工作は挫折し、「大空のシルクロード」の夢は画餅に帰した。
 本書はスターリンと新疆の専制権力者盛世才の関係を公開された旧ソ連機密文書の分析により詳述している。とくに情報機関の機密文書によれば、スターリンの日本軍部特務機関員の新疆への浸透に対する警戒には驚くべきものがある。

2016年8月27日土曜日

「南北朝正閏論」とは何か~昭和史の謎を追う⑬

     「後南朝再発掘」 山地悠一郎 叢文社 2003年

 後南朝の歴史は長禄の変(1457年の赤松与党による南朝一宮・二宮殺害、58年の神璽奪回)によって絶えるが、近現代史に深い影を落とした。すなわち「南北朝正閏論」と「熊沢天皇事件」である。
(「南北朝正閏論」とは何か)
 昭和9年(1934)1月発行の雑誌「現代」に掲載された「足利尊氏」が議会でやり玉にあがった。著者は斉藤内閣の商工大臣中島久万吉。2月7日貴族院で菊池武夫議員が追及。十数年前の文章の再掲載であり、執筆時の学界では常識であった史上の人物の再評価が、「乱臣賊子を礼賛するがごとき文章を発する」として攻撃された。中島は不用意な再掲載を陳謝したが、収まらず大臣を辞職した。この学問と思想の自由弾圧は、翌年美濃部達吉「天皇機関説」排撃へと続き、更に「国体明徴運動」に至った。
 然しこれは明治44年(1911)の「南北朝正閏」問題の再現、その帰結であった。明治44年1月
18日の大逆事件公判における幸徳秋水の言説に対して、読売新聞が翌19日の社説で批判したことから、「南北朝正閏論」が一挙に政治問題化した。代議士藤沢元造は議会で、文部省の国定教科書「尋常小学校日本歴史」が「容易に正閏を論ずべからず」南北朝を並立させているのは、国体にもとると非難した。「南北朝正閏問題」は実証史学の対象ではなくて、国体原理であった。この黒幕は山縣有朋である。桂内閣の小松原英太郎文相は当初教科書の修正には慎重であったが、最終的は屈した。明治天皇の勅裁によって、南朝を正統と定め教科書は書き改められた。「南北朝」は「吉野朝」と書き改められ、執筆者の喜田貞吉博士(編集官)は休職処分となった。
 「南北朝正閏論」は名分論であって歴史教育の問題であった。当時の権力者にあっても「学者の説は自在に任せ置く考えなり」(桂首相)、「学者の議論としては何れにても差し支えなき事」(原敬)であった。そして学問研究においても、東大史料編纂所が編纂した「大日本史料」(第6編)では南北朝並立の体裁をとっていても問題にはならなかった。また東大文学部での田中義成の「南北朝」講義でも、南朝正統論は名分論であって歴史の学説ではないと云うことができた。いわば実証史学の学者たちは「名」(歴史教育)を捨てて「実」(歴史学)をとったのである。然し「歴史教育」が国民統合のための思想統制の手段である以上、「歴史学」もそれとは無縁ではありえない。
(熊沢天皇事件)
 「南北朝正閏論」は山縣の明治国家の指導原理たる南朝正統論として結着された。そして北朝系の天皇(明治天皇)に南朝イデオロギーを体現させるという「無理」は、その後の天皇制に深刻なひずみを与えた。しかもこの南朝イデオロギーは意外と底が浅く、水戸光圀が鼓吹した楠木正成賛仰の変形に過ぎなかった。この「無理」な結着に政府や宮内省が心配したのは、「南朝顕彰」に名を借りた野心家の登場である。果せるかな出た。それが「熊沢天皇」である。「熊沢天皇事件」とは戦後の混乱期に愛知県の雑貨商熊沢寛道が、自分こそは南朝正統の皇裔(後亀山天皇の皇子小倉実仁親王15世の子孫)であるとし、皇位継承権を主張した事件である。寛道の養父熊沢大然(ひろしか)はすでに明治41年明治天皇に対し、自家の由来を述べ、自祖信雅王の陵墓を私するのは恐れ多いとし、国よる管理を上奏していた。大然は明治31年頃吉野川上村の儒者林柳斉(1838~1925)について南朝史を学んでいた。林柳斉は、大阪の藤沢南岳の門下で、南朝研究に打ち込み「南朝遺史」の著作がある。南岳の息子が、あの「南北朝正閏論」の口火を切った代議士藤沢元造である。大然は南岳の処にもしばしば出入りしていた。柳斉の著書には尊雅王までは出てくるが、「信雅王」はない。おそらく大然は、南岳の処で「尊雅王の子信雅王」というフィクションを得たのではないかと本書の著者は推測している。
  明治の「南北朝正閏論争」において、実証派の歴史家たちは「実」(歴史学)の弧塁を守ったと錯覚した。それは決定的な「躓きの石」でもあった。昭和の「中島商工大臣罷免事件」でそれは明らかになった。国体明徴運動の嵐の中で「歴史学」は窒息させられた。そしてこのような光景は近年の
「南京事件論争」でも見ることができる。

2016年8月5日金曜日

1970年のクロニクル~関学闘争後史③

    「関西学院新聞」 1970年

 1969年は年末総選挙における社会党の歴史的大敗で幕を閉じ、安保改定期の1970年を迎えた。然し新左翼諸党派は昨年11月の日米共同声明(70年安保堅持、72年沖縄返還)によって展望喪失に陥っていた。その中で赤軍派は大菩薩事件での大量逮捕にかかわらず、年明けの政治集会で関西(1500人)、東京(800人)、札幌(500人)と「赤軍人気」の健在ぶりを示していた。また革マル派もその独自の「沖縄闘争論」で存在感を深めていた。すなわち「全軍労大量解雇=基地合理化反対闘争ならびに沖縄返還準備委設置粉砕闘争」を70年安保闘争の突破口であるとした。
1/28社自治会デッチ上げ粉砕闘争
 関学キャンパスでは、原理件研(統一協会)などの右翼学生が社会学部自治会のデッチ上げを画策していた。「『明るく豊かな自治組織建設』をその旗印に、社会学部で最近、原理研、若い世代の会、日学同などのファシズム学生が中心となって、社・自治会の掌握にのりだしてきている。14日、彼らは『学生集会』なるものをデッチ上げ、その場において選管委選出などの仮決議として決定、その後、28日からの投票期間に突入した。」(関西学院新聞567号1970年1月25日)「社再建有志会」、「学生大会推進委員会」(代表 春藤仁孝 社2年)なる名前で主催された「学生集会」はノンセクト共闘会議によって摘発・粉砕されたが(逃亡を許した)、彼らは①旧執行部の信任選挙
②新執行部の信任選挙③選管委の選出などの3点が仮決議として決定したとした。「これに対し、一年生を中心とするノンセクト共闘会議などが、学部規約第7条、「異議申し立ての規定数」などを理由に、集会の無効を主張していたが、(中略)”9”名の右翼学生が立候補し、26日からのデッチ上げ選挙運動に入ったが、投票日の28日、午後からの『選挙粉砕集会』に結集した全共闘など約200名の学生が、彼らにその犯罪性、反革命性を追及したところ、その場でその日の選挙を取りやめざるを得なくなるという、無内容な彼らの対応が全学院生の前に露呈した。」(同567号)全共闘など200名の学友とは、ノンセクト共闘会議の黒ヘル部隊である。旧執行部・社闘争委は闘争を放棄した。「現在革マルやら、べ平連左派などを自称する諸党派の台頭を許すまでになっている」(元執行部のK委員長)と嘆くのみである。党派として先鋒隊と革マル派(社闘争会議)は参加した。ただし革マル派はノンヘルで実力闘争には参加しなかった。右翼学生は一部教職員と私服に守られて逃走した。そして姑息にも郵送投票で新執行部が信任されたとした。その内容は社会学部学生主任の資料によれば、「投票総数591、有効578、無効13、信任492、不信任86」(社会学部30年史)であるが、これは信頼する根拠に乏しい。なぜならこの学生主任こそ、このデッチ上げ劇のプロモーターであるからだ。
2/4全大阪反戦の分裂
 「沖縄ゼネスト1周年にあたる2月4日、大阪では『全軍労支援全関西集会』が三ケ所に分裂した形で開かれた。これまで『統一』集会をもっていたこの全大阪反戦の分裂は、昨年の秋におこった社青同と中核派の衝突、『11・12佐藤訪米阻止集会』、『11・26日米共同声明粉砕集会』における中核派と革マル派の内ゲバによって決定的となった。(中略)大手前公園で、全関西地区反戦連絡会、大阪地区反戦連絡会、全関西全共闘に属するブント、中核、ML,関西べ平連など反帝派2000名が集結(中略)、また社青同、労組青年部、職場反戦などを中心とする組合内左派グループ約600名は、中の島剣崎公園で、(中略)革マル派の学生、労働者約100名は、扇町公園でそれぞれ全軍労支援集会とデモを展開した。」(同568号2月28日)かろうじて統一行動を保っていた全大阪反戦は3分解した。すなわち8派共闘の反戦・学生2000人、社青同(主体と変革派)と民学同650人、革マル派150人。さらにいえば赤軍派は2/7政治集会に1500人を集めている。
新左翼の戦線は関西では4分断に固定化されたのである。
2/9関学闘争1周年全関西総決起集会
 4か月ぶりに中央芝生に各党派のヘルメット部隊が集結した。「『関学闘争1周年総決起集会』が、9日、午前10時すぎより学院中央芝生において行われた。この集会には各学部闘争委および、中核、反帝、フロント、ブント、MLM,さらに関学公判の『被告』団など、革マルを除く諸党派約200名が結集した。(中略)この後、12時より学内デモに移り、神戸地裁に向かった。」(同568号)神戸新聞によれば、この集会には、神戸大、神外大、桃山大などからも各党派が動員をかけたという。そしてこれが関学キャンパスに諸党派が集結する最後の集会となった。6項目闘争を戦った関学全共闘としての登場もこれが最後となった。薬学部設置反対闘争時の1年生はすでに4年生になっており、卒業を目前にしていた。
6/23反安保闘争
 3月31日赤軍派9名が日航機をハイジャックして北朝鮮に向かった。この「フェニックス作戦」は同派の「国際根拠地建設・70年前段階蜂起貫徹」を具現化したものである。よど号グループはその後「北朝鮮の傭兵」となって迷走するが、この事件が赤軍派分散の始まりであった。
 関学キャンパスでも唯一残っていたセクト連合ブントが戦旗派(反帝戦線)と情況派に分裂の兆しを見せ始めた。そして関学闘争と全く無縁であった中核派が神戸大など外人部隊のテコ入れで、関学反戦会議を名のって公然と常駐スタイルで登場する。然し授業中の革マル系学生2名を襲撃したのが唯一の「成果」とあって、戦う学生に嫌われ、学内の大衆運動には一切参加させてもらえない。また革マル派(全学闘)は、べ平連左派との統一行動を追及して、4・28や6・15闘争で若干の動員を「成功」させたが、学内でダイナミックな闘争を取り組むことが出来なかった。唯一大衆運動をけん引したのはノンセクト共闘会議であった。6/23に向けて理学部が19日学生総会で20~23日の反安保ストを決議した。法学部も22~23日のスト、経済学部は23日学生集会で当日の授業ボイコットと自治会再建を決議した。「この日、学院中央芝生において昼すぎから総決起集会が行われ(中略)経済主義、社会革命主義でしかない西宮地区共闘(西宮反戦)の諸君から決意表明がなされた。これに対し、会場前部に陣どっていた関学反帝戦線かこの”情況派”の『党の大衆運動への手段化、政治革命ぬきの社会経済主義者』(中略)が、真の{革命主体}{政治主体}とはなりえないなどといった諸点を明らかにしたが、これになんら答えることなく”なぐる”行為にのみ終始した。集会後、関学全共闘のF闘連、理・経闘委を中心にした約400の部隊は大阪うつぼ公園へ、そして社学同ー反帝戦線の部隊は神大へ、法闘委、”情況派”諸君は西宮市役所へとそれぞれ向かった。」(同573号6月15日)この日中央芝生には600名を超える部隊が結集した。その大半はノンセクト共闘会議、自主講座、旧経闘委などによって再編された経共闘の学友である。圧倒的な動員に驚愕した学部当局は、前委員長の「大会招集権放棄」を理由に自治会再建決議の無効を宣告した。
 「うつぼ公園において開催された『全関西統一集会』には、総評、全共闘、反戦、高校生、べ平連など約十万人という最大の部隊が結集して、圧倒的にかちとられた。(中略)デモに移ろうとしたとき、大経大を中心とした”情況派”の武装部隊が大工大・桃大などの反帝戦線部隊を襲撃したが、反帝戦線が”情況派”を放逐した。なお関学のデモ隊がナンバ高島屋裏にさしかかったとき、突如として機動隊が襲いかかったが、後続部隊とともに隊列を組みなおし、終始戦闘的にデモを貫徹した。」(同573号)この夜の関学の部隊は3梯団1000名に達していた。機動隊の報復的弾圧を、戦闘的デモ、投石などで阻止線を寸断して粉砕した。
10/20法学生大会、21法封鎖
 8月4日東教大生海老原俊夫君(革マル系)が中核派に殺害されたことにより革共同両派の緊張が極度に高まった。関学キャンパスでも革マル派(全学闘)は姿を消し、大阪市大に移動した。それとあいまって反帝学評は、昨秋闘争の逮捕者などが復帰し、久しぶりに青ヘル姿で登場した。そして9/25法学部学生大会で新執行部を確立した。中核派(反戦会議)は、「民青ばり」に自治会乗っ取りを策したが失敗した。学生大衆は6項目闘争を最も原則的に戦った反帝学評を支持し、中核派(反戦会議)は関学から召喚した。党派闘争が激化した革共同両派はその後関学キャンパスに登場することはなかった。
 「前日、学生集会を開いた法学会は、10月21日早朝、法学部本館・別館の封鎖を決行した。(中略)20日の学生集会は(定員不足のため「大会」から「集会」に変更)、9月25日の学生大会の仮決議をふまえて、10・21政治ストを打ち出した。法学会長によって、①10・21-ストを克ちとり、安保粉砕、政府打倒を戦い抜こう②獄中の同志を直ちに釈放せよ!6項目闘争の分割公判強行粉砕”③当局の弾圧を粉砕し、法学部『祭』・11月『祭』を克ちとろう”④帝国主義化路線の近代化路線の強制、自治会活動への介入弾圧を推進する大学当局と対決し、革命的再編、階級的政治化を克ちとろう”といった四つの議案文を含む議案書提起がなされた後、文総文化祭実行委員会代表、生協祭実行員会代表、6項目闘争全共闘議長からの連帯のアピールが行われた。」(同575号11月10日)神戸新聞によれば、21日の封鎖は「ヘルメット姿の反帝学評の学生ら7人」とある。「国際反戦デーの21日、大阪でも午後6時より東区の大手前公園において、約1万5千名の結集の下に集会がもたれた。(中略)各大学の全共闘、及び中核派、反帝学評、プロ学同などの各党派、地区反戦、市民、高校生などの部隊が結集(中略)この日の集会には、学院からも約250名の学友が結集した。」(同575号)
10/30商自治会デッチ上げ粉砕闘争
 反帝学評は法学部では自治会執行部の確立・維持に成功したが、商学は違った展開を見せた。
商では活動家の復帰が進まず、自治会の崩壊状態が続いていた。そのスキをついて社青同協会派が外人部隊を投入し、民青(民主化行動委)と結託して、自治会乗っ取りを画策した。「商学部選挙管理委員会は、10月30日の『学生大会』における仮決議を有効として、自治会執行委員長選挙に関する公示をした。30日の『学生大会』では主催者と全共闘学生が衝突して、数人の負傷者が出た模様である。この混乱の中で、『学生大会』は進められ、自治会再建と選管委選出の仮決議がデッチあげられた。」(同578号11月30日)会場外では協会派の武装部隊(白ヘル、木刀)、校舎内では民青が防衛していた。全共闘派(反帝学評、経共闘、理闘委)は協会派・民青防衛隊の粉砕行動を開始したが、混乱にまぎれて、仮決議がデッチあげられた。粉砕された協会派の外人ぶたい30名は教員住宅裏から仁川方面に遁走した。公示によるとこの仮決議は全会員1/20以上の連署による異議申し立てがなかったため、大会決議と同様の効力を有するとして、協会派と民青は自治会選挙を強行した。11月11~13日の立候補受け付けに2名の2年生(協会派と民青)が立候補した。然し投票は全共闘系の粉砕行動で断念、姑息にも原理権研にならって29日締め切りの郵送投票に切り替えた。12月4日、開票の結果は社青同協会派系のT君が298票を獲得し当選、民青系のK君は200票で次点となった。白票は16票、無効票は12票であった。社青同協会派は白ヘルに反独占、改憲阻止学生会議の文字を書き中核派と見まちがうスタイルで登場した。関学の協会派には、青年インターや反帝学評から流入した者もいる。T君は1年生時ノンセクト共闘会議に参加していた。いずれにしても、6項目闘争と一切無縁であった「戦わざる」協会派や民青が関学キャンパスに公然と登場してきたのである。
11月祭とオータム・フェスティバル
2年ぶりにキャンパスに「記念祭」の季節が訪れた。文総など11月祭実行委(文総、生協、法、経、商、理各実行委)に対抗して、右翼部分による「オータム・フェスティバル」(体育会、応援団総部、宗教総部、総部放送局、社「自治会」)が画策され、二つに分裂した。当局は11月祭の実行主体はいずれも適格性に欠けるとし、規模などから「A・F]を従来の「記念祭」に準ずるものとした。そして文総の援助金要請を拒否し、すでに「任期切れ」の活動実態のない社「自治会」に援助金(70~80万円)を交付した。法闘委(反帝学評)などは11月祭実施を全共闘再編と位置付けたが、実行委内で同意を得られなかった。右翼などによる妨害(タテカン破壊)に対処すべく防衛部隊を設置したが、「A・F」実力粉砕には大衆的合意は得られなかった。F闘連、理闘委の一部のみが粉砕闘争に参加した。「開会式での型どおりの式進行の後、吹奏楽部とバトンガールズが出演したが、F闘連・理闘委を中心とする学生約30名が、式に介入した。約30分分間の右翼・秩序派への釘集会の後、学内デモに移ったが、体育会系学生数十人に回りを囲まれるなど、一時険悪な空気になった。」(同576号)分散化した全共闘系活動家の再結集組織=全学活動者会議の結成は翌年に持ち越される。





2016年7月7日木曜日

1969年のクロニクル㊦~関学闘争後史②

   「関西学院新聞」 1969年②

 赤軍派を排除して結成された全国全共闘連合=8派共闘は当初から、「武装闘争主義」に傾斜するブント・中核派と反帝学評などとの間に相いれない亀裂があった。それはやがて「11月決戦」後分裂の火種となる。ともあれその闘争方針には赤軍派の「陰画」としての性質が深く刻印されていた。連合ブント(中核派も)は「武装蜂起主義」に傾きつつも、爆弾・銃器による「前段階蜂起」には踏み切れず、「武装蜂起宣伝主義」に陥らざるを得なかった。また反帝学評も少人数のゲリラ戦術を採用するしかなかった。これは革マル派が多用した戦術だ。いずれにしても市民主義左派としての本質を隠蔽するアリバイ工作以外の何物でもなかった。そしてそれが全国全共闘から赤軍派と革マル派を排除した最深の根拠でもあった。
 その赤軍派は9月大阪戦争・東京戦争を戦ったがいずれも不発に終わった。11月5日大菩薩峠での壊滅で「首相官邸占拠、臨時革命政府樹立」構想は瓦解した。一方連合ブントは秋期闘争を霞が関制圧の中央権力闘争とマッセンストで戦う方針を掲げた。そして関西では9月に結成された全関西スト実が中電マッセンストを提起した。
10/3全関西スト実集会
「10月3日には『安保スト貫徹全関西労学総決起集会』が午後6時より尼崎市労働福祉会館で反戦労働者・学生約1000名が結集し開かれた。(中略)集会では、戒厳令下の中電において同日朝より無期限ストに突入した中電労働者、関西スト実、各全共闘、各戦線などから報告された。この集会では当面10・21闘争に対する方針として、霞が関占拠闘争に呼応し、全関西の拠点を中電マッセンストにおき、北大阪交通集中機構攻撃としての方針が確認された。」(関西学院新聞562号69年10月9日)
10/8兵庫集会
「『安保決戦勝利、羽田闘争2周年、10・21拠点政治スト貫徹、佐藤訪米阻止、佐藤帝国主義内閣打倒』全兵庫統一集会が三宮、神戸市役所前で各大学全共闘、地区・職場反戦、べ平連など約700名によって開かれた。」(同563-4号 10月31日)
10/10全関西総決起集会
「10/10全関西総決起集会は1時より、丸山公園の野外音楽堂において、労働者・学生・市民約6000名の結集する中で開催され、10・21首都・北大阪制圧が確認された。(中略)集会中、演壇上で反帝学評と中核派との間に衝突などもあったが、4時頃インター斉唱の後、京都市役所までのデモ行進に移った。」(同563-4号)これが秋期闘争に向けての最後のカンパニアとなった。一方関学キャンパスでは学内各セクトが10、11月闘争の準備に邁進していた。関学全共闘はこの時点で総逮捕者120名、拘留者91名、起訴71名という甚大な打撃を受けていた。(救対ニュース)
10/9社本館封鎖
「9日午前8時ごろ、西宮市上ヶ原、関学大でヘルメットをかぶった全共闘派学生約50人が、社会学部本館入口を机、イスでバリケード封鎖した。(中略)全共闘派学生は安保破棄などを叫んで中央芝生付近をデモしたあと、午前11ごろ同本館内に数人を残して学外に出、ほとんどは神戸地裁に向かった。」(神戸新聞69年10月9日夕刊)この日神戸地裁では5G死守闘争の分離公判(17名)が行われ、I元全共闘議長らが出廷予定であった。全共闘側は56人全員の統一公判を主張、被告団は傍聴学生とともに60人で地裁に押し掛けたが、地裁は閉廷した。
10/14西宮で反戦派決起
「『安保粉砕』のスローガンのもとで10月14日大学生協神戸同盟体労組の反戦労働者4名は同盟体西宮共同購入事務所を封鎖し、無期限ストに突入した。この山ネコストは10・21闘争を中心とする10月、11月永続武装闘争として展開され、街頭闘争と拠点陣地闘争の結合を意識したもの」(関西学院新聞563-4号)西宮共同購入事務局とは大学生協神戸同盟体(関学、神戸大、神戸外大、神戸商大)と西宮北口などの団地の主婦が結成した消費者団体。産地からの一括購入で安い牛乳を2000世帯(4000本)に配達した。事務局は関学キャンパスとは別の西宮市津門西町にある。事業に従事している5人のうち4人が決起した。学生アルバイトも同調した。
10/15全学封鎖から10・21闘争へ
15日7学部校舎が全共闘派学生によって封鎖された。「同日午前7時半ごろ、武装した学生約100人が大学正門などから乱入、警戒にあたっていた教職員400人を押しのけ、経済学部校舎を皮切りに約1時間で7学部校舎の本館全部封鎖した。(中略)一般学生は午前8時ごろから登校、約千人が封鎖校舎を遠巻きにして見守り、一部封鎖学生との間にこぜりあいもあった。(中略)午前11時15分機動隊250人が正門から入ったが、いち早く封鎖学生が逃走したため各校舎はもぬけのカラ。」(神戸新聞10月15日夕刊)この日の封鎖は10・21国際反戦デーに向け組織の立て直しを図ったもので、神戸大など40人の外人部隊が加わっていると神戸新聞は報じている。ついで16日全共闘(50人)によって法・経・文の校舎が封鎖されたが、機動隊により排除。逃げ遅れた2名が逮捕された。封鎖を敢行した反帝学評、ML派、フロントなどの部隊は即日上京した。そして反帝学評は18日首相官邸(7名突入、5名逮捕)、自民党本部(7名突入、全員逮捕)に突入した。またML派は18日東京拘置所(17名全員逮捕)、19日自衛隊市ヶ谷駐屯地(5名)に突入した。フロント派は21日銀座・築地方面で火炎瓶闘争を敢行した。関学の反帝学評、ML派、フロント派のメンバーはこれに加わり、多くは帰らなかった。残存の全共闘部隊は「北大阪制圧闘争」に参加した。「10・21大阪中電マッセンスト・北大阪制圧闘争は、扇町公園に約2万人の労働者、学生が結集するなかで開始され、集会、デモ後の国鉄大阪駅周辺などでは、夜11時ごろまで機動隊・官憲との対峙が続いた。」(関西学院新聞563-4号)
関学全共闘は組織的にも人的にもほぼ壊滅していたが、権力は攻撃を強めた。「10月15,16日と連続して展開された関学における封鎖闘争に対して、(中略)11月6日早朝、権力はついに3名の学生を自宅でそれぞれ逮捕した。逮捕された学生はY(理3)、M(理1)、F(商2)の3君で、いずれも凶器準備集合、暴力行為、威力業務妨害などの容疑で事後逮捕されたもの。」(同563-4号)7日生協喫茶部付近でK社会学部闘争委員長が学内に潜入した私服警官によって逮捕された。サンケイ新聞によれば、17日佐藤訪米阻止闘争を未然に圧殺するため、学院生20数名の逮捕状をとっているという。これは学院当局ともに関学全共闘を最終的に壊滅に追い込むためである。
11/13佐藤訪米阻止全関西総決起集会
11月13日総評は公労協、公務員共闘など63単産で佐藤訪米に抗議する統一ストを構えた。量的には60年安保を超えるものだが、大半は早朝ストで物理力は弱かった。そして関西では。「13日、『佐藤訪米阻止全関西総決起集会』が扇町公園で開かれ、例の機動隊による徹底した検問体制下をくぐり抜けて、全関西から反戦、全共闘、高校生、べ平連それに総評労働者など約3万人が結集した。(中略)集会後の午後6時頃、総評系労働者を先頭に中央郵便局前までのデモに移ったが、この際、機動隊は10・21北大阪闘争と同様、分断策で弾圧にのりだした。これに対し、関西スト実、社学同など約200の反帝戦線部隊は同公園付近の機動隊に火炎瓶、投石などで急襲、さらにプロ学同50の部隊も”鉄材”などで突破し、一時的に機動隊の指揮系列をマヒさせ、弾圧体制を分断した。しかし隊列をたて直した機動隊は、警棒、大盾をふりかざして公園内に乱入、無差別の警棒乱打という暴挙にでた。この時、岡大生糟谷君が後で死去する原因となった警棒乱打を頭に受けたのを始め、63名が重傷を負わされたまま不当逮捕されている。」(関西学院新聞565号)この集会には関学全共闘の旗の下約80名が結集した。この部隊は69年新入生のノンセクト共闘会議が「小寺近代化路線粉砕」など戦う中で組織した「新たな戦う部隊」であった。そして11/16~7闘争は「首相官邸占拠」ではなく訪米阻止闘争として戦われた。それは各党派軍団による国電蒲田駅を中心にしたゲリラ戦に終始し、1493名の逮捕で幕を閉じた。10・21や11・16はなどの街頭武装闘争は党派軍団ごとのゲリラ戦であり、全共闘部隊登場の場はなかった。これはなによりも全国全共闘結成が、8派による全共闘活動家の取り込み、手駒化が目的であったことを逆証明している。21日佐藤ーニクソンによる日米共同声明が発表され、安保堅持ー72年沖縄返還を表明した。
11/26「日米共同声明粉砕・弾薬輸送阻止」集会
「11月26日の午後6時から大阪剣崎において『日米共同声明粉砕ー弾薬輸送阻止集会』が、約500名の参加で開かれた。集会は糟谷君への追悼で始まり・・・・・(中略)途中革マルと中核派の間で衝突が起こったため集会を中止し、大阪駅前までのデモに移った。」(同565号)関西でも革マル派と中核派の暴力的衝突が始まった。
関学キャンパスの状況
一方関学キャンパスでは、10,11月闘争で反帝学評がほぼ姿を消したこととあいまって、革マル派(関学全学闘)が1年ぶりに登場した。革マル派は外人部隊(全学連関西共闘会議)50名を投入して、中央芝生で集会後、学生会館に突入し情宣活動を展開した。そして全共闘不在の学内では正常化路線の一貫として「学長選挙」が着々と進行していた。学長選考規定および学長辞任請求規定信任(11/8)、第一次学長選挙(11/29)、そして第二次選挙(12/24)で小寺代行が学長に就任した。これに対しこれに対しノンセクト共闘会議は、学長選の実施自体が小寺近代化路線の内実であることを暴露する情宣活動を経済学部、社会学部で強力に展開した。戦う部隊は他にはいなかった。なお旧全共闘系は訪米阻止闘争の前日(11/12)に中央協議会を開き、任期切れの全執の任期を来年1月末まで延長するとし、2月はじめに選挙を行うとした。然し中央協議会は12/1,9と開催されたが、全執・学部自治会とも理学部以外は代理を立てるしかなく、経済学部はそれもなかった(経自は委員長が招集権を放棄し崩壊)。責任者はすべて10,11月闘争で逮捕され拘留中であった。中央協議会と学院側のこの時点での了解事項は「全執の1月末までの任期延長は認める。学生自治の問題で学院の関与する問題ではない」、「学生会予算については、全執を通さない限り交付を受けない」(上ヶ原ジャーナル18号)というものであった。然しこれは実質的に自治会の崩壊状態をいいことに学院当局が手を貸す(放置する)ものであった。この時点で自治会が存在していたのは法学部、理学部、神学部であり、他は任期切れ(社会学部、文学部、商学部)か崩壊(経済学部)していた。
 12月27日(土)衆議院選挙が(投票率68.5%)が行われ、戦わざる社会党は歴史的な大敗北を喫した(51議席減の90議席に)。学生運動の支持者が棄権にまわり、都市部で強かった社会党は大打撃を受けた。これがその後転落・消滅する引き金となった。そしてこの選挙は日曜日以外に実施される最後の選挙となった。またテレビの政権放送もこの選挙から始まった。(この稿続く)

2016年6月15日水曜日

1969年のクロニクル㊤~関学闘争後史①

    「関西学院新聞」 1969年

 関学全共闘は「6/9王子集会」で致命的な政治的敗北を喫した。然し24名の逮捕者はでたが、組織自体が雲散霧消したわけではない。学院当局は6/10に「占拠学生」に最後の退去命令を出し、6/13に機動隊1900名を導入し全校舎の封鎖を解除した。全共闘は今回は「玉砕」を避け、拠点を神戸大学(六甲台)に移した。これ以降当局と全共闘の「キャンパス争奪戦」がしばらく続くことになる。この「争奪戦」を中心に1969年後半の関西の政治情況を「関西学院新聞」1969年から抜粋してみよう。
 6/20関学奪還総決起集会
6月20日全共闘は早くも関学キャンパスに登場した。「この日約50名の全共闘は朝10時頃から学内デモをし、『再々封鎖』と午後1時からの中央芝生での集会を呼びかけた。これに対して当局は、全共闘の退去命令とともに、午前11時から翌朝8時まで、全学生の学内立ち入りを禁止し、さらに機動隊300人を学内に入れるなど露骨な弾圧にのりだしてきた。」((関西学院新聞558号69年6月30日)
 6/30法本館・1G封鎖
この年授業が再開したのは6月30日であった。当局の支配体制強化と、関学闘争の停滞状況を切り拓くため全共闘は封鎖闘争に決起した。「全共闘は30日午前8時、法本館、10時第一別館の封鎖を行った。法本館には法闘委など約30名が、また第一別館には約20名の学友が結集し、封鎖を行い、その後第一別館前では、武田文学部長をとりかこんで、昨年12月の大衆団交破棄自己批判、現在の戒厳令下の支配体制粉砕などを追及した。」(同558号)
然し学院当局は11時40分機動隊400人を導入し、学生を1名逮捕、4名を検挙した。これに対しては新入生よりも抗議の越えが上がった。社会学部1年7組が「我々は6・30の大学側の一方的な機動隊導入に断固抗議する」という学長代行宛の抗議声明(クラス決議)を出した。また神学部自治会も教授会に対して機動隊導入など9項目からなる公開質問上を提出した。これと並行して全共闘はチャペルアワー、授業に介入して新入生に対する情宣活動を行った。7/3(法学部チャペル)、7/4(理学部チャペル、社会学部授業、商学部授業)、7/7(経済学部チャペル)、7/9(文学部授業)、7/14(経済学部チャペル)、7/16(法学部チャペル)、7/17(神学部授業)などである。チャペルアワーに介入したのはキリスト者反戦連合、授業介入は各学部闘争委でいずれもノンヘルである。新入生はこの情宣に積極的に応ずることはなかったが、「全共闘帰れ」などの反発もなかった。やがてこの新入生の中からニュー・ウェーブの活動家が誕生してくる。
 7/11社会学部封鎖と城崎代行代理追及
7/11全共闘は社会学部を一時封鎖し山中学部長を追及した。そして中央芝生での全学総決起集会では城崎代行代理を追及するという場面もあった。「7・11全学総決起集会には中央芝生に約100名の学友が結集して2時半開始され、各闘争委代表から、基調報告などが述べられたが、その後城崎学長代行代理を追及する野外追及集会が同芝生で催されるというハプニングがあり、城崎の徹底的な”無能”さがバクロされた。」(同559号7月30日)然し6時頃追及が「松下講師罷免」問題に発展した時右翼学生十数人が集会に乱入し、城崎代理は経済学部校舎に逃げ込んだ。この右翼の暴挙に対して学生の怒りはすさまじかった。「その後の学内・外のデモに約300名の隊列となって結実し、『右翼実力粉砕』『闘争勝利』等のシュプレヒコールが再び上ヶ原にこだました。」(同559号)
 7/29,31法闘委断続的封鎖
「法闘委を中心とする全共闘80名は、7月31日、法学部本館の拠点封鎖を敢行した。この封鎖は27日に続く2度目のもので、大学治安立法が衆議院を強行突破されたことに対して行われた。(中略)この後、午後4時頃、全共闘の学友は神戸において行われる『大学立法粉砕、全共闘統一行動』に参加したため、当局は教職員などを使って法本館封鎖を解除した。」(同559号)27日は29日の誤り。神戸の集会には関学100名など神戸大、神外大合わせて250名が参加した。封鎖の目的が正常化策動反対から大学立法粉砕などの政治闘争に移っている。29日(40名)、31日(80名)と反帝学評の主導が強まっている。
 8/2文闘委文学部本館封鎖
「2日午前8時すぎ、約30人の文闘委を中心とする全共闘によって文本館が封鎖された。この封鎖は、大学立法粉砕と小寺正常化収集策動粉砕、3日の卒業式粉砕を掲げて行われたものである。」(同559号)
 8/3卒業式粉砕闘争
延期されていた43年度卒業式がようやく8月3日(日曜日)に中央芝生で開催され、卒業生2千数百人が参加した。「全共闘は『小寺代行改革案粉砕・大学立法粉砕』と、当局のなしくずし的な正常化策動=卒業式に対し、約80人が学校周辺をデモした。(中略)前日から学内に結集していた全共闘は全員ヘルメットをかぶり学館前の市道でデモをくりひろげた。一方当局は4時すぎ機動隊約300人を学内に導入。官憲に守られた卒業式となった。4時半すぎ、正門前で機動隊とこぜりあいがあり、2人が道路交通法違反で逮捕された。このあと再結集しようとした全共闘の後方から機動隊が襲いかかり、また2人が逮捕された。これに乗じて右翼学生が全共闘学生になぐりかかり、数人が負傷した。」(同559号)
 8/4五学部封鎖
「3日夜、参議院での大学立法強行採決に抗議し、小寺学長代行改革案に反対して4日8時すぎから、全共闘約100人は法・商・軽・文・神を封鎖した。(中略)全共闘は各学部前で抗議集会を開き、『政府の強権的な大学直接介入を粉砕し、11月佐藤訪米阻止・70年安保粉砕を戦い抜こう』と訴えた後、学内デモをくりひろげた。前日の大学立法強行採決のためか、各学部100人ずつくらいが討論に加わっていた。」(同559号)この日「大学立法粉砕・全国全共闘統一行動」が大阪(大阪城公園)でも開催(600人)され、関学全共闘は150人で参加した。
 なおなお社闘委はこの日の闘争には参加しなかった。また経済学部(森ゼミ)、社会学部(森川ゼミ)が「大学立法反対」のゼミ決議を呼びかけ10を越えるゼミが続いた。
 8/11反博最終日御堂筋デモ
「大阪城公園で開かれていた『反戦のための万国博』最終日に当たる11日、約5千人の学生と地区反戦の労働者及び市民、べ平連約5千人の計1万人が参加し大規模なデモがくりひろげられた。(中略)関学からは全共闘など150名が結集し、午後4時中央芝生で集会をもち、5時すぎ学院を出発、御堂筋デモに向かった。」(同560号9月1日)
  8/28神戸入管デモ
「『任錫均氏を支持する会』は『出入国管理法案粉砕』『任氏の政治亡命を勝ち取ろう』と、8月28日午後6時より神戸市役所前において集会を開いた。この集会には、地区反戦青年委員会、べ平連、京大、神大、関学大などの関西の各大学全共闘約800名が結集した。(中略)なおこのデモでの逮捕者は8名。」(同560号)そして8月29日商闘委のK君(商4年)が自宅で逮捕された。同君は7月全学連(反帝学評系)副委員長に選出されている。5月に事後逮捕されたH商闘委委員長とともに、関学全共闘、反帝学評に対する組織壊滅を狙ったものである。
 9/1法学部本館封鎖
授業再開が6月30日であっため、この年夏休みはないといわれていた。然しそれでも夏休み(8/13~31)はあった。その休み明けの9月1日。
「夏休み明けの1日法学部本館が封鎖された。午前8時ごろ、反帝学評及び法学部闘争委員会の学生約20名によって法学部本館が封鎖された。」(同560号)反帝学評は9・5全国全共闘連合結成のためとした。その反帝学評は関学内でも「革労協結成政治集会」を開いた。反帝学評は社青同解放派と他派(社青同国際主義派など)との緩い大衆組織であったが、革労協結成によって解放派内の左派のみの組織に純化した。
9月5日全国全共闘連合結成大会が日比谷野外音楽堂で開催された。全国の178大学から全共闘と党派3万4千人が結集した。議長山本義隆(東大全共闘)、副議長秋田明大(日大全共闘)だが、実態は書記局員の構成(中核派、社学同、反帝学評、学生インター、ML派、フロント、プロ学同、共学同と東大全闘連)に明らかなように8派共闘に他ならなかった。「来るものは拒まず、去る者は追わない」のが全共闘の流儀であった。然し結成されたばかりの赤軍派は連合ブントによって入場を拒まれた。革マル派中心の東神大、国学院、ICU全共闘には招請状すらなかった。関学全共闘150人も参加したが発言の機会もなかった。(この稿続く)

2016年5月17日火曜日

アフガニスタンのラピス・ラズリ

   「シルクロードの歴史から」 榎一雄 研文出版 1979年

 ラピス・ラズリは紺青の地に金色の粉が混じって夜空の星のように見える貴石である。ヨーロッパでは12月の誕生石である。ラテン語のラピス(石)にペルシャ語のラズリ(青)を合わせて造語したという説もある。その成分はラズライト、ソーダライト、アウイン、ノーゼライトの4種類の鉱物に黄鉄鉱(バイライト)がわずかに混ざる。1828年仏人化学者ギメ(ギメ美術館創設者の父)が人造のウルトラマリンを発見し、天然石の価値は下落した。然しかつては産地が限定されていることもあり、人類最初の「最強の聖石(パワーストーン)」として珍重された。それを使った装身具・装飾品がエジプト・シリア・メソポタミアの遺跡から出土している。古代中国では七宝の瑠璃がラピス・ラズリとされた。ラピス・ラズリを加熱すると濃い青色になり、さらに強く熱すると透明なガラスになる。ガラスのことを瑠璃もしくは玻璃というのはこのためである。群青(ウルトラマリン)という色名は本来ラピス・ラズリを粉末にした顔料の名称である。
 (ラピス・ラズリの産地)ラピス・ラズリの産地はシベリア(バイカル湖南岸)、ブハリア(東西トルキスタン)、ビルチスタン(バルチスタン)、チリなどあるが、いずれも品質は劣悪である。古来最大・最良の産地はアフガニスタンのバダクシャンである。バダクシャンのコクチャ河流域には4か所のラピス・ラズリ鉱山がある。コクチャ河上流域のケラノ・ムンジャン渓谷のチルマック、シァガ・ダラ・イ・ロバット・バスカラン、ストロムビ、サル・イ・サングの4鉱山である。いずれも海抜1800米から5100米の険しい山中である。現在採掘されているのはサル・イ・サング(Sar-i-Sang)のみで、他は閉鉱している。そこはコクチャ河上流、ジュルム(Jurum)の南35哩にある。ここで採掘されたラピス・ラズリはコクチャ河に沿った通路で南北に運ばれる。北行すればジュルムでバルフに通ずるホラサン街道に出る。南行すればサル・イ・サングから一日行程のイシュカズル(Iskazr)村でワハーン・カブールに通ずる道に出る。王政時代の1964年オクスフォード大学の調査団(団長ヘルマン女史)がサル・イ・サングのすでに閉鎖された旧鉱を調査した記録がある。当時は鉱山・鉱業省が、内戦時代は北部同盟が採掘・販売を独占していた。
 (ラピス・ラズリの路)バダクシャンのラピス・ラズリは質量とも最大で、古代からパミール以西の諸地域に供給されていた。例えばエジプトのツタンカーメン王の黄金マスクや、メソポタミアのウル出土の黄金短剣柄や女官髪飾りにもラピス・ラズリは使われている。ちなみにウル王墓は前26世紀に比定されている。また前2千年紀のミュケナイの竪穴墓からもラピス・ラズリは発見されている。ラピス・ラズリは原石として直接これらの地域に輸出されたのではなかった。イラン東部シースタン地方のシャハルイソフタ遺跡(1967年より発掘)で多数のラピス・ラズリの削り屑とそれを加工するための道具が発見された。ラピス・ラズリはこの加工場で加工されメソポタミアへ再輸出されていたのである。前4千年紀はテペヒサールを経由するイラン北道でスサからウルへ。そして前3千年紀以降はテペヤヒサを通るイラン南道でスサからウルへ。時代が下れば海上ルートも登場してくる。やや後代になるが「エリュトラ海案内」によれば、インダス河口の貿易港バルバリクムからインド洋を渡って西方に輸出された。前述のヘルマン女史によれば、ラピス・ラズリの輸入をどこまで独占できるかによって、メソポタミア平原の諸国・諸民族の勢力関係が決まったという。
 川又正智(「漢代以前のシルクロード」雄山閣2006年)はアカイメネス(ペルシャ)朝やアレクサンドロス遠征の版図はラピス・ラズリの交易路と重なっていると指摘している。前人未踏の地を征服したのではなく、遠古以来の交易範囲であり、なんらかの情報があったので征服できたとも。それはパミール以東における玉(「禺氏の玉」、ホータン産の軟玉)も同様である。所謂「張騫の西征」は玉の交易路に沿ったものなのである。後代の「シルクロード」なるものは、ラピス・ラズリの交易路と玉の交易路をつないだものに他ならないともいう。

2016年4月28日木曜日

文庫版「シルクロードと唐帝国」を読む

   文庫版「シルクロードと唐帝国」 森安孝夫 講談社学術文庫 2016年

 本書は森安孝夫「シルクロードと唐帝国」の文庫新版である。著者によれば単純な誤植・誤脱の修正以外は初版本を再現したという。ただし例外は二点ある。第一は「偽ウイグル人」という表現の削除である。そして第二は2006年執筆時第一稿で、予定枚数超過のため削除した部分の復元である。
 (偽ウイグル人)初版本では次のように記述されている。
「本来ウイグル人でない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までウイグルと呼ぶようになったのであり、古代ウイグル史を専門とする私にいわせれば、こうした新ウイグルは偽ウイグルである。しかも古ウイグルはイスラム教徒(ムスリム)ではない。」(初版P32)
この部分は文庫版では以下のように変更・加筆されている。
「そうした新ウイグルには旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までも含まれ、後者がイスラム教徒(ムスリム)であったため誤解が増幅されたのであるが、本来の古代ウイグル人には一人もイスラム教徒はいなかった。」(文庫版P33 変更)
「彼らの宗教はモンゴル草原で遊牧していた時代はシャーマニズムとマニ教であり、天山地方に民族移動して百年を経て農耕・都市生活に馴染むと共に仏教への改宗が顕著となり、モンゴル帝国時代にはほとんどのウイグル人が仏教徒で一部にはネトリウス派キリスト教徒が混じっていた程度である。」(文庫版P33~4)
著者によれば「偽ウイグル」という表現は「読者が古代ウイグルと新ウイグルを区別しやすいようにという意図」から用いた比喩であるという。然しこの表現が日本に留学中の新ウイグル人の間で物議をかもしたことに配慮して書き直したとする。
 (シルクロード史観論争)その他加筆したのはすべて2006年執筆時の第一稿で削除した部分で、「カットしすぎて情報不足になっていた」ものを論旨補強のため復活したものである。
 序章部分が大半をしめるが、その中でやや重要なのが第1章の「シルクロード史観」に関する部分である。
「私はかって梅村坦とともに『内陸アジア史を東西交渉・南北対立・南北共存等の面から見る見方がすでに古くなってきた』のであるから、『今後の内陸アジア史研究は、東西交渉とか南北対立とかの外からの視点を打ち破って、それぞれの地域や民族を「東西南北との交渉・対立」の中心に据え、その地域ないし民族自身の歴史を内側から構成してゆく方法に進んでいく』ことを『史学雑誌』(1973年)の『回顧と展望』で主張したことがある。この時の主張と、それより後に間野が新書版で打ち出した見方との間にはかなりの『ずれ』がある。間野の言う『南』は中央アジア内部のオアシス農民であるが、松田はじめ我々の言う『南』ははるかに広く、ユーラシア全体の『南側に並んでいる大農耕文明圏のことである。」(文庫版P79~80)』が初版P74の「・・・・紛れもなく松田自身なのである。」に続いて加筆挿入されている。これによって著者の「シルクロード史観」に対する見解がやや明瞭になったといえる。初版本の「シルクロード史観」に対して、間野英二より「やや異例とも言える批判」(「史林」2008年)があったが、あえて正面切った反論は控えていると著者は言う。なぜなら「史観論争」というのは文科系的歴史学の範囲であり、成否や勝敗は決めようがないからと。そして「論争で第三者に論点を明らかにするため敢えて極端な言い回しをすることがあるのは当然で、その点を批判されても仕方がない」(文庫版あとがき)からだとする。
 (理科系的歴史学と文科系的歴史学)それに対して理科系的歴史学とは「原典史料に基づいて緻密に論理展開され、他人の検証に十分耐えうる」ものである。本書はいずれも史料的裏付けがあるだけでなく、全10章のうち6章分には典拠となった原論文がある。例えば終章「唐帝国のたそがれ」は「東西ウイグルと中央ユーラシア」(名古屋大学出版2015年)所収の「増補:ウイグルと吐蕃の北庭争奪戦及びその後の西域情勢について」を下敷きにしているというように。この中で著者は中央アジア史上の「関ヶ原」は「タラス河畔の戦い」(751年)ではなく、「ウイグルと吐蕃(チベット)の北庭争奪戦」(789~792年)だとする。従来勝者はチベットとされていた(安倍健夫)が、最終的にはウイグルが勝利したとする。ラサの「唐蕃会盟碑」は唐・チベット講和条約を実証する史跡として有名である。然しペリオ文書(3829番)やペテルブルク所蔵敦煌文書断片(Dx1492)から唐・チベット間のみならず、西蔵・ウイグル間にも講和があり三国間条約であったことが立証されている。実はこの両文書は、同一文書の上下に切れていたものであった。復元した文書から三国会盟の事実だけでなく、当時の三国間の国境線の位置までもが明らかになったのである。この部分の記述はスリリングで、かつての「大宛国貴山城論争」をほうふつとさせる。著者は本書を、理科系的歴史学の成果を踏まえた文科系的歴史学の著作だとする。然しこのような「視角」が間野英二には「古さ」を感じさせるのかもしれない。

2016年4月12日火曜日

「南京事件論争」はなぜ続くのか~昭和史の謎を追う⑫

    「南京事件論争史」 笠原十九司 平凡社新書 2007年

 「南京大虐殺事件」(以下「南京事件」)が歴史的事実であることはすでに確定している。日本の歴史学界では定説になっている。まともな歴史辞典(例えば「世界歴史辞典」山川出版社など)であればその項目と記述がある。歴史教育学界でも同様である。現在日本の中学校で使用されている歴史教科書、高等学校の日本史教科書・世界史教科書のほとんど(一部の「つくる会」教科書使用を除く)に「南京事件」は記述されている。また司法界においてもそれは同様である。すなわち「家永教科書裁判」第三次訴訟で最高裁(「大野判決」1997年8月29日)は「南京事件」記述に関する検定の違法性を認定した。「南京事件」被害体験者の名誉棄損裁判では、「李秀英裁判」(2005年1月)、「夏淑琴裁判」(2009年2月)でそれぞれ原告(被害者)側勝訴が確定している。またそれとは逆に弁護士高池勝彦・稲田朋美が原告訴訟代理となった所謂「百人斬り」裁判では原告側敗訴が最高裁で確定した(2006年12月)。これによって司法の場でも歴史的事実の有無をめぐる「南京事件」論争に結着がつけられた。司法による結着を受けて、日本政府もしぶしぶとではあるが公的に「南京事件」の事実を認めている。外務省ホームページ(歴史問題Q&A)では「日本政府としては、日本軍の南京入場(1937年)後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。」としている。なお2014年以降「多くの」は削除されている。そして2006年の安倍ー胡錦濤会談(11月)、麻生ー李肇星会談(12月)で日中による政治結着がなされている。それは「日中両政府による歴史共同研究(2006年12月~2008年12月)」として2010年10月に発表されている。
 然しそれにもかかわらず「南京事件」が「日本国民の記憶・歴史認識として共有化され定着していない事実がある」と著者は指摘する。そして「『南京大虐殺はなかった。』『南京大虐殺は中国やアメリカのプロパガンダ』などという南京大虐殺否定説が公然と国民の間に流布されて影響力をもっている」とも。現在書店にならんでいるのは「事実派」よりも「否定派」の本が多く、テレビでも否定説が多く流されている。さらに歴史家においても「事実派」に対して「政治イデオロギー的」だ、「泥仕合になる」として論争を回避する傾向が強いという。それは何故なのか。
 1990年代後半以降政府と民間が一体になって「南京事件」の事実を否定しようとする勢力が台頭してきたからである。まず1997年「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(中川昭一代表、安倍晋三事務局長)が結成された。その後2004年「若手」をとって「教科書議連」に改称した。また「自由主義史観研究会」(藤岡信勝会長1995年)、「新しい歴史教科書をつくる会」(西尾幹二会長1997年)などが結成された。とくに「つくる会」は「教科書議連」と連携して「否定論」の大キャンペーンを展開し、裁判では敗訴したが、現行の歴史教科書の「南京事件」記述の後退に一部「成功」している。日本国民を「統合」してゆくために「日本人としての誇り」を持たせる必要があり、そのためには「南京事件」の記憶を「忘却」させねばならないという考えに凝り固まっているのである。そのような勢力によって成立したのが第一次安倍内閣(日本会議」などの所謂「靖国派」)であり、現行の第二次安倍内閣(「靖国派」に加えて「統一協会派」)である。
 そのような勢力の要請によって「否定派」は「すでに破綻した否定論の繰り返しと新な否定論の『創作』という方法で、否定本を多量に発行しつづけ」、「論争」はまだ続いているという仮象を維持しようとしていると著者は論断する。そのために「否定派」はさまざまなトリック使用する。「ニセ写真」「ニセ史料」、「事実のねじまげ」などである。例えば「事実派」の本に「ニセ写真」が一枚でもあれば「南京事件」はなかったと強弁する。また「大虐殺」があると根拠にしている史料に「一点でも不明瞭さ、不合理さ」があれば、それは五等史料だとする。そしてそれが確認されないかぎり「南京事件」はなかったとする。この手口は要注意である。著者も「南京事件」(岩波新書1997年)3章の扉写真が誤写真だとして攻撃されている。その後写真差し替え。「事実のねじまげ」としてはティンバリーの国民党工作員問題がある。彼が国民党顧問を務めたのは1939~42年で、「戦争とは何か」はそれ以前に出版されている。極めつけに噴飯なのは稲田朋美(「百人斬り裁判から南京へ」文春新書2007年)だ。一本の日本刀で百人も斬れるはずがないから「百人斬り」はなく、したがって「南京事件」も存在しないという超論理を繰り返す。原告側弁護士として敗訴すれば、「是正するのは、裁判所の役割ではなく、政治家の務め」として政治家(現自民党政調会長)に転身するという身勝手ぶりである。
 学術的結着はすでについているのに、「泥仕合」のように「南京事件論争」は際限なく続く。これは通常の歴史学論争とは異なる。「日中戦争」を批判的にとらえるのか、肯定的に見るのかの、日本の戦争認識をめぐる象徴的論争である。「その新な論点を批判しないと史実派も認めたと彼らは宣伝する。そして南京事件の事実そのものが否定されたように主張するので、私たちもやむなく新たな否定論を展開する」(本書P250)と著者は云う。この「モグラ叩き」を止めればどうなるのか。そのような例として近い過去に「南北朝正閏問題」(1911年)があった。「名分論」としては南朝正統論に軍配が上がり、国定教科書児童用は「南北朝」の記述を「吉野朝」に変更した。だが歴史の学説は関係ないとした。然し「名分論」が歴史教育の統制を目的とする以上、学問研究とは無関係でありえなかった。やがて昭和にはいり「足利尊氏問題」(1934年)を契機に、「天皇機関説排撃」、「国体明徴運動」がおこり、平泉澄などが唱える皇国史観によって歴史研究は窒息させられるに至った。なお「南北朝正閏問題」については稿を改め詳述する。


2016年3月22日火曜日

続・ワハーン回廊を行く

    「インシャラ~63日間アフガニスタンへの旅」鶴田真由 メタローグ 2002年

 前回「ワハーン回廊を行く」で紹介した平位剛の2001年ワハーン回廊踏査とほぼ同じ時期に、この地域に入域した日本人がいた。本書の著者を含むテレビ朝日のクルーたちである。平位の著書「禁断のアフガニスタン・パミール紀行」の出版元ナカニシヤ出版の中西社長が興味深い事実を指摘している。「この本が原稿段階のとき予期せぬ出来事がおこった。2001年に中国側から許可もなしに、鶴田真由という女優を連れた日本のテレビクルーがワハーンに入ったのである。帰国後、それが日本で特番として放映された。」(「山の本をつくる」中西健夫 ナカニシヤ出版2013年 P162)こちらは「潜入」というのがふさわしい。平位によれば、テレビクルーたちはマスード派によってすぐにワハーンから追い出されたという。放映された映像(「地球最後の秘境ワハーン」2001年12月25日21時2分~23時19分)も中国側ばかりの描写で、ワハーン側の映像は峠付近だけでほとんど画像がなかった。実際2時間17分の番組で2/3は中国の映像である。
 それは平位・鶴田の日程を比較すれば一目瞭然である。平位は6月9日関空を立ちパキスタン経由でワハーンに入り、8月1日にはチトラル(パキスタン)に帰っている。旅程のほとんどはワハーン(アフガン)である。それに対して鶴田の日程は6月18日東京を出発し、中国(6/19~28)、パキスタン(6/29~7/8)を経由してイルシャド峠を越えてアフガンに入域。ワハーン東南部をかすめるように潜行して(7/19~8/7)、バロギール峠越えでパキスタン領に入国(8/8~19)してから帰国している。ワハーン滞在は日程の1/3にもみたない。然し両者の時期の接近には驚くべきものがある。平位がワハーン中央部(6/17~39)、小パミール・大パミール(7/1~30)踏査を終えてバロギール峠を越えたのが7月31日。鶴田がその東のイルシャド峠を越えてワハーンに入ったのが7月19日である。平位隊の踏査が終わって空白になったワハーン回廊に鶴田らのテレビクルーが入ったのである。その行程はパンジョオブ、ボザイグンバス、サルハドの狭い範囲にすぎない。
 番組ではアフガン側(マスード派)の許可を得てのナレーションがあり、本書でも無許可という記述はない。然し本書を子細にみれば無許可という痕跡はある。7月24日ワハーン回廊に入域したばかりのパンジョオブの記述。
「昨日パンジョオブに到着すると、キルギス人がやって来た。(中略)迷彩服を着て、銃を持ち、子分を三人ほど連れている。話によると、このあたりはキルギス人のエリアで彼らが取り仕切っているため、パトロールに来ているらしいが、目がいちゃついていて恐ろしい。」(本書P118)
8月6日サルハドで軟禁の記述。
「ここはアフガニスタン、許可なんてあってないようなものなのかもしれない。どう考えても私たちの立場は弱い。(中略)ここにいるコマンドさんたちの上層部の人たちと連絡がとれるまでは動けないということになった。」(本書P156~7)
そしてようやくバロギール峠越えでパキスタンに帰還。まさしく鶴田らのテレビクルーは無許可でマスドー派の眼の届きにくいワハーン東南部に「潜入」し取材を試みていたのである。その結果「摘発」されたのである。
 なお余談だがワハーン回廊は「ゴルゴ13」の舞台としても登場する。ゴルゴのルーツ篇である第141話「蒼狼漂う果て」はアフガニスタン・タラキ政権時代(1970年代末)の話。中国領よりワフジール峠を越えてワハーン回廊に非合法に越境してきた遊牧民の一団がいた。新疆省での核実験で被爆しアフガン領に逃れてきた。その長老がゴルゴの父親とおぼしき五島元少尉という設定である。ワハーン回廊はかくも入域が困難な現代の秘境であることの証左でもある。
 現在アフガン領のワハーン回廊に入域するのは危険で不可能に近い。然しパンジ川対岸のタジキスタン領のイシュコシムまでは行ける。タジキスタンの首都ドゥシャンベからゴルノ・バダフシャン州の州都ホログまでは飛行機(週3便)で45分。乗合タクシーでは12~16時間。ホログからイシュコシムまでは乗合タクシーで2時間。町にはハニスという名のホテルがある。対岸のアフガン領には同名のイシュコシムの町がある。国境の緩衝地帯にはアフガンバザール(土曜日開催)がある。ゴルノ・バダフシャン州に入るにはビザのほか「入域許可証」が必要である..。
(参照「地球の歩き方中央アジア2015~16」)


2016年2月24日水曜日

ワハーン回廊を行く~パミール越えの道②

    「禁断のアフガニスタン・パミール紀行」 平位剛 ナカニシヤ出版 2003年

 ワハーン回廊はアフガニスターンの北東端から東に盲腸のように伸びる高原地帯である。東西はイシュシカムから中国国境のワフジール峠まで300キロ。南北はヒンドゥ・クッシュ山脈(パキスタン)とセルセーラ・ワハーン(ワハーン山脈)に挟まれて、狭い部分で10キロ、最も広い所で60キロほどしかない。高度は4千米に近く、回廊の中央をオクサス河(アム・ダリア)が流れている。現在はアフガニスタンのバダフシャン州に属し、三方をタジキスタン、中国、パキスタンに接している。グレート・ゲーム華やかりし19世紀末それらの国はロシア、清、イギリスの諸帝国であった。1895年英露のパミール国境協定により、両勢力衝突の緩衝地帯としてワハーンはアフガン領となり、ワハーン回廊が成立した。
 この地は往時からシルクロードが通る東西交通の要路であった。すでにギリシャのプトレマイオスは「地理誌」の中でマケドニア商人のマエスが手代を遣わして、この道を通りセレス(中国)から絹を買い入れたと述べている。また玄奘やマルコ・ポーロがこの道を通っている。高峻な山岳などの地理的障害や、厳しい気候的悪条件も交通路としての利用を妨げた(そのため特定の路線が選択されることになった)。そしてそれに加えて現在では複雑な政治状況が、この地域への立ち入りを困難なものにしている。この現代の秘境を1999年、2000年、2001年と三回にわたって踏査した日本人がいる。本書の著者平位剛である。この禁断の地に入域できたのは、すべてアフガニスタン北部同盟の指導者マスード総司令官の庇護のおかげであった。
 (ワフジール路)著者の2001年のワハーン踏査ルートを紹介しよう。サルハドから東はワフジール路という人跡稀なルートである。まずパキスタン領チトラルを出発してドーラ峠(4412米)を馬で越えてアフガンに入域する。カジキ・スターンというバザールで四駆トラックを契約し、ゼバック経由でイシュシカムに向かう。ゼバックーイシュシカム間は三車線幅の道路だが未舗装。イシュシカムには40軒ほどのバザールがあり、フランスNGOの診療所がる。対岸(タジキスタン)には同名の町がある。そちらはアフガン側より岸畔は低い。ソ連時代に建てられた発電所がある。イシュシカムは「大唐西域記」の「商弥」でマスード派の司令部もある。イシュシカムからワハーンの行政管轄地ハンドゥドゥを経由してかつてのワハーン藩王の主邑カラ・イ・パンジャに至る。車で9時間の行程。車中右手にはヒンドゥ・クシュの7千米級の高峰、はるか前方にはタジキスタン領のマルクス、エンゲルス連峰の白い塊が望める。カラ・イ・パンジャにもマスード派の指令所がある。ここでマスード派の護衛兵1名を帯同して(1日150ルピー×30日)、小型四駆でサルハドに向かう。80キロの行程である。道路はオクサス河右岸に沿い、まもなく2車線幅から1車線幅になる。サルハドはオクサス河右岸の高度3200米の地にある。東西2キロ、南北1キロの間に畠や牧草地がひろがっている。ワヒ(ワハーン人)が定住して農・牧を営むことができるワハーンの東限地である。マスード派の地区役人がいる。電話があり、カラ・イ・パンジャと通じる。車が利用できるのはここまで。
キャラバンでボザイ・グンバーズに向かう。旧ソ連軍の基地跡がある。小パミール河を渡り、オクサス源流の右岸をワフジール峠に向かう。このあたりは高度4千米に近く、ビワーズ(分葱もどき)やダナ(小さなネギ)といった野生ネギの群落がある。中国史書がパミールを「葱嶺」と呼ぶ所以である。キシイやラゼコムというワヒ(イスマイリ派)やキルギス(スンニ派)の冬営地がある。
「(ワフジール)峠への路は、数百メートルに開けた河床の本流が左(東)方へ曲がる谷間から始まる。(中略)50メートルほどの高さの、崖地といった方がよさそうな80度くらいの草付き急斜面の上の台地から、本流が30メートルほどの幅のなかで三条ほどの細い滝になって落ち、そのまま二百メートルばかり西下して広い河床の支流に合流している。その少し北手前で傾斜45度ぐらいに緩くなった斜面を登る(中略)出発後三時間たらずで幅1キロあまりの峠に立った。高度は4854メートルであった。」(本書P156~7)
峠は東西200米、南北1.5キロぐらいの広地帯で、最高部に国境標塔が建てられている。1964年中国・アフガニスタン国境が画定した。
 以上の後半がワハーン路のうちワクジール路と呼ばれる行程である。中国領に入りタシュクルガン経由でヤルカンドに至る。またサルハドから北行してシャウル峠を越えてビクトリア湖沿いにタジキスタン領に入る道もある(大パミール路)。そのほかにボザイ・グンバーズ付近からチャクマク・ティン湖岸を通ってタジキスタン領のグンジ・バイに至る道もある。そこからウルタベル峠を越えてキジル・スー沿いに中国領に入る(小パミール路)。著者はこの道こそ玄奘のたどったルートでないかと想像している。「大唐西域記」の「大龍池」はビクトリア湖(ゾル・クル湖)ではなくチャクマク・ティン湖ではないかとしている。長澤和俊によれば「大龍池」の記述は伝聞であって、玄奘は実際には立ち寄らず、ワクジール路を通ったとしている。またスタインは小パミール路・大パミル路いずれを通るとしても、中国領に入るにはバイク峠(4596米)を越えてタシュクルガンに至ったとしている。

2016年1月25日月曜日

謎の民族月氏を探る

   「大月氏~中央アジアに謎の民族を尋ねて」 小谷仲男 東方書店 1999年

 月氏は中央アジアの謎の遊牧民族である。その「月氏」の名称は「菅子」に見える「禺氏の玉」の「禺氏」と同音であり、その存在は春秋戦国時代にまでさかのぼれる。「禺氏の玉」の意はホータン付近で産出する軟玉を月氏が仲介貿易して中国に転売したことによる。さらにプトレマイオス「地理誌」に見える「カシ」((Casii)の国名はqasch(玉)に由来し、その「カシ」は「禺氏」(月氏)だと江上波夫は指摘している。月氏には二つの顔があると本書の著者は云う。一つは秦・漢の時代に中国辺境に出現し、モンゴル高原の匈奴と覇を争った中央アジアの遊牧民としての顔である。もう一つは、月氏がアム・ダリア流域に移動した後、その勢力の中から勃興したクシャン王朝大月氏である。一般的にはこの二つの月氏は同一民族と考えられているが、研究者の中には月氏とクシャン王朝を別個のものとする考え方もある。本書はこの月氏の謎を解き明かす。
 (月氏の西遷)月氏の名前が中国記録に明確に登場するのはBC176年である。この年匈奴の冒頓単于は月氏を大破した。敗れた月氏はしばらく敦煌付近に留まっていたが、BC161年匈奴の老上単于によって、その王を殺害され西方への移動を開始した。史上西遷したものを大月氏、その付近(ツァイダム盆地)に留まったものを小月氏という。「史記」(大宛伝)によれば、中国辺境を追われた月氏はアム・ダリア流域に落ち着き、その北岸に王庭を置いた。その経路については大宛(フェルガーナ)を通過したとしか述べられていない。著者は月氏が遊牧民ならイリ河流域からナリン河流域に入り、大宛に至ると推定している。そしてパミールを越えアム・ダリア上流に移動したとしている。近年ウズベキスタンの女性考古学者ブガチェンコワはスルハンダリア流域に位置する都市遺跡ダルヴェルジン・テペを発掘調査し、大月氏の王庭に比定している。そして同時にクシャン部族の居城であるともしている。
  (大月氏の五翕候)大月氏はその後(BC145年頃)アム・ダリアを渡り大夏(バクトリア)を攻撃・征服した。ストラボンの「地理誌」が伝える東方のスキタイ(サカ)によるギリシャ人バクトリア王国の滅亡とはこのことを意味している。Tochriと称される東方のスキタイ人こそが大月氏であると著者は推定している。1961年以降フランス隊などによって発掘されているアイ・ハヌム遺跡はこの時襲撃されたギリシャ人都市である。アイ・ハヌムはウズベク語で「月姫」の意で、その王妃の名前に由来する。アム・ダリア南岸、コクチャ河の分流点に二河に挟まれた三角形の台地上にある。大夏を征服した大月氏は、「漢書」(西域伝)によれば、その地に五翕候を置いた。翕候とは部族長もしくは小君長の意である。すなわち休密、双靡、貴霜(クシャン)、高附、肸頓である。翕候については大夏に分封された大月氏の支配層か、それとも大月氏から支配権を承認された現地の小君長かの両説がある。そしてこの貴霜翕候からクシャン王朝が出現した。すなわち貴霜翕候の丘就卻(クジュラ・カドフィセス)が他の四翕候を滅ぼし、自ら王を名のりクシャン王朝を建設した。
 (ラバタク碑文の発見)1993年アフガニスタン北部のバグラーン州で発見されたラバタク碑文は大月氏=クシャン朝の謎を解明する重要な史料となった。この碑文はカニュシカ王が命じて建てられたもので、クジュドラ・カドフィセスからカニュシカ王まで、すべて父子継承の同一王朝であることが記されている。これによってクシャン第一王朝、第二王朝説が成り立たないことが明白になった。そしてこの碑文の3~4行目に、カニュシカ王がギリシャ語で書かれた詔勅をアーリア語に書き改めさせ、発布したことが記されている。アーリア語とは土着のバクトリア語である。バクトリア語は大夏定住民の言葉である。然し同種の言語を持つ遊牧民も存在し、それがクシャン人である。クシャン人の原郷がアム・ダリア流域とすれば、クシャン人は大月氏もしくはその一部と推定される。月氏もクシャン王朝もともにアム・ダリア流域を本拠とした同一遊牧民集団であった。E.C.バンカーによればアレクサンダー大王の東方遠征によってバクトリア周辺の遊牧民族が圧迫され、東に押し出されたのが月氏であった。彼らは強力な軍事力を持つ騎馬民族であった。そのうち中国辺境を征服したのが月氏であった。遊牧より商業活動に従事した。匈奴との抗争に敗れ、勢力の本拠をアム・ダリア流域に引き上げた。バクトリアのギリシャ人を追って西北インドとの関係を深めた。月氏・クシャン人こそシルクロード上に輝いた最初の騎馬民族であった。
 本書の意義の第一は月氏の原住地を確定したことである。月氏の西遷とは本拠地への撤退に過ぎなかったのである。第二はクシャン王朝の出自を明らかにし、大月氏とクシャン朝の同定をしたことである。「後漢書」が新興大国「貴霜王国」を大月氏の名で記録したのは単なる尚古主義ではなかったのである。そして第三は所謂クシャン第一、第二王朝説を否定して、同一王朝の連続性を実証したことである。然しまだ解明されていない謎もある。例えばトカラ語についてである。すなわちタリーム盆地でかって話されたトカラ語A(カラーシャル)、B(クチャ)、C(楼蘭)と月氏の関係である。

2016年1月1日金曜日

関学大「43学費闘争」の敗北~関学闘争前史②

   「関西学院新聞」1967,1968年

 1966年12月新三派連合(マル学同中核派、社学同統一派、社青同解放派)による「反帝」を一致点にした第三の全学連が再建された(17~19日再建大会35大学71自治会1800名が加)。
再建早々の明大闘争では躓いたが、体制を立て直し、砂川闘争の取り組みを通じて影響力を拡大した。然し関学の学生運動の主流は構造改革派(フロント)の強い影響下にあった。67年度の改選期を迎えた自治会選挙では民青系が経済、文の執行部を掌握した。また全執、法、社でも全学闘に対する批判票が一部民青に流れた。全執と社がフロント、法が社青同解放派、商が青年インター。文、経済執行部は民青だがフロント、革マルと拮抗という状態であった。
 一方学院当局は「薬学部新設」敗北の総括から中央集権的な「常務会」を設置した。「常務会の初会合は6月1日午後5時から宝塚ホテルで開かれ、(中略)今後の運営方法について話合われた。(中略)最終的な学院政策決定機関である常務会は、まだ多くの問題を含んでいるので部長会はさしあたり休会にしておき、武藤教務部長が職制の整備を固めていく」(関西学院新聞67年6月9日)そしてその常務会が11月22日に68・69年度学費改訂案(文系5万円、理系7万円を68年度は5割アップ。69年度はそれぞれ8万円、12万円に)を承認した。これに対し学生側は全学共闘会議(10月31日にそれまでの学費対策委員会を改組、全執と各学部2名の14名で構成)を組織して2次の公聴会(11月7日1700人、11月28日2000人)で大衆団交の開催を要求して当局を追及。当局側はこの要求を拒否した。
(対理事会団交要求)「12月5日理事会団交は1時から中央講堂で開かれる予定であったが、理事会は出席を拒否し決裂した。そのため全共闘は結集した2千人を前に抗議集会に切り替えた。(中略)各学部闘争委からクラス決議状況などが報告された。また立命館、全関西反帝学評から支援アピールがあった。その後千名の学友は構内デモを展開。各学部生に隊列に加わるように呼びかけた結果約千五百名にふくれあがっていった。」(同12月12日)学院当局は12月7日臨時理事会で学費値上げを決定した。この抜き打ち的暴挙に対して全共闘は闘争態勢構築を急いだ。
「7日、突然の値上げ決定に抗議して、全共闘は中央芝生で抗議集会を開いた後、千五百名にのぼる大デモンストレーションを行った。(中略)中田議長は早急にスト準備に入ることを各学部闘争委に要請した。(中略)なおデモ隊が高等部前で『高等部の生徒も戦おう』とのシュプレヒコールを続けると、高等部内の教室・廊下は騒然、学費値上げに鋭い関心を示した。」(同12月12日)この時点で学生の動員力は千名以上になっていた。全共闘は今後即時千名以上動員の体制をとり、スト準備の中から戦う中核部隊を形成しようとした。
(ストライキ突入)スト権確立投票は12月7日の法学部を皮切りに、社・文・商・経済の5学部で行われた。開票結果により社・文・商・法でスト権が確立した。学院新聞によれば内訳は文(総数1357賛成795反対542)、社(総数1153賛成615反対502)、法(総数1593賛成1151反対542)、商(総数1538賛成855反対639)、経済(総数1501賛成918反対566)である。全共闘では原則として「投票率1/2、支持率1/2でスト権を確立する」と確認していた。然し経済執行部(民青系)だけは「多数の支持者がいないかぎり、ストはできない」と「支持率2/3」に固執し、事実上闘争を放棄した。また文では民青系執行部の逃亡を乗り越えて文闘委がスト突入を主導した。「12月16日からストに入っている法に引き続き、社・文・商の3学部も学費値上げ全面白紙撤回をめざし19日無期限ストに突入した。これに先立ち第5別館を16日から全共闘が自主管理している。」(同68年1月10日)全共闘は封鎖した5Gで連続自主講講座を開催したが、冬休みに入ると登校する学生はめっきり減った。のみならず戦列から離脱してゆく状況が生み出された。当局側の切り崩しは一段と強まった。かつてはワッペン闘争や座り込みに加わっていた学生がスト破りに参加するケースも出てきた。1月17日商学部で学生大会が開かれスト解除が決議された。25日文学部、27日法学部でストが解除された。然し社会学部だけは踏ん張った。
 (社会学部の孤立)「22日、文学部では午後1時からスト中止か継続かをめぐって学生大会を開き、出席1264人が採決したが、反対、継続とも過半数に達せず、25日再度学生大会を開くことで納得した。この直後午後5時ごろ、学舎前のバリケードを実力で撤去しようとするスト反対派と体育会学生50数人がバリケードを守る共闘会議学生と激しく衝突、なぐり合いとなった。(中略)中田共闘会議議長ら数人が3日~1週間のケガをした。一方、社会学部学生大会は、投票1268人中スト反対が725人でスト中止、バリケード撤去を決めたが、投票後の話し合いでスト反対を撤回、スト継続に賛成する学生がかなり出たため共闘会議は議決無効を主張、混乱している最中の午後8時半ごろ、同学部教授会は自治会に対し解散命令を出した。」(神戸新聞68年1月23日)「27日、法、社会両学部の学生大会が開かれ、法学部はスト中止、社会学部はスト継続、後期試験ボイコットを決議した。(中略)法学部は951対868でスト中止、社会学部は651対579で継続、試験ボイコットを決めた。」(神戸新聞1月28日)
然しこれも改良的要求を勝ち取る圧力以外の意義はもちえず、全学的な後退状況の中で社会学部の孤立を克服できず、2月26日の学生大会でスト解除が決議された。すなわち進級・卒業に影響があるという教授会の脅しに動揺した部分による「ストライキは解除する。学費値上げはやむえない」という動議は記名投票により賛成751反対284無効4で可決された。体育会学生を中心とした右翼の暴力に全共闘は明確に対応できなかった。全共闘指導部に対するテロのみならず、学生大会要求署名活動を物理的に封殺するという方針すら提起できなかったのである。
 (3/28卒業式闘争)「43学費闘争」に対し大学当局は3月23日に26名(退学11名無期停学8名停学7名)の大量処分でもって答えた。これに対し全共闘は卒業式当日の28日80名の部隊で学長に処分撤回の大衆団交を要求すべく学院本部を占拠した。「「卒業式の始まる前、全学共闘会議は中央講堂の式場で一緒に闘ってきた卒業生に対し『学費闘争はまだ終わっていない。学院当局は大量処分をもってわれわれの闘争を弾圧してきた。卒業される学友も一緒に大量処分を弾劾し、抗議行動に参加するよう』呼びかけた。11時頃処分撤回を訴える学友150人はスクラムを組み、『不当処分撤回』、『学費値上げ粉砕』のシュプレヒコールでデモをし、それに加わる学生もあった。11時半、全学共闘会議は小宮院長と古武学長に対し、処分に関する会見を求めて、学友80名は右翼系学生の攻撃を予測し、ヘルメット、角材を用意して本部に突入しバリケードを築いて占拠した。」(関西学院新聞68年4月15日)学長解放を叫ぶ右翼系学生との乱闘を理由に当局は機動隊300人を導入し全共闘を排除した。
 (構造改革派学生運動の破産)かくして「43学費闘争」は敗北した。神戸新聞解説記事(68年2月27日)はその敗因を次のように分析している。「学費値上げの白紙撤回に焦点がしぼれなかった原因は指導層の”文教政策批判”と一般学生の5割アップという大幅値上げに対する自然発生
的な反対との大きなみぞが埋まらなかったことに尽きる」と。薬学部闘争に続き学生大衆の自然発生性を組織できなかった全共闘指導部の主体的根拠は何であったのか。第一は「大学革新論」に端的な構造改革派の学園支配体制認識にある。そして第二は「暴力」=武装に対する無自覚さである。すでに街頭政治闘争は党派全学連(三派、革マル、民青)によって担われていた。1月の佐世保闘争ではセクト別に色分けされたへルメット部隊(中核派は白、社学同は赤、解放派は青というように)が登場していた。構造改革派の「層としての学生運動」の基盤は限りなく掘り崩されていたのである。まさしく「43学費闘争」の敗北は構改派(フロント)学生運動の弔鐘であった。そして「層としての学生運動」の呪縛と「三派全学連」的運動経験の蓄積の薄さが関学学生運動に深く刻印されていたのである。