2013年12月29日日曜日

「満蒙の特殊権益」とはなにか ~昭和史の謎を追う①

「満州事変から日中戦争へ~シリーズ日本近現代史⑤」 加藤陽子 岩波新書 2007年 

 日露戦争で「十万の生霊、二十億の国帑」を費やし獲得し、以来営々と築いてきた「わが満蒙の特殊権益」とは何か。著者によれば特殊権益とは特殊権利と特殊利益の合体したものである。特殊権利とは条約によって認められた日本の専有権と定義できる。また特殊利益とは、特殊権利の行使の結果として、経済上・政治上・軍事上の施設・経営が行われた場合、その現象をそう表現する。すなわち「南満州及び南部満州に隣接する内蒙古の東部地方における日本の特殊なる権利及び利益」であると定義する。この用語が外交文書に初出するのは1911年の第2回日露協約の秘密条項である。
 その内容は日露戦争で獲得した権利、南満州鉄道の経営権、関東州租借地の租借権、特殊権益などである。外交史家の信夫淳平はその内容を以下のように3種類に大別する。
甲. 条約上の根拠ある特殊権利 ①関東州租借地の租借権 ②関東州内外の関税に関する諸権利 ③南満州鉄道の経営権
乙. 条約上の根拠乏しきも事実的に我国の特殊権益と認むべきもの ①安奉線付属地とその行政権と警察権 ②満鉄付属地内外での領事警察の警察権 
丙.すべて空権化せるもの ①満鉄併行線の不施設権 ②満州内地での土地商祖権 ③居住ならびに営業権
これら特殊権利に基づき「現実に示されている所の政治的及び経済的活動、それが所謂満蒙の特殊権益」であるとする。
 このような「特殊権益 」を果たして列強は承認していたのだろうか。
英国の場合: 外務省によれば英国の承認を得ていたとしている。然し英国は南満州にふれても、東部蒙古については一言も言及していない。また特殊な地位という場合も、日本の優先権や専有権を認めたものではなく、日本と南満州の地理的な近接性に鑑みて、特殊な利害関係に立っているとの認識を表明したものにすぎない。
米国の場合: 第2次ブライアント・ノート(1915年5月11日)において、米国は日華両国において締結せられ、また今後締結される協定は承認しないと言明している。それは「石井・ランシング協定」(1917年7月6日)でもくりかえされている。
著者によれば列強の承認については日本の政権内部でも見解の相違があったという。首相の原敬は新四国借款団の投資活動の範囲に満蒙を含めるかの問題で決着がついたとしている。(「原敬日記」1920年5月9日)然し伊東巳代治は強い疑義を呈していた。
 「特殊権益」 はかくもその根拠があやふやなものであった。然し何故日本はこのようなものに固執したのか。 山田豪一は阿片密売による益金がその実態だからとしている。阿片専売は実に関東州都督府の財政収入の過半を占めるに至った。阿片密売商人の石本鏆太郎は軍の一介の通訳から大連市長にまで成り上がった。(山田豪一 「満州国の阿片専売」 汲古書院 2002年)日露戦後、以来営々として築いてきた満州内地への阿片を売り込む権利、これを「わが満蒙の特殊権益」として意識し、この擁護こそ、大陸経営の第一線に立つわれらが使命との意識がここから生まれた。山田によれば日露戦争後、多くの日本人が大陸に渡った。彼らが唯一生き残る道は田中義一がいう日本法権の袖に隠れ、治外法権の特権を利用し、満州内地では領事館警察の庇護で、華北の京奉線沿線では支那駐屯軍の保護下で、中国人に禁じられた不正業、モルヒネ、武器など禁制品売買に従事するよりはかなかった。日本内地ではふつうの日本人が、満州にゆけば馬賊行為、欺瞞詐欺的商売をあえて行う下劣分子となった。原首相が東京駅頭で中岡良一に刺殺された後、関東州の阿片制度撤廃を言い出す政府首脳はいなくなった。そしてその後「わが満蒙の特殊権益」の危機が叫ばれるたびに、「満州事変」、「熱河侵攻作戦」、「華北分離工作」が生起した。



    

 

2013年12月8日日曜日

旅順博物館  大谷コレクション(大谷探検隊発掘将来品)について②

  「図録 旅順博物館所蔵品展」 京都文化博物館・京都新聞社 1992年

 大谷コレクションのうち質量とも一番豊富なのが旅順博物館の所蔵品である。新疆省で発掘されたミイラや漢語・チベット語仏典などおよそ1600件26000点が収蔵されている。博物館は終戦時ソ連に接収され、1951年中国に返還された。然し政治的混乱が続き長らく大谷コレクションの実態は不明であった。その後改革開放期にその一部が海外でも公開展示されるようになった。本図録は京都で公開展示(1992年12月12日~1993年1月10日)されたおりのものである。
 本図録の意義は従来謎に包まれていた旅順博物館所蔵の大谷コレクションの所在と概要を明らかにしたことである。藤枝晃は次のように解説している。コレクションは旅順博物館所蔵(A-1)、
そのうちより敦煌写本など北京図書館に引き渡されたもの(A-2),韓国中央博物館所蔵(B)、東京国立博物館所蔵(C-1)、京都国立博物館所蔵(C-2)、龍谷大学所蔵(D)、その他個人が所蔵するもの(E)などに分類される。旅順博物館所蔵コレクションについては。
1935年「旅順博物館陳列品図録」(115頁)が出版されているが大谷コレクションは25頁を占めるにすぎない。つづいて1937年「旅順博物館陳列品解説」(80頁)が作られている。両者はセットになって一つの箱にはいって販売されていた。1944年日満文化協会関係者によって「旅順博物館図録」(図版128葉 座右宝刊行会)が出版されている。この図録は戦後の1953年重版されている。なおこのうちより漢文経巻(400点)チベット語仏典(200点)が北京図書館に移されている。
 旅順博物館は主館と分館があり、主館には歴史文物が13項目に分類され展示されている。大谷コレクションは主館に「新疆歴史文物」として展示されている。(1988年7月見学した秋山進午
富山大教授によれば2階、現在博物館ホームページによれば1階)博物館は人民解放軍海軍基地
に近接しており、外国人には厳しい入場制限がなされていた。然し2009年夏以降緩和され、現在は現地旅行代理店の扱う見学ツアーなどで入場は可能である。
 旅順博物館の来歴はもと帝政ロシアの将校倶楽部の建物を日本統治下の関東都護府が関東都護府満蒙物産館として開館したものである。その後関東都護府博物館(1918年)、関東庁博物館(1919年)、旅順博物館(1934年)と名称を変えた。終戦時ソ連に接収され東方文化博物館(1945年)と改称した。その後中国に返還され旅順歴史博物館(1951年)、旅順博物館(1954年)となった。なお旅順博物館の扁額は郭沫若の揮毫によるものである。然し文化大革命中5年間閉館の憂き目にあっている。まさしくこの建物は過去一世紀にわたる中国現代史の激動を見続けてきたといえる。

2013年11月17日日曜日

井上靖「敦煌」に描かれた宋都開封の雑踏

    「敦 煌」  井上靖 新潮文庫 1965年

 井上靖は小説「敦煌」の執筆にあたって、この都邑のたたずまいを得るため、藤枝晃「帰義軍節度使始末」や塚本義隆「敦煌仏教史概説」、鈴木俊「敦煌発見唐代戸籍と均田制」などを丹念に読み込んだ。就中「宋史」や「宋史記事本末」などは繰り返し読んだため、中国の歴史で宋時代だけが特に詳しくなったという。そして宋時代の風俗や都邑の賑わいなどについては「東京夢華録」や「水滸伝」を参考にしたとしている。(「私の敦煌資料」)
 開封はかつての北宋の都(東京開封府)である。前時代まではさらに内陸の陝西省の長安や河南省の洛陽が王朝の都であった。江南地方の発展が、都を大運河の終点たる開封に移したのである。もちろん現在の開封は北宋の開封ではない。かつての街は、度重なる黄河の氾濫によって厚い黄土の下に埋もれている。
 開封のバザールの雑踏は、小説では主人公趙行徳が新興民族西夏のエネルギーに満ちたいぶきに魅せられ、不可思議な運命に導かれて敦煌にたどりつくことになる重要な舞台である。「敦煌」では冒頭の繁華街の場面は以下のように描かれている。
「趙行徳は出口の方へ歩いていった。尚書省の建物を出て、人通りの少ない官衙街を抜けた。(中略)そしていつか彼は城外の市場に足を踏み入れていた。夕闇が訪れようとしている狭い路地の中を、汚い服装をした男女が群がり動いている。鶏やあひるの肉を鍋で煮たり焼いたりしている店が立ち並んでいる。油のこげつく臭いと汗と埃とが入り混じって、むせ返るような異臭があたりに立ち込めている。羊や豚の炙肉をを軒先に吊り下げている店もある。行徳はさすがに空腹を覚えた。朝からなにも食べていなかった。
幾つ目かの路地を曲がった時、行徳は行手に人々が黒山のようにたかっているのを見た。細い路地はそれでなくてさえ混雑をきわめていたが、そこは全く通行禁止の状態になっていた。」(「敦煌」
新潮文庫版P11~12)
 おそらく井上は、この場面は「水滸伝」の「楊志が刀を売る」話から着想を得て「東京夢華録」を参考にして上記部分を創作したのである。ちなみに「水滸伝」の該当部分は次のようである。
「と、さっそく名刀を持って売り物の藁しべの札をさしはさみ、市場へ売りに行きました。馬行街の中までやって来て、四時間ほど立っていましたが、だれも声を掛けません。お昼ごろまで立ったあげく、今度は天漢州橋のにぎやかなところへ場所を変えて売りました。楊志、しばらくそこに立っていましたが、ふと見ればあたりの人人、みな川ぶちの路地の中へかけこみ、身を隠します。」(岩波文庫版「水滸伝」②P18~19)
また「東京夢華録」の該当部分は以下のようである。
「朱雀門を出ると、まっすぐ竜津橋まで来る。まず州橋から南行すると、町並みには水飯、蒸し焼き肉、乾し肉が並んでいる。(中略)盤兎、照り焼きの豚の皮つき肉、野鴨の肉、バターをつけた水晶膾、煎夾子の豚の臓物といった類である。こういったものが続いて竜津橋の須脳子肉でおしまいになるが、これらは雑嚼と呼ばれ、三更(午前零時ごろ)まで商っている。」(「東洋文庫版P73~74)
オーエン・ラティモアによれば庶民的な文化と社会的不安がまじりあった北宋末の時代の空気は「水滸伝」に最もよく書き残されているという。「北方の蛮族との戦乱はただ遠いこだまのようにしか描かれていないにもかかわらず、宋代の中国がその遠方の振動によって内部からゆりくずされていった様子が写し出されている。」
 なお現在の開封では州橋の雑踏は御街の一本横のノスタルジックな繁華街として再現され、燓
楼は「水滸伝」名場面を模した蝋人形館とレストランが併設されている。

2013年11月4日月曜日

大谷コレクション(大谷探検隊採来品)について~「李柏文書」の謎

  「図録 仏教の来た道~シルクロード探検の旅」 龍谷ミュージアム 2012年

 大谷探検隊が採来した所謂大谷コレクションが日本・中国・韓国の3か国およそ7カ所に分散している状況については既に述べた。(みたび大谷探検隊について)その中でも龍谷大学に所蔵されている「李柏文書」(正式には「李柏尺牘」)は1953年重要文化財に指定されており、超弩級の貴重な文物である。普段は大学内に厳重に保管されており、実物を見ることができるのはこういう機会(特別展「仏教の来た道」 龍谷ミュージアム 2012年4月28日~7月16日)しかない。1600年間流砂に埋もれていた文書の文字はなかなか鮮明である。然し大谷コレクションが数奇な運命をたどったように、「李柏文書」も、その内容・出土地は謎に充ちている。
 1909年3月橘瑞超は新疆省のコンチェダリヤ下流部の故城で二葉の文書を発見した。当初この文書の発見地は明確ではなかった。日本では内藤湖南(「西本願寺の発掘物」 大阪朝日新聞
1910年8月3~6日)や羽田亨(「大谷伯爵所蔵新疆資料解説」 東方学報1910年7~9月)によってコンチェダリヤ下流部とされたが、ヨーロッパ ではヘディンが発見した楼蘭遺趾説が支配的であった。そして中国では羅振玉や王国謂維が非楼蘭説を唱えた。
 この文書は書いた人の名をとって「李柏文書」と呼ばれている。4世紀初め前涼の西域長史李柏が焉耆(えんき)王の竜熙に送った手紙の草稿と認められている。然しこの文書の成立年代や出てくる地名が一朝一夕のうちに明らかになったのではない。文書の年代についてはまず羽田亨が「太平御覧」の中に西域長史李柏の名を見出し、328~330年(咸和3~5年)と推定した。つぎに松田寿男は前後の情勢などを勘案し、文書の年代を328年(咸和3年)5月7日と断定した。(「古代天山の歴史地理学的研究」 早大出版部1956年)さらに藤枝晃はこの二葉の文書は同一人に送ったものではなく、別々の国王に宛てたものという説を主張している。(「楼蘭文書礼記」 東方学報41冊1970年3月)
 文書の出土地点は当初日本ではコンチェダリヤ下流の一廃城と伝えられたが、橘はスタインとの会見の結果、楼蘭遺趾(LA)と認めた。然し王国維は、この文書は手紙の草稿であり、文中に此(ここ)の一文字を消して海頭と書き直したところがあるところから、文書の出土地は楼蘭ではなく海頭だとした。これを解決したのが森鹿三である。文書発見から50年ぶりの1959年5月2日森は橘から出土地の写真を見せてもらい、それがスタインのLK遺趾であることを明らかにした。(「李柏文書の出土地」 龍谷史壇45号1959年7月)この比定は橘の50年前の記憶に誤りがなければ、確かなものと思われた。以後LA西南50キロのLKが海頭であり、「李柏文書」の出土地として半ば定説になっていった。然し近年片山章雄が文書発見前後の記録などを丹念に精査し、出土地はLKではなくLAであることを立証した。(「李柏文書の出土地」 『中国古代の法と社会』所収 汲古書院1988年)「橘師が森氏に提示した写真は確かにスタイン氏のLKと一致するが、師がその遺趾をヘディン・スタイン両氏に先立って訪問・撮影したことの証拠にはなっても、師の様々な記述とは一致しないのであって、何らかの誤りによって写真を取り違えて提示した可能性が強いと思われる。」(前掲書P174)ちなみに片山が探し出した記録は国民新聞の「沙漠行」(1921年9月20~29日  全8回)と大阪毎日新聞の「新疆探検日誌」(1921年9月26日~10月2日 全5回)である。橘の日記は公表されず、大正末年の火災で焼失したが、以上のような形で一部が残存していたのである。その資料によれば文書発見当時の橘の楼蘭探検ルートは以下のようであった。アトミッシュブラークから一旦ミーラン方面まで下り、そこからアブダルを経て北行する途中、コンチェダリヤの旧河床を南から北へ過ぎた地点で文書を発見したのである。
かくして「李柏文書」は発見から実に80年ぶりに片山によってその出土地がLAと確定したのである。従って海頭はLKではなくLAであったのだ。楼蘭は4世紀初頭そう呼ばれていたのである。海頭は蒲昌海(ロプノール)のほとり蒲昌海頭の意である。

2013年10月19日土曜日

内藤湖南は復活するか

  「内藤湖南への旅」  粕谷一稀  藤原書店  2011年

 昭和9年に死去した内藤湖南は共産中国の出現を予言できず、「五・四運動以後の新しい中国の動きを理解できなかった」(増渕龍夫)と酷評された。のみならず戦後のある時期は日本・中国で戦犯なみの扱いを受けた。とくにその「文明中心移動説」は「文明」を「文化」にかえて日本軍国主義の中国侵略を隠蔽する学説として厳しく批判された。
 その湖南が最近徐々に復活しつつあるという。例えば「中国『反日』の源流」(岡本隆司 講談社 2011年)、「内藤湖南のアジア認識」(山田智/黒川みどり共編 勉誠出版 2013年)の刊行など。本書の出版がその嚆矢であることはいうまでもない。それは何故か。文革の急進主義を是正した鄧小平の「社会主義市場経済」という現実路線は経済的には成功したが、歴史観の問題として「中国はどちらの方向に向かうのか」という方向指示能力をうしなった。そして中国は次第に歴代王朝と同じ相貌を持ち始めたからだ。
 中国は専制と割拠から抜けきれないと考えたウィットフォーゲルや梅棹忠夫とちがって「支那人以上に支那人の立場にたって考えた」湖南は中国の内的発展を信じていた。そしてその湖南の中国認識の基礎になったのが「父老社会」の存在だと著者はいう。「父老社会」とは、中国の郷党社会には、独特の老人支配があって、その長は外交問題や愛国心には関心がなく、郷里の安全、家族の繁栄にだけ関心がある。それさえ満たされば従順に統治者に従う。たしかに中国では、国家は存在しても政治は機能せず、政治社会と普通社会はそれぞれ別々の世界を形づくっていた。相互は無関係かつ無関心であるという特異な構造を伝統的に保持し続けてきた。政府と人民の交渉は、ただ租税の徴収という一事のみで、未納さえなければ双方は関わり合いがなかった。
 「新支那論」において示された「停滞」する中国像を、西欧や日本の未来の姿として読み解こうとすれば、様々な可能性が引き出せる。それでは、このような可能性を有する中国像を提示しえた湖南はどこでその時評を間違え躓いたのか。それは中国を西洋化の途上にあるとする凡庸な進歩史観や、中国社会を分析する概念に日本社会の共同体の感覚をスライドさせる手つきの安易さ(「郷団」概念のイメージの甘さ)である。それが中国を見る目を狂わせ、また中国に接する態度をゆがませるという輿那覇潤の指摘は鋭い。(輿那覇潤「史学の黙示録ー『新支那論」ノート」 「内藤湖南のアジア認識」所収」)

2013年9月29日日曜日

昭和30年代を遠くはなれて

   「昭和30年代演習」  関川夏央  岩波書店  2013年

 昭和38年、その頃は文学全集刊行のブームであったが、中央公論社は新たなる文学全集「日本の文学」を企画した。編集委員は三島由紀夫、川端康成、大岡昇平、高見順、ドナルド・キーン、
谷崎潤一郎、伊藤整の7人。7月17日に開かれた第3回の会合は紛糾した。三島は、この全集に松本清張の作品を入れることに強硬に反対した。清張を入れるなら自分は編集委員を降り、自作を収録することも固辞するとも。そして7月30日の第4回編集委員会でも自説を曲げず、大岡と高見が同調した。谷崎は清張を入れてもいいといった。かくして全集には松本清張に代わって柳田国男が入った。この時三島は38歳、清張は53歳であった。
 この三島の頑固な清張嫌いの理由はどこにあったのか。清張が「社会派」として活躍した昭和30年代、実は三島も「社会派」を自認していたと著者はいう。例えば「金閣寺」(昭和31年)は大谷大学学僧による金閣寺放火事件を取材した事件小説であり、戯曲「鹿鳴館」は「鹿鳴館外交」を肯定的に評価した舞台劇だとする。「愛の渇き」や「青の時代」は実際の殺人事件や東大生の高利貸会社の破綻を描いている。そしてきわめつけは昭和34年都知事選に取材した「宴のあと」(昭和35年)であり、後「プライバシー裁判」となり三島は敗訴した。また近江絹糸の労働争議に題材をとった「絹と明察」(昭和39年)は新しい社会派小説の試みのはずであった。然し評論家や読者は全くそのようには評価しなかった。このようなフラストレーションが、高級官僚の堕落と保身を指摘するだけで「社会派」と呼ばれる清張作品を笑止とした。
 清張作品を周到に読み込んで、「日本の黒い霧」の「陰謀史観」に「左翼的」心情と民族主義の奇妙な同調を見て不快に感じたのが、「日本の文学」編集委員会での強硬な反対だったと著者は解説する。「どこかに悪いやつがいるはずだ」という清張の信念、もしくは「陰謀史観」は昭和30年代の雰囲気にマッチしていた。謎の権力を付与された個人としての「黒幕」がいる。清張の「黒幕」のモデルはおそらく安岡正篤である。現代の「黒幕」は実は選挙民なのだが、個人としての「黒幕」の存在は、自分にも責任があるという事実をわずかでも忘れさせる。
 昭和38年の「事件」以降、「社会派」作家たることを断念した三島は、なにものかに憑かれたかのように映画「憂国」(昭和40年)を完成させ、「英霊の聲」(昭和41年)を書く。そして昭和45年11月25日市ヶ谷で自刃する。玩具の軍隊「楯の会」の決起もないままに。45歳であった。それはもう一つの玩具の軍隊たる「ブント赤軍派」の大菩薩峠での壊滅(昭和44年11月5日)と相似形であった。三島は死後、毀誉褒貶はあるもの様々に論じられ評価された。それにくらべて清張は次第に読まれなくなった。それは現代を語ろうとして、一歩遅れる清張の癖が大きく原因している。旧左翼的な体質が古いと思われたのだ。

2013年9月16日月曜日

神戸新聞が記録した関学全共闘の闘い~その4

  「神戸新聞  昭和44年6月 ~マイクロフィルムから」

 関学6項目要求闘争は2/26~27大衆団交の時点で実質的には終焉していた。やっと勝ち取った「3/5団交確約書」だが、その成果を「小宮辞任」という形で反故にされた全共闘には明確な闘争の展望は描けない。それに全共闘の物理的戦力は破断界に達していた。全学封鎖によって守備する建物は多い。学院側のロックアウト措置により(後期試験はレポートに代わり)、登校する学生の数もめっきり減った。人民の海を奪われたゲリラのように全共闘は閑散としたキャンパスの中で孤独をかこつことになる。そしてこの闘争の敗北過程は「民主的教授会」の自己解体と並行して進んだ。そしてそれは神津陽によれば、全共闘世代を含むその後の大学教員の思想的壁となっている。その後、どの時代の教員も、いかなる大学改革を語ろうと、高邁な学問を教えようと、また政治的・社会的批判を述べても、この「壁」を克服せねば思想的説得力を持たない。
 学院当局の新執行部もなかなか決まらない。これは一面無能ということもあるがきわめて狡猾な時間稼ぎでもある。それでも3/19には小寺学長代行、3/22に城崎学長代行代理の新執行部が決まる。全共闘にとって3月は各学部教授会追及で終わる。4・5月は学年末試験阻止と新入生オリエン阻止闘争で終わる。9月の全国全共闘結成と11月首相訪米阻止闘争にわずかな期待をかけながら。学院当局の「廃校か否か」という恫喝的なアンケート郵送や、「改革結集集会」の呼びかけに全共闘指導部は有効な反撃方針を提起できず、ダラダラと全学封鎖が続く。然しそれでも6/9王子集会粉砕闘争に決起した全共闘の最後の雄姿に触れねばならない。
「前夜から関学の封鎖学舎に泊まり込んだ全共闘派学生及び神大などの応援学生約400人は午前10時から学生会館で集会を開き『結集集会を討論集会にしよう』と気勢をあげ、正午まえ学院から道いっぱいに広がってデモをしながら阪急甲東園から会場へ向かい、神大からの応援学生約70人と合流した。(中略)会場に乱入したのは外人部隊を含め全共闘系学生約400人(中略)グラウンドに座り込んだ。これに対しスタンドを埋めた一般学生約2000人は『全共闘帰れ』をシュプレヒコール。(中略)この中で小寺学長代行は全共闘学生らに『退去命令』をだし、同1時50分、機動隊約100人がグラウンド内に突入、ヘルメット学生の排除にかかった。」(6/9夕刊)
「集会は教職員、学生、同窓生を含め約9000人(大学側発表)が参加、(中略)機動隊導入による実力排除で全共闘系学生を締め出したまま、予定より10分間遅れて始まった。(中略)競技場を取り巻く機動隊、全共闘学生のシュプレヒコールが続く異常なふんいきの中で、まず城崎学長代行代理が『研究、教育と本来の大学人の業務と新生関学を創造するための討論会を組織的、継続的に行うため上ヶ原キャンパスを一日も早く取り戻そう』と集会の目的、意義を訴えた。一部から『ナンセンス』のヤジが飛んだが、大勢は拍手で支持、討論なしの提案、協力呼びかけの形で進んだ。(中略)さらに城崎学長代行代理は『封鎖学生に最後の自主退去勧告、聞きいれない場合は数日中にわれわれの手でバリケードを撤去しよう。方法はわれわれ二人に任せ起立で決意を示してほしい』と訴え、ほぼ全員起立、拍手でこたえ集会は予定より早く午後3時すぎ校歌を合唱するなかで閉会した。(中略)開会前から会場周辺を約1600人の兵庫県警機動隊が警戒、(中略)競技場に逃れた一部のヘルメット学生と小競り合いし学生24人(うち女子10人)が威力業務妨害、不退去、公務執行妨害、道交法違反の疑いで逮捕され警官、学生ら10数人がケガを負った。」(6/10朝刊)
「全学共闘会議派と応援の他大学の学生ら約200人は、神戸市灘区水道筋で二度にわたって”解放区”まがいの封鎖行為をし、一時は道路上に古木材でピケを張って交通をストップさせた。舗装路面をくだき、市電軌道撤去の工事現場を荒らすなど、一時的な”無法地帯”を生む騒ぎ(中略)水道筋いっぱいに広がるデモ。ワーッと追う機動隊。学生たちは東へ逃げながら投石を繰り返す。
(中略)約15分間の道路封鎖のあと、機動隊のハサミ打ちを察知してかヘルメット学生たちは約1000人のヤジ馬たちと、バリケードを残したままサッと引き揚げ、阪神大石駅前の児童公園で流れ解散した。」(6/10朝刊)
 追い詰められて突出するしかなかった6項目要求闘争はかくして敗北した。その要因は運動経験
の蓄積の少なさとそれ故の主体的力量の貧弱さにある。何故そうであったのか。そのためには6項目闘争に先行する薬学部設置反対闘争、43学費闘争について述べねばならない。また6/30授業再開以降の「小寺近代化路線」粉砕闘争は44年度新入生など新たな主体によって担われることになる。これについても触れねばならない。この前史と後史については他日稿を改めて述べたい。
 

2013年9月1日日曜日

ミャンマー紀行~「カチン族の首かご」の地を行く

 「ミャンマー いま、いちばん知りたい国」  中村羊一郎  東京新聞  2013年

 ミャンマー最北部に位置するスンプランボンは、以前は英文の綴り(Sumprabum)をもとにサンプランバムと呼ばれた。第二次大戦中ミッチーナから日本陸軍の1個中隊(55師団112連隊第3大隊所属)が進出していた。あの「カチン族の首かご」(妹尾隆彦)の舞台である。ミッチーナとプータオの中間にあるスンプラボンは戦後長い間外国人の立ち入りが厳禁されてきた。ミッチーナからプータオに至る街道は全長218マイル(350キロ)の自動車道路である。著者は2000年12月、軍政下で日本人として初めてプータオから南下してスンプランボンに入ることができた。86マイル、車で1日の行程である。
 ミッチーナからスンプランボン街道を北上してプータオに至る許可がおりたのはなんと2011年2月である。そのルートを紹介しよう。
ミッチーナからからミソンを経由してティヤズン村(泊)。さらにタドウ村(泊)。ジャパン・ビャンを経て4日目にスンプランボンに着く。そしてロンシャーイエン村(泊)を経由してプータオに至る。
 プータオは現在リゾート開発の波の中にあるという。南国ミャンマーの中で唯一雪山が望めるのはここだけである。然しプータオからカカラポジは見えない。ただし郊外からは、その前衛にあたるらしい雪山が望める。深田久弥は「途中の一番高い地点から、プタオ高地の北の山々が見渡せる。冬、空の澄み切っている季節にはビルマとチベットの国境の雪嶺がハッキリと現れる。その中の最高峰はカ・カルポラジ(5873メートル)で、もちろん誰も登ったものはいない。」(「続シルクロード」)と書いているが、カカラポジは見えない。
 著者は茶樹の研究家である。ジャーナリストには許されない取材も一研究者として申請し入域許可さえとれば、護衛がつき道中の安全は確保されたとうい。もちろん現地では許可された以外の地域に足をのばすことはできないが。本書はそのように軍政下の「鎖国」状態のミャンマー辺境を踏査した報告である。スンプランボンはじめ、インパール作戦の地フーコン渓谷とチンドーウイン川。そしてインド洋を望むシトウェイ(アッキャブ)やミャウなど。
民政移管後の興味深い報告もある。2012年9月中旬ヤンゴンを訪れると市内の雰囲気が格段に明るくなっていた。ほとんど停電がなくなった。それは言論の自由のおかげだという。政府関係部署の、電力の絶対量は不足しておらず、無駄な使い方(首都ネビドの夜間道路照明など)にあるとする投書により、政府は早急に是正した。国民の精神的解放感と、実際の明るさが一体となってミャンマーに活力が戻ったという。

2013年8月18日日曜日

「シルクロード史観」論争その後

   「シルクロードと唐帝国」  森安孝夫  講談社  2007年

 前稿で「シルクロード史観論争」は一方の当事者間野英二が護雅夫の反論を黙殺したため継続せず「すれ違い」で終わったと書いた。これは筆者の思い違い。2007年刊行された本書で森安孝雄は、近年中央アジア学者の間で「シルクロード史観論争」がむしかえされているとし、間野説に徹底的な批判を加えている。間野説の核心は、「中央アジア出土の古代ウイグル文書に登場する住民はすべて農民であり、東西貿易に関係した『オアシス商人』の存在は確認できない」というものである。然し、これは森安によれば明らかな事実誤認なのである。古代ウイグル宗教文書や東トルキスタン・敦煌などから出土したカロシュティー文書・ソグド文書・チベット文書からシルクロード商業の実態を示す文書が発見されているという。
 本書は講談社「興亡の世界史シリーズ」の一冊で唐の建国から終末までの時代を担当している。その中でとくに第1章「シルクロードと世界史」を設け上述の「シルクロード史観」論争を紹介しながら間野説を厳しく批判している。そしてユーラシア史の時代区分やイスラム化強調に疑問を呈している。巷間の回教とは「回鶻=回回=ウイグル」民族が伝えた宗教であるというような完全な嘘なども一刀両断する。
 従来の生産力中心のマルクス主義史観と違って著者は軍事力と経済力を中心とした世界史の時代区分8段階説を唱える。とくにその第5段階「中央ユーラシア国家優勢の時代」(一千年前より)が本書の該当部分であり、唐朝の成立から安氏の乱までが中央アジア史の分水嶺であるとする。本書の本編部分の歴史叙述は、ソグド商人の軌跡を、西域出土の文書を縦横に使用しながら、唐代の歴史を甦らせる。唐が、北魏や隋などと同様に鮮卑系王朝=「拓跋国家」といわれる多民族国家であった実態が明らかにされる。太宗に対して遊牧民族が「天可汗」という称号を奉った事実を、とりもなおさず中国の天子たる「皇帝」に加えて北・西方の草原地帯の天子たる「大可汗」として認知されたとするのは、大唐帝国に対する過大評価だとする。古代トルコ民族史料などによれば、唐王朝は「タブガチ」と称したことが明らかになっている。この「タブガチ」は「タクバツ」(拓跋)であり、太宗は遊牧民族から見れば拓跋国家の汗なのであるというように。読み応えがあり面白いのだが、こういう方法は間野によれば30年前に批判した古い交渉史的研究視角ということになる。
 また本書で注目すべきは序章「本当の『自虐史観』とは何か」である。著者はナショナリズムの問題について、民族と国民(国家)は近代の産物であり、フィクションだと裁断する。つまるところ人類は東アジアの大地溝帯に発生し、各地に分散したのだと。「歴史を学ぶ究極の意義は、人類にも民族にも言語にも思想にも何一つ純粋なものはなく、すべては混じり合って形成されてきた歴史的産物であるから、そこにはいかなる優劣も差別もないということを、明確に認識することである。」
(本書P.40)歴史家たるもの、やはりこれくらいの見識がなければならない。著者は本書の読者として最も期待しているのは高校の世界史・日本史・現代社会の教師だというが、教師のみならず広く読まれてほしい。
(付記)2008年間野英二が本書に対しかなり詳細な批判を発表している。(「『シルクロード史観』
再考」 史林91-2所載)これについては稿を改めて紹介する。

2013年8月4日日曜日

神戸新聞が記録した関学全共闘の闘い~その3

 「神戸新聞 昭和44年2月、3月」 ~マイクロフィルムから

 東大闘争は1・18~19の安田講堂攻防線で実質的に終焉した。ろう城組の大半は外人部隊で、東大全共闘は物理的には健在であったが、その後日共系が軍事的に制圧したキャンパス内で主導権をとることはなかった。関学闘争は違った展開をみせた。全共闘は50名を超える逮捕者により組織的存続の危機かとみられたが、新たに広範な学生が結集し更に戦列を強化した。然しそれは2日間に及ぶ5号別館死守闘争の戦術的正しさを証明するもでは必ずしもない。一部指導者はそう信じ込みたかったにもかかわらず。それはともかく全共闘は2月15日理学部を除く全学部を再封鎖した。キリスト者反戦連合やサークル闘争委によるによる宗教センター・学生会館の自主管理や教授研究棟、同窓会館の封鎖など全学封鎖体制の構築の圧力により学院側は2月26日の「学生集会」を提案した。
2/26~27大衆団交。「ヘルメット、ゲバ棒姿の全共闘学生約200人が全学集会のため設けられた臨時の演壇付近を占拠したが、同1時55分全学集会がはじまった。同日午前3時ごろ、武装した全共闘学生約150人が会場に設けられた金網、放送設備をこわし、午前10時から中央芝ふで決起集会を開いたあと演壇付近を占拠した」(2/26夕刊)
「同大学の新グラウンドの演壇周辺はヘルメット・ゲバ棒姿の全共闘学生約300人が占拠(中略)機動隊の導入などの自己批判を要求する全共闘派学生たちが同学長代理の責任を追及する格好で集会が続いた。(中略)平行線のまま日没で、場所を中央講堂に移して続けられた。(中略)同学長代理は一学生の釈放要求を求めたことについて、学生の6項目要求闘争を弾圧したとの学生の考え方にかなりこだわりながらも、結局は要求を認めて自己批判書に署名した」(2/27朝刊)
27日正午から全共闘主催の「自己批判追及集会」を再開することで、午前1時いったん散会した。
「前日に続き27日午後1時から、中央講堂で小宮学長代理が出席して全学共闘会議主催の『自己批判追及集会が開かれた。朝からの雪で講堂に集まった学生は泊まり込みを含めて約1000人。ヘルメットの埋まる会場では全共闘学生が同学長代理に機動隊導入による入試強行、スト体制の実力排除など4項目について前日に引き続き責任を追及している」’2/27夕刊)
「午後10時前、同学長代理が『3月5日午後1時から中央講堂で全共闘主催の大衆団交を開く』との確約書に署名、約9時間にわたった同日の集会を終わった。確約書は①機動隊導入による入試強行と封鎖校舎の実力排除②学生の構内立ち入り禁止と臨時休校③26日からの全学集会など3項目の収拾策に対する自己批判と6項目要求を対象とした大衆団交を大学の最高機関である理事会、常務会、大学評議会の出席のもとに開くというもの。(中略)この日の『追及集会』は約2000人の学生が参加、前日同様一般の教職員は締め出されたまま終始全共闘ペースで進められた」(2/28朝刊)
そして「収束へやっと一歩 双方それぞれに評価」という同日の解説記事は次のように述べる。「20時間余りにわたった集会の幕切れは『5日に全共闘主催の大衆団交を開く』という一片の確約書だった。小宮学長代理が初めて全共闘学生と対決、学生たちと話し合う姿勢を示したことは事態収拾へのきっかけをつくったといえる。(中略)紛争後初めて大学、全共闘側が一つの舞台に上がる5日の大衆団交でどんな話し合いが持たれるか(中略)小宮学長代理も6項目要求について『論理的に打ち破られるなら白紙撤回もありうる』といままで違った発言をしており、徹底して論争を受けて立つ構え、全共闘もこれまでのような”つるし上げ”の姿勢を捨て、一般学生を含めた幅広い話し合いを持つことが要求され、三月卒業の限度ぎりぎりになって開かれる大衆団交が注目される」
(2/28朝刊)
取材する神戸新聞記者たちの期待が高まった場面だが、それは3/2小宮学長代理、大学評議会評議員全員の辞任(3/3小宮院長職も辞任)で裏切られる。やっと勝ち取った一片の「団交確認書」だが、学院側は「小宮辞任」という形でこれを反故にしてしまった。団交確約書に署名した時点でそれは既定路線であったのだ。5号別館・法学部本館死守闘争という大きな犠牲を払った全共闘学生の怒りは大きかった。
 この時全共闘は構成員・動員力ともピークに達していた。神戸新聞によればノンセクトのヘルメット部隊だけでも200人を超えていた。「6項目要求から大学解体へ」「関学を70年安保粉砕の砦とせよ」というスローガンは提起はされていたが、まだ一部でしかなかった。然しこの大学当局者の総逃亡という「目くらまし」で全共闘は明確な「敵」の姿を見失ったといえる。当面とりうる戦術は各学部教授会への追及しかなかった。中大学費・学館闘争の指導者神津陽が言うように、学園闘争は革命闘争ではなく、閉鎖的な一学園内だけで革命的状態が構築できる訳もない。学園闘争で可能なのは法的規制の枠内で最大限改良でしかないのである。かくして6項目要求を勝ち取るチャンスを全共闘は失ったのだ。(この項続く)

2013年7月16日火曜日

神戸新聞が記録した関学全共闘の闘い~その2

  神戸新聞  昭和44年2月~マイクロフィルムより

 2月3日全共闘と学院当局の2・6大衆団交に向けての予備折衝が決裂した。学院側は全学執行委員会(W委員長はすなわち全共闘議長なのだが)を通じての話し合いを求め、どうしても全学共闘会議を交渉の相手と認めようとしない。弱いとみれば全く相手にせず、強いとみれば逃げまわって時間稼ぎする。この学院の姿勢は最初から最後まで終始一貫している。この段階では学院当局にとって全共闘はまだ「一部の学生」にしかすぎなかった。
 然し全共闘側の陣営は強化されつつあった。他大学部隊のみならず西宮反戦、兵庫地区反戦連絡会議の労働者も支援に結集していた。団交を拒否された全共闘は私立大学では初めての入試阻止を打ち出す。
2/6入試前日・入試会場占拠。「共闘派学生の乱入は午前5時きっかり。(中略)体育会学生のほとんどは学内パトロールに出、角材、木刀を用意して体育館周辺にいた20人の学生は火炎ビンの前にはひとたまりもなかった。『きた!』その叫び声に、館内の教職員50人のピケ、玄関の内側に築かれたバリケードをアッという間に破られ、(中略)火炎ビンがつぎつぎと投げ込まれフロアーは一面火の海。(中略)教職員6人と学生1人が全共闘の本拠第五別館にら致された。(中略)乱入に加わった学生は女子学生を含め予想外に多かった。前夜神戸大など外人部隊が続々集結しており、半数以上が関学生ではなかったという。」(2/6夕刊)
「警官隊は徐々の数を増し、午後7時ごろには公安捜査隊も出動、千人の大部隊となった。一般学生の数も時間を追ってふくれあがり、体育館東の野球場は『入試実現』『暴力反対』を叫ぶ千五百人の学生が集会やデモで気勢をあげた。これに対し野球場周辺をL字型に埋めた千五百人の一般学生は『機動隊かえれ』『学院側は大衆団交に応じよ』とシュプレヒコールで応酬。機動隊警備下の入試強行をめぐり学生間での対立が浮き彫りになった。一方完全武装の共闘派学生5百人
は午後5時ころ、突然封鎖中の校舎を飛び出し、学生会館前で機動隊と衝突。(中略)同6時ごろには約百人が生協食堂前の関学銀座通りと中央講堂横の通路など二か所に机、長イスでバリケードをつくるなどの動きをみせた」(2/7朝刊)
入試前日の長い一日、神戸新聞はさらに15面に次のような解説記事を載せる。「卒業を前にしたある学生(経済4年生)は『われわれは不満をつのらせている。共闘会議の大衆団交に応じられなくても教室でわれわれが話し合おうとしたとき、一度も顔を出さなかった学院側には不信感でいっぱいだ』とやり場のない憤りをぶちまける。(中略)共闘派の学生の一人は『火炎ビンの使用には内部でも批判があったが、入試前日の価値を本当に学院側、教授会が理解していたらこんなことにはならなかったはず。機動隊の力でしか入試が行えない当局の無責任さをはっきりさせる』という」
(2/7朝刊)
2/7経済学部入試阻止闘争」。「試験会場の体育館北側の学生会館前道路には前日とほぼ同数の千人近い学生が徹夜で目を赤くして座り込んでいた。『機動隊帰れ』を繰り返して機動隊のタテと
”対決”した格好。そのすぐ後ろに完全武装の共闘派学生約百人が机・イスで築いたバリケード越しに構え、すぐ下のグラウンドの『入試実』派学生五百人とじっとにらみあい。午前8時15分(中略)
『ピーピー』と耳をつんざく笛がなり、鉄パイプ、角材、ヘルメット姿の共闘派学生50人が機動隊に突入をはかった」(2/7夕刊)
機動隊に守られての入試は昭和41年3月の早大についで二度目だが、このような異常事態(その後常態化する)について神戸新聞は関学大OB識者の意見を当日夕刊に掲載する。昭和初年に文学部講師を勤めた元兵庫県知事坂本勝のコメントは学院側に厳しい。「関学はなににもましてミッションなんだ。平和と相互理解が建学の精神のはずだが大学側は”ロ^マの兵”を構内に入れた。関学スピリットは滅びたね。悪いのはなんといっても学院側だ。(中略)聖書をもう一度読めといいたい。小宮君は左のほおをなぐられたら、右のほおを出せといいたい。(中略)入試中止でもいいじゃないか。中小企業のようなことをいうなというんだ。金の問題じゃない。4年も5年もたって解決しなければ廃校にすればよい」そして解説記事は「非常事態の背景には、学院当局の紛争解決への努力のなさがこのようなドロ沼状態を招いた」と一刀両断する。
 兵庫県警は、2月9日早朝、大阪府警500人の応援をえて2500人を投入して、封鎖解除に踏み切った。全共闘側は法学部本館(反帝学評など13人)、第五別館(フロント、社学同、革自同など35人)で死守闘争を展開。第五別館は翌日までもちこした。
2/9法本館・五号別館死守闘争。「第五別館と法学部本館のバリケードは堅く、第五別館では立てこもった社学同、フロント派学生40人が放水、投石、火炎ビン投下など激しく抵抗、機動隊がガス弾で応戦した(中略)この間学生たちは同館の屋上へ逃げ、真紅の社学同旗をかざしてろう城、テントまではって持久戦法に出た。(中略)同県警は午後3時から大阪府警のヘリコプター2機を出動要請、空からの退去にあたったが、夕暮れと同時に排除を中止、10日朝から再開する」(2/10朝刊)
2月10日午前11時50分、30時間にわたる第五別館死守闘争が終わった。逮捕された全員が火傷・打撲傷の重傷。12日の「全関西関学奪還総決起集会」には全共闘の旗の下3000人が結集した。

2013年7月2日火曜日

神戸新聞が記録した関学全共闘の闘い~その1

    神戸新聞 昭和44年1月 ~マイクロフィルムより

 関学6項目要求闘争について、全共闘側の資料、学院側の資料に関してはすでに検証した。今回は地元のメディア神戸新聞がその紙面でこの6ヵ月に及ぶ「紛争」をいかに報道したのかを見てみよう。取材する記者をはじめ多くの学院OBがいる神戸新聞にとっては他人事ではなかったのだ。神戸新聞昭和44年のマイクロフィルムから当時の記事を再現してみよう。
 記事によれば1/7第五別館封鎖は突如おきた。「7日夜全学共闘会議の社会学部闘争委員会を中心とした学生約30人が同大学第五別館を封鎖した。(中略)8日から新学期が始まるため全共闘は封鎖にはいったもの」(1/8朝刊)
1/17学院本部封鎖。「17日午前零時半ごろ、全学共闘会議の学生約30人が大学本館に乱入、内側から板切れなどを打ち付けて封鎖した。(中略)16日の中執で本館を封鎖し、同大学の機能をマヒさせることを決定、一方で17日本館を封鎖するとの情報を流しながら、大学当局や反対派のスキをみて突然実力行使にはいったもの。」(1/18朝刊)まだこの段階ではベタ記事扱いだ。
12/23の全学共闘会議で本部封鎖提起されたが、意志一致出来ず流れた。また1/6会議では5号別館封鎖は反対する主流派(反帝学評、学生解放戦線)と賛成の少数派(フロント、社学同、先鋒隊)に分かれた。反帝学評は5号別館封鎖は小ブル急進主義のショック戦術だと批判し、クラス・サークル末端からの組織化をめざし無期限ストを提起した。
1/18法学部無期限スト突入。「18日午後、法学部がスト権を確立、同日夕方から法学部本館と同別館にバリケードを築き無期限ストに入った。(中略)同学部のスト権投票はさる11日から行われていたが、18日午後の開票で同学部学生総数2612人のうち、賛成1079票、反対821票で可決した。同学部闘争委は同日夜、学生約30人が泊まり込んだが、同学部スト突入を足場に、文・社会にも学部ストを波及させてゆく方針で学費値上げ反対など6項目の要求を掲げて学院当局との大衆団交を目指して闘争を進めるという。」(1/19朝刊)次第に闘争のうねりが大きくなってくる。
そして1/24全学集会。「24日午後1時から同校中央芝ふで、紛争後初の全学集会を開いた。(中略)1万3千人の教職員・学生のうち小宮院長、古武学長はじめ約5千人が参加。(中略)『全学集会を大衆団交の場にしよう』とデモをしていた全学共闘会議の学生約300人が集会に割り込んだため、これを阻止しようとした運動部の学生を含む一般学生と衝突、一部でなぐりあい、学生数人が軽いケガをした。(中略)同3時司会の武藤誠総務部長が閉会を宣言したため、学生らが『実りある答弁をしろ』と騒いだ。学生側は大衆団交に切り替えるよう要求。(中略)それまで別集会をしていた全共闘の学生にも集会に加わるよう呼びかけたが、ヘルメットを脱げ、脱がぬで対立、集会は約1時間空転した。集会が再開されようとした矢先、小宮院長、古武学長らが『全学集会は終わった』としてひきあげてしまった。(中略)残った全共闘派学生を含めた約千人は『学院当局の全学集会の意図を粉砕した』、『29日午後1時から中央講堂で大衆団交を開くことを要求する』ことを確認、同7時過ぎ解散した。」(1/25朝刊)
神戸新聞の学院当局に対する視線は厳しい。当日の記事には「学長ら去り ”閉会” 関学大初の全学集会 ヘルメット論争で空転」と見出しが大きく打たれている。さらに学院OBの記者は署名入り解説で「集会半ばで逃げるように退席した小宮院長ら首脳陣の態度は集まった学生らに『無責任なやり方だ』という印象を与え、封鎖解除どころか、かえって不信感を植え付けた」と批判している。
その後情勢は加速した。26日社会学部封鎖に続き28日神学部も無期限ストに入った。「28日午前5時、神学部学生会が学部校舎を机、イスなどでバリケード封鎖、無期限ストにはいった。同学部は27日夜学生大会を開き、26対8でスト権を確立、封鎖にはいった。(中略)なおスト権投票中だった経済学部も27日深夜学生集会を開いたが、スト強行派の突き上げで学生自治会が解散したため、28日開票予定のスト権投票は無効になった。」(1/28夕刊)「商学部のスト権投票の開票が28日午後5時から商学部校舎で学生千人が見守る中で行われ、投票総数2364票中賛成1293票、反対1038票(その他無効)で、可決された。」(1/29朝刊)
そして28日文学部29日経済学部が封鎖され、理学部を除く全校舎が封鎖された。法・商・神学部は学生大会決議を経ての封鎖だが、社・文学部はそうした手続きを省いての強行。経済学部もスト権確立が危ういとみての自治会解散・封鎖であった。神戸新聞解説記事(1/29)は執行部のあせりが封鎖・占拠という過激な戦術になり、学生大会決議をへず強行・封鎖するやり方は「東大方式」の影響だと指摘する。また社・文のフロント、社学同と法・商の社青同解放派(反帝学評)が戦術面で対立・足並みが乱れた。全共闘執行部を握っていた反帝学評は前年12月初めの革マル派との党派闘争に力をそがれ、全共闘の主導権を取れないまま闘争にはいったため、各派間の意思統一ができなかった。1月半ばには全共闘(約100人)は一般学生から浮き上がり、完全に孤立していた。然し全学集会の失敗で全共闘の支持が増え(サークル闘争委、一連協などの組織化が進み)、封鎖学生も300人程度になった。いままで闘争に参加しなかった神・理学部の学生も6項目要求支持を打ち出し、全共闘のウイングはひろがった。(この項続く)

2013年6月17日月曜日

ミャンマーの今を読み解く

 「激 変~ミャンマーを読み解く」  宮本雄二  東京書籍  2012年


 本書の著者は2002年から2004年まで2年間、駐ミャンマー特命全権大使を務めた。著者以外にも日本の駐ビルマ(ミャンマー)大使経験者にはビルマを紹介する著書が多い。「ビルマに暮らして」、「誰も知らなかったビルマ」、「ミャンマーの実像」等々。「謎の大国ビルマ」について全般を解説・紹介するという体になる。然し本書が意図するところはミャンマーの「民政」の展望の一点についてである。
 2011年3月、軍人が大きな勢力を持つが民主的なプロセスを経てティン・セインを大統領とする新政府が成立した。この「民政」はアウンサン・スーチーと和解し、それを契機に欧米(そして日本)の対ミャンマー政策(経済制裁など)は大きく修正された。そしてミャンマー政府の経済政策も対外開放に大きく踏み出した。宮本は2012年5月の再訪時の観察なども踏まえて、このプロセスは決して後戻りすることはないとする。軍内部の力関係を「開明派」と「守旧派」の対立、そして前者の増大ととらえ、タン・シュエはそれに乗っかているだけだとする。
 然し慎重な指摘もある。「やはりタン・シュエは老獪で老練な政治家とみておくべきだ。キン・ニャンを最後に排除したのも、キン・ニャンが実力をつけてきたからであり、トウラ・シュエ・マンが大統領になれなかったのも実力があり、野心家であったからだ。ティン・セインを抜擢したのも、実務能力があるが、派閥を作らず野心家でないと見たからだ。そのティン・セインが実力をつけて来た時にタン・シュエがどう出るかについては、もう少し結論を出すのを待った方がよさそうである」(本書P249)
ちなみに新政権発足時の構成はティン・セイン(大統領 士官学校9期)、ティン・アウン・ミン・ウー(副大統領 士官学校12期)、トウラ・シュエ・マン(国民代表院議長 士官学校11期)、ティン・アウン・フライン(国軍司令官 士官学校19期)である。
 「民政」の今後を占う鍵は中国との関係だが、これも大きく修正された。その象徴が2011年9月中国投資によるカチン州ミッソン水力発電所建設計画を凍結したことである。これには政権内でティン・アウン・ミン・ウーがただ独り反対した。然しウーは2012年5月「病気を理由」に辞任した。後任にはニャン・トゥン海軍司令官が就任した。

2013年6月2日日曜日

「新・日本文壇史」10巻ついに完結

  「新・日本文壇史 巻10」  川西政明 岩波書店 2013年

 膨大な川西政明の「新・日本文壇史」全10巻が本書の刊行をもって完結した。伊藤整・瀬沼茂樹の「日本文壇史」は二人の死により、大正期半ばで中絶した。「新・文壇史」は、それを引き継いで
昭和文壇史を記述した。
 著者によれば「文壇」とは「戦争」や「革命」、「私」や「家族」といった重く、暗いテーマをかかえた文士たちの共同体であった。その中で作家たちは、ありのままの姿をさらし、その方法論を同じくする党派が相拮抗していた。いわば書く自由を確保するための互助組織、一種のギルドであった。
「白樺派」、「プロレタリア文学派」、「戦後派」、「第三の新人」等々。そこに所属する文士は仲間のすべてを知っていた。作品、家族構成、経済状態、精神状況、愛人など。例えば戦後派は仲間の作品はすべて読む。然し他派の作品は親しい作家しか読まない。その場合の評価の基準は平野謙の毎日新聞文藝時評であったというように。また舟橋聖一は文壇内での自分の位置を「前頭何枚目くらい」と家庭内で常に話題にしていた。「家庭の中にも文壇の話は充ち満ちていた。そういう
家族までまきこんだ環境で文壇人は鍛えられていた」(本書P41)
 その文壇のかげり、いわば「終わりの始まり」を著者は1970年代半ばに見る。最後の文士といわれた高見順が死んだのはそれより早い1965年であった。文壇とは文士が肩寄せ合って生活する世界であった。かつて「文藝」は埴谷雄高・吉本隆明・三島由紀夫・高橋和己の4本柱を持ち、文芸誌として異例の3万部の部数を維持していた。然し70年の三島、71年の高橋の死によって発行部数は激減した。60年代高度成長前期、出版界は大量の日本文学全集や個人全集を刊行したが、70年代になると潮が引くように、それらは姿を消した。川端康成、小林秀雄なきあとの文壇を指導したのは井上靖と山本健吉であったが、井上の死後、文壇を牽引するものは誰もいなくなった。「文壇とは異なる経路から作家が生まれ、読者もまたそうした経路から作品をしる」(大村彦次郎)時代になった。その象徴が村上春樹である。本シリーズ第69章「村上春樹の冒険」で幕を閉じる。「いま、彼自身が一つの普遍となっている。異端が正統なき時代の正統になったのだ。春樹が正統になるようなッ時代に文壇が過去と同じ役割を担う必要はなくなったと言ってよい」(本書P341)。かくして「文士」や「文壇」は死語となった。

2013年5月19日日曜日

ビルマの氷の山 カカボラジ

  「幻の山、カカボラジ」  尾崎 隆  山と渓谷社  1997年

 ビルマの最北端の山カカボラジ(5881米)は、ながらく未踏でチベット国境に聳え立っている。
亜熱帯であるにかかわらず山頂は万年雪におおわれ白く輝いている。それ故全山水晶で出来ていると地元では言い伝えられている。ビルマのみならず東南アジアの最高峰である。この山に初
めて登頂したのが本書の著者尾崎隆とミャンマー国籍のナンマー・ジャンセン(ラワン名、チベット名はアンセー)である。
 ヤンゴンからジエット機で1時間20分でカチン州の州都ミッチーナに着く。ミッチーナから更に北へ250キロ、民間航空機が離発着できる最北の町プータオ(フォート・ヘルツ)がある。現在では
エアー・パガンのATR機がマンダレーからミッチーナ経由で週2便就航している。プータオはカカボラジへのゲートウェイの町である。キングトン・ウォード以降、1960年の川村俊蔵をのぞけば、尾崎がこの町を数十年ぶりに訪れた外国人であった。
 プータオから北東に2週間以上のキャラバンで人の住むビルマ最北の村タフダンに着く。このルートは「ビルマ 氷の山」の著者キングトン・ウォードが詳しい。
イラワジ川の東の支流ヌマイ・カの最上流を目指してジャングルを進む。北緯27度だが熱帯の密林とかわらない。蚊や虻そして蛭に悩まされる。パンマンディとサンク川合流点の中間地点を越えると植生が変わる。亜熱帯から温帯性松林になる。サンク谷を西にたどればチベットのザユールに至る峠ディプ・ラーがある。然し1937年ウォードが踏査した頃には、この道はほとんど廃れていた。その北のガムラン谷を遡ったが、源頭はせりあがり、谷を取り囲む岩壁の高さは1000米もある。その上部には尖塔が聳え立っている。かくして南面よりのウォードのカカラボジへのアプローチは失敗した。
 カカラボジ主峰はビルマとチベット自治区の国境線上に地図では記載されている。地形的にはチベット側からの登頂が容易かもしれない。然し1957年の中国・ビルマ間の国境に関する協定ではビルマ側にあることが合意されている。チベlット側から登頂することはミャンマー政府は許可しない。尾崎隊(日・仏・ミャンマー合同登山隊)は1995年の偵察行を踏まえて、二度にわたって北東面からの登頂に挑戦する。
タフダンから4日行程でラサンダンの岩小屋(無人)に至る。標高は2500米。アドウィン川沿いの道をカカボラジの方へ左折するあたりから高山植物帯に入る(3000米)。3500米の森林限界を越え、モレーン上の3900米にベースキャンプを設営する。第一キャンプはその上の4300米。恐竜の背のような岩稜を避け雪の沢を登り、その先250米の岩壁を登る。危険な氷河を越え、その岩壁の上5100米地点に第二キャンプを設置する。第三キャンプは白い雪のピークの手前5400米。「ここから先、カカボラジの頂上までは未知の世界だ。極度に困難なピッチがここから始まる。岩壁はそそり立ち、まるでヨーロッパ・アルプスのドリューのように私たちを威圧する。」(本書P221)そして「登って、登って、登りまくった。突然、目の前から障害物がいっさい消え、絶頂に放り投げられたような気分になった。」(同P222)1996年9月15日15時12分ついに氷の山カカボラジ初登頂に成功したのである。すぐ近くにはチベット高原が、そしてはるか彼方にはインドのアルナチャール・ヒマラヤの山が見える。

2013年5月4日土曜日

「シルクロード史観」論争 ~古書の宝庫を訪ねてみれば4

  「中央アジアの歴史」  間野英二  講談社現代新書 1977年

 かつて「シルクロード史観」というのがあった。中央アジアはもっぱらシルクロードが通過する地域としてのみ意義があるという観念で、中央アジア史を東西交通史・東西交渉史としてとらえた。日本人の仏教伝来や正倉院文物に対する憧憬も、おりからのマスコミのシルクロードブームとあいまって「シルクロード史観」の定説としての流行の後押しをした。
 この「シルクロード史観」に疑問を投げかけたのが本書である。著者は中央アジア史は三つの立場から取り扱われたという。①は東西交渉史・東西交通史の立場で、この交渉路を経由して文物・思想がいかに伝番したかに関心が払われる。②は中国の西域経営史、中国人の西方発展史である。③はトルコ民族史の立場で、トルキスタン成立以降現行の中央アジア諸民族がいかに形成されたかを解明する。日本の学会の伝統的な立場は①と②で、とくに①は所謂「シルクロード史観」である。著者間野は③である。
 著者によれば16世紀に中央アジア出身の人間によって書かれた2冊の書物(「バーブル・ナーマ」「ターリヒ・ラシーディー」)の精読から、16世紀前半中央アジアでおきた重要事件の記述はあるが、東西交通や中国についての記述は皆無であるという。それらは中央アジアの住民にとって重要事ではなかった。むしろ北部草原地帯のトルコ系遊牧民が最大の関心事であった。
「このように考えると、中央アジアの住民の手になる記録によってではなく、主に中国人とかヨーロッパ人の手になる記録に基づいて、中央アジアをもっぱら東西交通の一大中継地とか、中国人の西方発展の対象地としてとらえることに私はためらいをおぼえざるを得なくなってくる」(同書10頁)
 本書の刊行を契機に、「シルクロード史観」から脱却しようという動きがおこり、所謂「シルクロード論争」が勃発した。「歴史公論」(1978年12月号)では、「画期的である」(堀川徹)という評価と、
「シルクロード研究を誤解している」(長澤和俊)という批判が掲載された。その後護雅夫は「ある時代の人々にとって日常茶飯であった事柄が必ず記録されるわけでなく、現地の資料に書かれてないから東西交通が重要でなかったとは言えない」とし、南北関係と東西関係をともに重視する視点を示した。「論争」は間野が護の批判を黙殺したため、継続せず「すれ違い」で終わった。然し結果として中央アジア史は現地人が書いた現地の資料によって解明されねばならないという間野の主張はその後学会の常識となった。
 「論争」はすでに過去のものとなったが、現在からふりかえって思いつくことを二点あげてみよう。
第一は「シルクロード」の範囲を余り拡大して考えないことである。松田寿夫によればそれは「中国の黄河流域から河西通廊を通り、タクラマカン砂漠の南北いずれかのへりをたどって、パミールを西に超える道」である。にもかかわらず「パミールの西側から地中海沿岸まで跡付けようとするのは、世俗的関心をあおりたてる」ということになる。「西南シルクロード」や「海のシルクロード」という使用方は、まさに売らんがためのサギまがいのキヤッチコピーである。第二は研究者の立場の困難さである。間野のいう②の立場は、いうまでもなく現行中国の「ウイグル・チベット問題」を正当化する論理に用意に導かれてゆく。また③の立場はつきつめればかつての「東トルキスタン共和国」のようにウイグル民族の分離独立を擁護する立場になりかねない。
 本書は1977年講談社より「新書東洋史」の1分冊として刊行された。その序章「中央アジアをどう見るか」は当時の学会に衝撃を与えた記念碑的論考である。然し肝心の本編歴史叙述部分は必ずしも成功してるとはいえない。そのため話題性にもかかわらず「洛陽の紙値を高める」ということにはならなかった。たまに古書店の店頭で端本として雑本に混じって見かけるが、その分「貴重な一冊」かもしれない。

2013年4月23日火曜日

  「ポル・ポト~ある悪夢の歴史~」 フィリップ・ショート 白水社 2008年 

 カンボジアの第二の都市シェムリアップはバンコクから空路で一時間。バンコクエアウェイズのプロペラ機が毎日就航している。世界遺産のアンコールワット観光のゲートウェイでもある。つきぬけるような青空に高い砂糖椰子がそびえ、さわやかな風が吹き抜ける。だが午後はとてつもなく暑い。そして夜ともなればオールドマーケットの土産物屋がにぎわい、世界中からの観光客で街は一層の輝きを増す。然しそれに比して、地元の住民の表情は暗い。「クメールの微笑」に隠された暗さがある。ポル・ポト政権による国民の二割にあたる150万人殺害とその後の内戦が黒い影を落としているのだろうか。著者は現指導部を含めて国民の多数が殺害の加害者だったからだという。フン・センをはじめ現政権の指導者は元ポル・ポト派の中堅幹部だ。虐殺をくぐりぬけ生き延びた国民の大半は所謂「旧住民」かつての支配層であり、殺害の直接の当事者である。然し状況が変われば被害者と加害者の立場は逆転していたとも指摘している。
 本書の特色はすべて一次資料(多数の当事者へのインタビュー、中国・カンボジア・ベトナム・
フランスなどの各種資料)に依拠してクメール・ルージュの活動を詳細に記録していることである。
謎にみちたカンボジア共産党の誕生の秘密とその歴史が解明されている。内容は精確無比であり、今後これ以上のものは出ないと思われる。本書は700頁に及ぶ大冊であるが、その一端を
紹介しよう。
まずカンボジア共産党の創立はベトナムが主張する1951年(クメール人民革命党の創立)ではなく1960年であること。イエン・サリやサロト・サル(ポル・ポト)らパリ在住のカンボジア人留学生組織「セルクル・マルクシステ」がその母体である。彼等はフランスやインドシナの共産党に属したことがあるが、公的にクメール人民革命党に所属したことはない。1950年代から自分たちの運動を
「アンカ・デバット」(革命組織)と呼んでいた。
1960年9月30日~10月1日に「カンプチア労働党」として創立、トウー・サムトが書記に就任。
1962年7月トウー・サムト失踪後殺害され、サロト・サルが臨時指導部に。
1963年3月23日第2回党大会でサル書記に就任、その直後弾圧を逃れゲリラ地区に潜行。
1966年10月党名を「カンプチア共産党」に。ただし党員・ベトナムにはふせることにする。
1968年1月18日武装蜂起開始(ベイ・ダムラン基地襲撃)。
1971年第3回党大会で「カンプチア共産党」名を正式に承認する。
1975年4月17日クメール・ルージュプノンペン入城、政権掌握。
1977年9月27日ポル・ポトはアンカの実態がカンプチア共産党であることを公表。
1978年11月1日~2日カンプチア共産党第5回大会。ポル・ポト(1位)、ヌオン・チア(2位)、
モク(3位)、イエン・サリ(4位)、ボン・ベト(5位)、ソン・セン(6位)、マン・ソファル(7位)の常務委員を選出。
1979年ベトナム軍プノンペン制圧、ポト派はふたたびゲリラに。
1981年12月カンプチア共産党を解散。国際共産主義の歴史において自らの存在を絶った最初にして唯一の党となった。
  本書に対する批判もある。著者はポト政権による150万人に及ぶ殺害はジェノサイド(大虐殺)ですらなく、その原因はカンボジアの国民性に起因するという。これに本書の訳者山形裕生は、「それではクメール・ルージュによる大量の死亡者たちは、とことん救われない存在だ」と批判する。そしてその原因は「ナショナリズムの極地である民族浄化運動のようなものに、実用的技能を一切持たない無能な人々による社会主義イデオロギーが結びついたしろもの」だとする。
 然し被害者と加害者が混在し、容易にその立場が変わるカンボジア社会の現状。多くの国民はポル・ポトたちの被害者であると同時に、彼等の手先として加害者側の存在でもあった。現在「カンボジア特別法廷」はヌアン・チアら旧ポル・ポト政権の指導者4人を大量虐殺や人道に対する罪で起訴している。(2010年9月)然し被告の高齢による認知症や持病の故に判決の出る見込みは立っていない。(2013年3月14日イエン・サリ死去)

2013年4月3日水曜日

みたび大谷探検隊について

  「シルクロードの発掘秘話」 ピーター・ホップカーク 時事通信社 1981年

 大谷探検隊が英国政府によって軍事目的を持ったスパイであるとして厳しくその行為を監視され、日本外務省も厳重な抗議を受けていたことはすでに述べた。(「再び大谷探検隊について」参照)それではその真相はどうであったのか。本書の著者ホップカークはスパイ説の否定に傾きながらも、完全に否定しきれないという。その根拠は東京国立博物館の杉山次郎東洋課考古室長の「大谷探検隊は考古学以外の任務をになっていたかもしれない」という示唆である。そしてなによりも①大谷光瑞はいかなる目的で中央アジア探検を行ったのか②探検の詳細はどうであったのか③収集された遺物の種類、今それがどこに保管されているのか、すべて明らかでないからだと指摘している。
 ①については近年研究が進んでいる。②に関しては「新西域記」などがあるのみで、調査記録としては不十分である。③について紹介しよう。
大谷探検隊が収集した膨大な遺物所謂大谷コレクションは数奇な運命をたどり散逸しはじめた。
その原因は光瑞が疑獄事件に巻き込まれ教団門主の地位を去り、その私邸二楽荘をコレクションの一部ともども政商久原房之助に売却し旅順に去ったからである。久原は同郷のよしみでコレクションを寺内正毅朝鮮総督に贈った。現在ソウル国立博物館に収められているコレクションである。
光瑞が旅順に移したものは旅順博物館にある。そのほか国内にあるもの、韓国、中国に所在するものはそれぞれ三分の一である。
 上山大峻龍谷大学学長によれば大谷コレクションの現状は以下のように分類される。
大谷コレクションⅠ(日本、龍谷大学図書館蔵) 仏典類など中心に約9000点。有名な李柏文書も含まれる。図録として「龍谷大学創立350周年記念・大谷探検隊将来西域資料選」(龍谷大学
1989年)がある。
大谷コレクションⅡ(日本、東京国立博物館蔵) 美術資料が中心。図録としては「東京国立博物館図版目録・大谷探検隊将来篇1971年」がある。
大谷コレクションⅢ(日本、京都博物館蔵) 同館の「松本コレクション」の中に入っているもので、現物が散逸したと考えられていた「西域考古図譜」の原資料に相当するものの一部。
大谷コレクションⅣ(日本、その他個人・機関の手にあるもの) 
大谷コレクションⅤ(中国、旅順博物館蔵) 16000件、260000点。漢文経典写本断片など中心にミイラもある。全コレクション中の白眉。「旅順博物館図録」(座右宝刊行会 1943年 1953年再版)がある。
大谷コレクションⅥ(中国、北京図書館) 旅順博物館よりいかんした巻子経典621点。目録として「中国所蔵『大谷収集品』概況~特別以敦煌写経為中心~ 」(西域研究会 1991年)がある。
大谷コレクションⅦ(韓国、ソウル国立中央博物館蔵) 美術品が中心。「新西域記」付録2の「朝鮮総督府博物館中央亜細亜発掘目録」に載せる品目に相当。図録として「中央アジア美術」(国立中央博物館 1986年)がある。
 旅順博物館のコレクションは質量ともに大谷博物館の白眉である。旅順は軍港ということもあり外国人の立ち入りは近年まで厳重に禁止されていた。然し最近解放が進みパックツアーなどでも容易に見学することができる。
 

2013年3月17日日曜日

松本清張の秘密

  「白鳥事件 偽りの冤罪」 渡部富哉 同時代社 2013年

 著者は「白鳥事件」が「冤罪」ではなく、日共札幌地区委員会と翼下の軍事組織「中核自衛隊」の犯行であることを膨大な資料と「白鳥グループ」など関係者の証言から立証している。そして所謂軍事組織「中核自衛隊」存在の否定は、「公判闘争その他いろいろの事情からだ」という「日本の黒い霧」の記述、をはからずも松本清張は本音を書いていると指摘している。本書にはこのような看過できない興味深い示唆が随所にある。以下二、三紹介しよう。
 まず松本清張「日本の黒い霧」(以下「黒い霧」)について。「白鳥事件」の初出原稿「北の疑惑
ー白鳥事件」が文藝春秋誌に掲載されたのは1960年4月号であり、単行本刊行は1973年である。清張はこの間に日本共産党に入党(秘密党員)したとしている。その手土産として、当時国民の間にあった「白鳥事件は共産党の犯行ではなかったのか」というような共産党に対する大きな疑惑を晴らすため「黒い霧」を一部書き直したとしている。その真相として「佐藤が参加した松川事件の極秘の共産党の会議に松本清張が参加した」という松川事件の下被告佐藤一の証言を紹介している。(本書P219~220)また清張は入党したが、六全協後の党の混乱には関係がないし、まったく知らないから党のいうことを鵜呑みにしたともしている。
 日共の元軍事関係の責任者椎野悦郎の聞き取り調査も興味深い。中核派の本多書記長はかなり以前から椎野と極秘の連絡があった。著者は椎野と椎野のマンションの部屋で本多書記長、北小路敏ともう一人の政治局員と会っている。会談の最後に椎野が「内ゲバは止めなければ駄目だよ」と念を押し、本多と北小路、もう一人の政治局員が顔を見合わせて、笑顔で「わかりました」といったという。本多が革マル派との内ゲバで虐殺される一週間前のことである。「革マルに本多のアジトが探りだせるだろうか、内ゲバを止めさせることに反対する者の仕業だろう」と椎野は悔しがっていた。そしてなぜ内ゲバがこうも激しく闘われるのかという西山隆二(ぬやまたかし)の問いに「それは六全協にあるんだ。党が軍事問題の総括をきちんとやらなかったからだ」と椎野は答えている。(本書P277~278)
 最後に北京亡命の「白鳥グループ」と交流の深かった吉留昭弘の新左翼運動に対するコメント。
「日共の右翼日和見主義を批判し、反スターリン主義を掲げたが、その批判は底が浅く多く極『左』
偏向に陥った。内ゲバは致命的であったが、その思想背景にはスターリン主義の『前衛党』論がありました。その反スターリン主義はあまりにも浅薄に過ぎました。」(本書p336)
まだまだあるが後は本書を読んでのお楽しみである。
 
 

2013年3月3日日曜日

楼蘭王国~古書の宝庫を訪ねてみれば~その3

  「楼蘭王国」  長澤和俊  徳間文庫  1988年


 楼蘭は内陸アジアの奥深くタリーム盆地の東端にかつて存在したオアシス都市国家である。シルクロードの要衝として無類の繁栄を誇ったが、いつしか流砂に埋もれ忘れられた。そして1900年スウェン・ヘディンによって深い流砂の中から発見された。所謂LA遺跡がそれである。井上靖の小説「楼蘭」(昭和33年)の発表や、ヘルマンの「楼蘭 流砂に埋もれた王都」の邦訳、本書のオリジナル(以下旧版)が角川新書の一冊として刊行されたことなどにより、わが国でも広く知られるようになった。然し楼蘭王都の位置については異説も多い。すなわち北都説(ロプノール北岸、LA遺跡)、南都説(ロプノール南岸ミーラン)、移動説(前77年前漢の保護下に鄯善王国が成立した時にLAからミーランに移動)の三説がある。本書の著者長澤の立場は北都説である。
 本書の構成は、楼蘭探検小史(1章)、楼蘭と密接な関係にあるロプノール論争史(2章)、楼蘭の歴史(3,4,6,7章)と社会(5章)、とその史的意義(8章)からなっている。また「その後の研究の進展により、考え方の変わった部分はできるだけ書き改めた」として旧版に対して大幅に加筆・訂正されている。大きく変更しているのは以下の四点である。第一はロプノールの正体についての解明。旧版ではヘディンのロプノール千六百年周期移動説を批判して、現ロプノール(ヘディン再訪時)とカラ・コッシュは二つに分かれた旧ロプノールの残骸と推定していた。本書では完全に干上がったロプノールの原因を急激な人口増加による水量の激減としている(中国社会科学院の分析)。日中関係正常化以降の中国学会との情報交換の成果といえる。第二は2世紀後半におけるクシャン朝移民団による楼蘭征服説の提起である。現地出土のカローシュティー文書の研究から全77年に前漢が設立した鄯善王国(鄯善第一王朝)はクシャン朝文化をもつ移民団に滅ぼされ鄯善第二王朝が成立したとする。すなわちプラークリット語による公文書をカローシュティー文字で記録し、法制・慣行その他にインド的要素をもつ、あたかも敗戦後の米国占領下の日本のような状態であったとする(文書から見た鄯善王国の年代)。第三は伊循城の位置の解明である。本書ではロプノール北岸の土垠遺跡を伊循城と推定する。敦煌から楼蘭(LA遺跡)を経由してコルラ方面にゆくシルクロードの要衝である。ここで中国の考古学者黄文弼は「伊循都尉」の木簡を発見している。第四は従来不明の部分が多いとされていた大谷コレクションの散逸状況の説明である。本書のユニークな部分は勿論二と三である。著者によればカローシュティー文書の解読によらないヘルマンの著書や旧版は時代遅れということになる。
 著者は楼蘭王国史研究の第一人者であり(「楼蘭王国史の研究」 雄山閣出版 1996年)、本書は一般向けに書かれた最も体系的な楼蘭王国史である。その時点での最新の研究成果が盛り込まれ、謎の満ちた楼蘭王国史が鮮やかに素描されている。然し楼蘭王国の謎がすべて解明されたかといえば、そうではない。例えば中国の考古学者には王国維以来鄯善国成立時に楼蘭王都はLAから他に移動したという説が根強い。またLA出土の文書が後漢以前にさかのぼれないことは北都説の弱点である。LAは西晋時代の西域長吏の軍事拠点でありえても、漢代の楼蘭王都ではありえないと。著者はその後LA遺跡を踏査している。外国人でニヤとLAの両遺跡を踏査したのは著者だけである。そのような体験を踏まえて更なる本書の改訂版の刊行が期待される。

 

  

2013年2月15日金曜日

東京発パリ行きの鉄道切符があった。

 「下駄であるいた巴里」  林芙美子 岩波文庫 2003年

 かつて東京発パリ行きという鉄道切符が日本国内で売り出されていた。シベリア鉄道が全通したのが明治36年(1903年)。アジアとヨーロッパが一本のレールで結ばれた。そして明治43年(1910年)日本国内の主要都市から各国の都市への鉄道切符が売り出された。その3年後パリなどの西欧の主要都市まで一枚の切符で行けるようになった。この欧亜連絡ルートは第一次世界大戦やロシア革命後の内戦で一時不通となった。昭和2年(1927年)再開し、第二次世界大戦がはじまる昭和16年(1941年)まで続いた。とくに1930年代は日本人によるシベリア鉄道旅行の黄金期であった。「西伯利鉄道案内」(鉄道員運輸局)によれば以下の3ルートがあった。①ウラジオ・ハバロフスク経由②釜山・奉天・ハルピン経由③大連・奉天・ハルピン経由 満州里でシベリア鉄道に入りモスクワ経由でヨーロッパに向かう。いずれのルートでも料金は同一だが、昭和4年ベルリンまでの運賃は440円(1等、寝台、急行料金込み)。現在の価格では約100万円である。鉄道博物館に所蔵されている現物(東京からベルリンまで15日間)は実際には冊子になっており、経由する国や鉄道事業者ごとに英語と現地語で書かれた切符が16枚32頁に綴られている。
 昭和6年(1931年)11月この②のルートを東京からパリへ旅立ったひとりの日本人女性がいた。前年「放浪記」が空前のベストセラーになり多額の印税を手にした林芙美子である。本書によれば10日下関より関釜連絡船で釜山へ。京城経由安東着。11日安東発奉天着。12日奉天発長春着。13日ハルピン着。14日ハイラル9時着、満州里13時頃着、シベリア鉄道に乗り換える。20日モスコウ21時着。23日パリ着とある。東京からパリまでの旅行費用は鉄道料金313円29銭
(3等車)、その他食費・雑費などもあわせて総額379円95銭である。これは当時の物価と勘案すればかなり高額である。然し芙美子が乗ったのは3等車である。「無産者の姿というものは、どんなに人種が変わっても、着た切り雀で、朝鮮から巴里まで、みな同じ風体だと思いました」と書いている。
 芙美子のパリ滞在については多くの女性評論家・作家が書いている。今川英子の「巴里の恋」などがその代表だが、女性はよほど林芙美子のパリに興味があるのだろう。その中で角田光代の指摘は鋭い。「未知の世界に足を踏み入れ、未知のものに手をのばし、手をひろげる」旅の醍醐味に芙美子はとらえられた。一度こういう旅をすると、死ぬまで旅に取り憑かれる。本書だけでなくその後彼女が書き続ける小説のガソリンタンクになったのではないかという。満州事変勃発直後の戦乱の満州からシベリア鉄道でパリに旅立った林芙美子は元祖バック・パッカーである。
 現在ならシベリア鉄道でウラジオストックーモスクワ間は「ロシア号」が隔日(偶数日)に6泊7日で運行している。ちなみに料金は3万3429ルーブル(1等、1ルーブル=2.5円 2012年10月現在)である。
 

2013年2月3日日曜日

中国を識る 古書の宝庫を訪ねてみれば~その2

 「中国 民族と土地と歴史」 ラティモア 岩波新書  1950年

 オーエン・ラティモアは1900年ワシントン生まれの米国人で、前半生の大半を中国で過ごした。内外蒙古・満州・新疆などの中国辺境地帯を自分の足で踏査した。北京のハーバート燕京大学やジョンス・ホプキンス大学で研究活動のかたわら、蒋介石の政治顧問などもつとめ、米国の対中国政策の立案にも関与した。その後マッカーシズムの「赤狩り」旋風に巻き込まれ英国に渡り、リーズ大学で教鞭をとった。1989年没。邦訳されている「農業支那と遊牧民族」「西域への砂漠の道」の著者として名高い。
 本書は中国通史としては非常に簡潔のものである。登場する人名は始皇帝・王安石・岳飛・ジンギスカン・マルコポーロ・ヌルハチとたった6人というユニークさである。実地調査の成果が随所に取り入れられ、歴史叙述の新しい型を打ち出している。その特色は「現存最古の文明」をもつ中国の形成過程を世界史的観点から簡潔に絞り切ったことと民国革命以降の近代史に力点をおいて叙述したことである。すなわち退屈な王朝興亡を停滞の時代とみることなく、民族の不断の成長進歩の過程として描いた。例えば漢王朝の崩壊と魏晋南北朝時代への過渡期は、単なる悪政と善政の相互交代ではなく、中国文化の成長と中国民族の膨張との内部における一つの過程に過ぎないというように。
 とくに重要な鍵として地主と官僚と農民の関係を見抜き、これを現代史の理解にまで到達させている。すなわち地代を取り上げる地主と租税を徴収する官吏がしばしば同一人物であることの矛盾に着目している。現在でも改革派官僚王安石が着目されるのは、「官吏と地主を一身に兼ねる人々の立場の二重性の問題に関する不安の意識」故だと説明される。また英雄岳飛の悲劇は、一人の偉大な将軍がその軍事的名声によって民政を支配するのを見るのは忍びないが、万事なりゆきにまかせることには平気という官僚の態度故だと断罪する。「庶民的な文化が経済的衰頽と社会的不安とにまざりあったこの時代の空気は中国最大の小説の一つ『水滸伝』の中に非常によく
書き遺されている。その中には北方の蛮族との戦乱はただ遠いこだまのようにしか描かれていないにもかかわらず、宋代の中国がその遠方の振動によって内部からゆりくずされていった様子が写し出されている。」(本書P94)
 本書が岩波新書の一冊として翻訳刊行されたのは1950年、朝鮮戦争のさなかであった。オリジナルは1947年出版の「China:A Short History」である。その後中国現代史は中華人民共和国の樹立、文化大革命、改革開放政策の導入とドラスチックに変遷したが本書の価値はいささかも減ずることはない。中国を知ろうとするものの基本的図書である。1965年に改版し、その後も版
を重ねたが品切れになって久しい。

2013年1月14日月曜日

   「空白の五マイル」  角幡唯介 集英社文庫  2012年

 中国国家測量製図局によれば、世界最大の峡谷はグランド・キャニオンではなくチベットのヤル・ツァンポ大峡谷だという。峡谷は全長504.8キロ、平均深度2268メートル、最も深いところは69
00メートル。長さで134.6キロ、最大深度で2809メートル、グランド・キャニオンを上回る。
 ツァンポ川はヒマラヤの高峰ナムチャバルワ(7782メートル)とギャラベリ(7294メートル)の間で大屈曲して忽然と消える。下流でどの川に流れ込むのか、ヨーロッパではながらく謎であった。ようやく1765年英領インドの初代測量局長レネルはアッサムに分け入り、プラマプトラを探検し、原住民の情報・その他の資料からツァンポ=プラマプトラだと推論した。1880年パンディトのキントップが苦難の果てにツァンポの大屈曲部に達した。川は150フィートの「シンジ・チョギャル」という断崖に滝となって落ちている。いつも虹が見られた。この大滝の情報は以降四半世紀にわたり、探検家に幻想を抱かせることになる。1913年ベイリーは、キントップの大滝を探索するが、幅50メートルのゴルジュの泡立った白い水が、一連の早瀬となって落下するだけであった。1924年キングトン・ウォードもツァンポの大屈曲部を目指すが、大岩壁に阻まれ、大滝は視認できない。
 著者は偶然手にした本(「東ヒマラヤ探検史」)でツァンポ川探検史とキングトン・ウォード以降、その空白部分はほとんど解明されていないことを知る。21世紀に残された最後の地理的空白である。2002年の第一回探検では「空白の五マイル」はほぼ踏査した。未踏査部分はわずか2キロにすぎない。そして2009年、無許可でチベットに入境し、単独でツァンポ峡谷地帯に再び潜入する。
キングトン・ウォードの伝説のルートをたどりながら。然し著者の行く手には1000メートルにおよぶ巨大な岩壁がたちはだかる。1950年のアッサム大地震(M8.5)がルートの地形を根本的に崩壊させていたのだ。
 単独行で衛星携帯電話など外部と通信できる手段を持たず、無許可(入境許可証をとらず)でする著者の旅はスリリングである。あたかも昔の探検家の冒険を読むようである。本書は「第8回開高健ノンフィクション賞」、「第42回大宅壮一ノンフィクション賞」、「第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞」をトリプル受賞している。まことにむべなるかなである。

 

2013年1月3日木曜日

シルクロード旅 古書の宝庫を訪ねてみれば~その1

 「シルクロード」 深田久弥 角川新書 1962年

 わが国で「シルクロード」が人々に広く知られるようになったのは昭和37年の本書の刊行が契機
である。東京オリンピックの開催を控え聖火リレーのコースがシルクロードに設定されたことも人気
を後押しした。こちらはパミール以西の広義のシルクロードだが、本書の対象は所謂狭義のシルクロードである。すなわち中国の河西回廊から天山山脈の北側、あるいはタリーム盆地の南北いずれかの縁を辿ってカシュガールに至るルートである。当時は日中国交正常化以前で、新疆地方はもとより中国本土に入ることすら容易ではなかった時代である。したがって著者は、本書のシルクロードの街々をいずれも訪れることなく書き上げた。例外はゴビ砂漠横断の起点張家口を戦前にただ一泊しただけである。
 それでは現地を訪れたことのない著者はどのようにして本書を著述したのだろうか。「盲人蛇に怖じず、が私の流儀」という著者は一介の旅行者として、これまで書き残された波瀾に富んだ旅行記を読み、「昔の探検家たちが困難を冒して辿った道を地図の上に探り、彼らの持ち来たした写真や絵を眺めて、未知の世界に空想を走らせ」ながら構想を練ったのである。幸いそのような書籍は「九山山房」には山ほどある。例えば4章「甘新公路」では河西回廊の安西からハミ(伊吾)への道はドイツの砲兵中尉ザルツマンの「Im Sattel durch ZentraLasien」の記録に頼って描かれる。また5章「ゴビ砂漠」ではヤングハズバンドの「The Heart of Continent」、6章「砂漠の道」ではオーゥエン・ラティモアの「西域への砂漠の道」の記述に沿ってというように。
 20章「ハミ」では、中華人民共和国成立後はじめて新疆に入ったイギリス人ジャーナリストの
ダヴィドスンに竹のカーテンに覆われたハミの街を次のように語らせる。「しかしダヴィドスンが、夜の灯りのついた埃っぽい町をさまよい、石油ランプの燃えている小さな店を覗き込むと、古いハミの面影が妖しく浮かんでくるようであった。昔の旅行家がどんな困難をおかしても次々とハミにやってきたのは、この異国の荒々しいがどこか空想的な、不思議な魅力だったのではないだろうか」
現在では本書に描かれた街には容易にゆくことが出来る。新疆東端の街ハミも西安から鉄道で22時間半である。ウルムチからは飛行機が週14便も就航している。
 多くの人々は本書でシルクロード関係の旅行記を知ったのではないだろうか。その後著者はヘディン中央アジア探検紀行全集・西域探検紀行全集の編集・解説を手掛け、世のシルクロードファンの要望に応えている。然し著者はついに本書の街を訪れることはかなわなかった。昭和41年シルクロード踏査隊隊長として西トルキスタン各地を踏査するが、日中国交回復以前の昭和46年死去。なを本書の異本には同名の「シルクロード」が昭和47年に角川選書の一冊として刊行されている。1部は本書がそのまま収められ、2部にはシルクロード踏査隊の記録が載せられている。また昭和49年に刊行された「深田久弥 山の文学全集⑩」にも本書と西トルキスタン踏査記録「シルクロードの旅」、チベットへの道をテーマにした「続シルクロード ラサへの道」が収められている。本書を含め、いずれも現在では入手しがたい。