2013年1月3日木曜日

シルクロード旅 古書の宝庫を訪ねてみれば~その1

 「シルクロード」 深田久弥 角川新書 1962年

 わが国で「シルクロード」が人々に広く知られるようになったのは昭和37年の本書の刊行が契機
である。東京オリンピックの開催を控え聖火リレーのコースがシルクロードに設定されたことも人気
を後押しした。こちらはパミール以西の広義のシルクロードだが、本書の対象は所謂狭義のシルクロードである。すなわち中国の河西回廊から天山山脈の北側、あるいはタリーム盆地の南北いずれかの縁を辿ってカシュガールに至るルートである。当時は日中国交正常化以前で、新疆地方はもとより中国本土に入ることすら容易ではなかった時代である。したがって著者は、本書のシルクロードの街々をいずれも訪れることなく書き上げた。例外はゴビ砂漠横断の起点張家口を戦前にただ一泊しただけである。
 それでは現地を訪れたことのない著者はどのようにして本書を著述したのだろうか。「盲人蛇に怖じず、が私の流儀」という著者は一介の旅行者として、これまで書き残された波瀾に富んだ旅行記を読み、「昔の探検家たちが困難を冒して辿った道を地図の上に探り、彼らの持ち来たした写真や絵を眺めて、未知の世界に空想を走らせ」ながら構想を練ったのである。幸いそのような書籍は「九山山房」には山ほどある。例えば4章「甘新公路」では河西回廊の安西からハミ(伊吾)への道はドイツの砲兵中尉ザルツマンの「Im Sattel durch ZentraLasien」の記録に頼って描かれる。また5章「ゴビ砂漠」ではヤングハズバンドの「The Heart of Continent」、6章「砂漠の道」ではオーゥエン・ラティモアの「西域への砂漠の道」の記述に沿ってというように。
 20章「ハミ」では、中華人民共和国成立後はじめて新疆に入ったイギリス人ジャーナリストの
ダヴィドスンに竹のカーテンに覆われたハミの街を次のように語らせる。「しかしダヴィドスンが、夜の灯りのついた埃っぽい町をさまよい、石油ランプの燃えている小さな店を覗き込むと、古いハミの面影が妖しく浮かんでくるようであった。昔の旅行家がどんな困難をおかしても次々とハミにやってきたのは、この異国の荒々しいがどこか空想的な、不思議な魅力だったのではないだろうか」
現在では本書に描かれた街には容易にゆくことが出来る。新疆東端の街ハミも西安から鉄道で22時間半である。ウルムチからは飛行機が週14便も就航している。
 多くの人々は本書でシルクロード関係の旅行記を知ったのではないだろうか。その後著者はヘディン中央アジア探検紀行全集・西域探検紀行全集の編集・解説を手掛け、世のシルクロードファンの要望に応えている。然し著者はついに本書の街を訪れることはかなわなかった。昭和41年シルクロード踏査隊隊長として西トルキスタン各地を踏査するが、日中国交回復以前の昭和46年死去。なを本書の異本には同名の「シルクロード」が昭和47年に角川選書の一冊として刊行されている。1部は本書がそのまま収められ、2部にはシルクロード踏査隊の記録が載せられている。また昭和49年に刊行された「深田久弥 山の文学全集⑩」にも本書と西トルキスタン踏査記録「シルクロードの旅」、チベットへの道をテーマにした「続シルクロード ラサへの道」が収められている。本書を含め、いずれも現在では入手しがたい。


 

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