2014年2月23日日曜日

玄奘三蔵の旅~パミール越えの路①

  「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 前田耕作 岩波新書 2010年

 西安の大雁塔は唐の時代の長安の面影を今に伝える数少ない建造物である。玄奘がインド
より持ち帰った経典類を保管するため大慈恩寺の境内に建てられた。経典の翻訳は、玄奘によってこの境内で行われた。「西遊記」の三蔵法師のモデルになった玄奘の史実については前嶋信次「玄奘三蔵」(岩波新書1953年)という先駆的著作がある。然し前後18年に及ぶインド大旅行、
就中シルクロード旅程の部分は簡略である。そののような欲求不満を解消してくれるのが本書である。とくに玄奘の往路「シルクロードを行く」部分に焦点をあてており、不明の部分が多いバクトリア、バーミヤンなどの記述について詳説している。永年アフガニスタンの遺跡調査に従事した著者ならではの鋭い指摘が随所に見える。
 本書で注目すべきは点はまず玄奘のオクサス河(アムダリヤ)渡河点を明らかにしたことである。従来は当面の目的地たる小王舎城のあるバルフの対岸テルメズ付近で渡河したと考えられていた。然し玄奘は河の北岸を東行し、もう少し上流のワクシュ川とピヤンジ川が合流してオクサス河となるあたりで渡河したとしている。そこは活国(クンドゥズ)への至近の渡河点であった。さらに興味深いのはバーミヤンの「宿麦」の謎を解明したことである。玄奘は「宿麦」を「むぎ」と表記していたので、従来は「大麦」もしくは「早播きの小麦」と解釈されていた。だが著者は諸文献の検討から「まめ」と「むぎ」の意だとした。「まめ」を表す漢字「菽」(シュク)は古くから「宿」とほとんど同音であり、「菽麦」が「宿麦」になったとした。タリバンに破壊されたバーミヤンの大仏の破片から植物繊維が採集されたが、その中に混じっていた麦粒は「小麦」であることが判明したという。
 本書では玄奘の帰路については触れていないので、少し付け加える。玄奘は西北インドのカシミールからいったんガズニに出てヒンドゥクシュを越えてパンジール渓谷沿いにクンドゥズに至った。往路とは異なってオクサス河を渡らず道を東にとった。バダクシャンのファイザバードを経て、ワハン回廊を抜けてパミールをワフジル峠で越え中国領のカシュガルに到着した。これは難路で謎のルートとされているが、近年このルートの一端を踏査した日本人がいる。1966年「ヒンズー・クシュ登山隊」(第二次RCC中央アジア登山委員会)の安川茂雄である。
 安川の著書(「アフガニスタンの山旅」あかね書房1966年)によれば、玄奘はファイザバードから東進してワハンを目指すのではなく、バロックからコクチャ河上流のジュルム川沿いに南下してケロン(クラナ国)に至った。ケロンは近郊にマダン鉱山があり、古代よりラピスラズリ(瑠璃)の産地である。ケロンより北東にムンジャン峠を越えて現パキスタン領のチトラルに出た。そしてバロギル峠を越えて再び現アウガニスタン領のイシカムに着いた。イシカムは大唐西域記によれば「東西千六百里、南北の広きところころ四、五里、狭きところ即ち一里を越えず」という細長いラダマスティ国の首府で、ワハン回廊入口の都邑である。

2014年2月9日日曜日

「田中上奏文」は偽書か~昭和史の謎を追う②

「日中歴史認識~『田中上奏文』をめぐる相克1927-2010」 服部龍二 東京大学出版会
                                                    2010年

 「田中上奏文」(「田中メモリアル」もしくは「田中メモランダム」)とは何か。それは1927年(昭和2年)6月27日~7月7日に開催された東方会議の対支政策綱領をふまえて、同年11月25日に田中義一首相が昭和天皇に上奏したとされる怪文書である。中国語で2万6千字、邦訳で3万4千字。「満蒙に対する積極政策」から「病院、学校の独立経営と満蒙文化の充実」まで21項目に及んでいる。付属文書として同年7月25日付の一木徳郎内相宛の田中の書簡が添えられている。日本では当初から、内容上の事実の誤りや形式の不備などから偽造文書であると見做されていた。著者によれば、その真偽について世界的に以下の三説がある。
(本物説)真正とするもので中国語圏やロシアで広く流布している。然し形式や内容などから専門家の多くは否定している。
(実在説)どこかに原本があるはずだと主張するもの。中国の専門家に多い。
(偽造説)日本、アメリカの専門家の大半が支持している。
 「上奏文」はどのように流布したのだろうか。まず1929年夏頃中国各地で小冊子として流通しはじめた。第三回太平洋問題調査会(同年10月下旬~11月上旬)で上海YMCA初期の陳立延が「上奏文」を朗読する予定だったが日本外務省により阻止された。同年晩秋には中国東北部での配布が顕著になった。主導したのは新東北学会である。12月には「上奏文」関連記事が南京の「時事月報」に掲載された。1930年6月日本でも日華倶楽部編訳の「支那人の見た日本の満蒙政策」が紹介された。その後英訳版のほか、ドイツ語版、フランス語版も刊行された。ヨーロッパだけでなくアメリカでも広く流布した。またコミンテルンも1931年に「田中メモランダム」の全訳を「コミュニストインターナショナル」に紹介した。同誌は英、ロシア、ドイツ、フランス、中国語でも刊行されている。日本共産党もこの記事を1931年6月小冊子「赤旗パンフレット第25輯」として配布した。そして1932年11月21日ジュネーブの国際連盟において松岡洋右と顧維釣の間で論争が行われた。真贋については顧の旗色が悪かったが、宣伝としてみれば「田中メモリアル」を国際社会に印象づけることになった。
 それでは「上奏文」は誰が何のために作成したのだろうか。著者は新東北学会が作成した可能性が高いと推測する。その経緯については。「台湾の友人」蔡が「某政党幹事長」床波竹次郎宅で東方会議や大連会議に関連した浪人の意見書を筆写して、十数回にわたって奉天に送った。王
家槙は雑多な文書を整合性のある文書に書き改め、上奏文に合成した。然し王は偽造の仕上がりに自信がなく、政府関係だけに配布を限定していた。ところが心ならずも宣伝文書として利用されたというのである。その流布には遼寧省国民外交協会が積極的に関与している。国権回収を進める一環として「上奏文」で危機を煽り、国産品の使用によって「経済侵略」に抵抗するとともに、外交的勝利を当局に促そうとしたのである。
 たわいのない反日文書としてはじまり一時は国民政府ですら抑制しようとしたほどに欠陥の多い「上奏文」は満州事変後の中国にとって格好の宣伝材料となった。さらに「上奏文」は第三国のメディアを巻き込んで情報戦を担うほどに成長した。東京裁判では審理の対象となって共同謀議論を左右しかけた。「上奏文」は現在では「偽造説」がほぼ支配的である。然し近年藤井一行が世界中に流布する「上奏文」のテキストを収集し比較検討することにより、新たに「実在説」を主張している。(「『田中上奏文』は本当に偽書か?」労働運動研究 復刊14号 2006年)著者は本書において藤井論文に全く触れていないが、これは疑問である。それにしても「上奏文」の生命力には恐るべきものがある。