2016年4月28日木曜日

文庫版「シルクロードと唐帝国」を読む

   文庫版「シルクロードと唐帝国」 森安孝夫 講談社学術文庫 2016年

 本書は森安孝夫「シルクロードと唐帝国」の文庫新版である。著者によれば単純な誤植・誤脱の修正以外は初版本を再現したという。ただし例外は二点ある。第一は「偽ウイグル人」という表現の削除である。そして第二は2006年執筆時第一稿で、予定枚数超過のため削除した部分の復元である。
 (偽ウイグル人)初版本では次のように記述されている。
「本来ウイグル人でない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までウイグルと呼ぶようになったのであり、古代ウイグル史を専門とする私にいわせれば、こうした新ウイグルは偽ウイグルである。しかも古ウイグルはイスラム教徒(ムスリム)ではない。」(初版P32)
この部分は文庫版では以下のように変更・加筆されている。
「そうした新ウイグルには旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までも含まれ、後者がイスラム教徒(ムスリム)であったため誤解が増幅されたのであるが、本来の古代ウイグル人には一人もイスラム教徒はいなかった。」(文庫版P33 変更)
「彼らの宗教はモンゴル草原で遊牧していた時代はシャーマニズムとマニ教であり、天山地方に民族移動して百年を経て農耕・都市生活に馴染むと共に仏教への改宗が顕著となり、モンゴル帝国時代にはほとんどのウイグル人が仏教徒で一部にはネトリウス派キリスト教徒が混じっていた程度である。」(文庫版P33~4)
著者によれば「偽ウイグル」という表現は「読者が古代ウイグルと新ウイグルを区別しやすいようにという意図」から用いた比喩であるという。然しこの表現が日本に留学中の新ウイグル人の間で物議をかもしたことに配慮して書き直したとする。
 (シルクロード史観論争)その他加筆したのはすべて2006年執筆時の第一稿で削除した部分で、「カットしすぎて情報不足になっていた」ものを論旨補強のため復活したものである。
 序章部分が大半をしめるが、その中でやや重要なのが第1章の「シルクロード史観」に関する部分である。
「私はかって梅村坦とともに『内陸アジア史を東西交渉・南北対立・南北共存等の面から見る見方がすでに古くなってきた』のであるから、『今後の内陸アジア史研究は、東西交渉とか南北対立とかの外からの視点を打ち破って、それぞれの地域や民族を「東西南北との交渉・対立」の中心に据え、その地域ないし民族自身の歴史を内側から構成してゆく方法に進んでいく』ことを『史学雑誌』(1973年)の『回顧と展望』で主張したことがある。この時の主張と、それより後に間野が新書版で打ち出した見方との間にはかなりの『ずれ』がある。間野の言う『南』は中央アジア内部のオアシス農民であるが、松田はじめ我々の言う『南』ははるかに広く、ユーラシア全体の『南側に並んでいる大農耕文明圏のことである。」(文庫版P79~80)』が初版P74の「・・・・紛れもなく松田自身なのである。」に続いて加筆挿入されている。これによって著者の「シルクロード史観」に対する見解がやや明瞭になったといえる。初版本の「シルクロード史観」に対して、間野英二より「やや異例とも言える批判」(「史林」2008年)があったが、あえて正面切った反論は控えていると著者は言う。なぜなら「史観論争」というのは文科系的歴史学の範囲であり、成否や勝敗は決めようがないからと。そして「論争で第三者に論点を明らかにするため敢えて極端な言い回しをすることがあるのは当然で、その点を批判されても仕方がない」(文庫版あとがき)からだとする。
 (理科系的歴史学と文科系的歴史学)それに対して理科系的歴史学とは「原典史料に基づいて緻密に論理展開され、他人の検証に十分耐えうる」ものである。本書はいずれも史料的裏付けがあるだけでなく、全10章のうち6章分には典拠となった原論文がある。例えば終章「唐帝国のたそがれ」は「東西ウイグルと中央ユーラシア」(名古屋大学出版2015年)所収の「増補:ウイグルと吐蕃の北庭争奪戦及びその後の西域情勢について」を下敷きにしているというように。この中で著者は中央アジア史上の「関ヶ原」は「タラス河畔の戦い」(751年)ではなく、「ウイグルと吐蕃(チベット)の北庭争奪戦」(789~792年)だとする。従来勝者はチベットとされていた(安倍健夫)が、最終的にはウイグルが勝利したとする。ラサの「唐蕃会盟碑」は唐・チベット講和条約を実証する史跡として有名である。然しペリオ文書(3829番)やペテルブルク所蔵敦煌文書断片(Dx1492)から唐・チベット間のみならず、西蔵・ウイグル間にも講和があり三国間条約であったことが立証されている。実はこの両文書は、同一文書の上下に切れていたものであった。復元した文書から三国会盟の事実だけでなく、当時の三国間の国境線の位置までもが明らかになったのである。この部分の記述はスリリングで、かつての「大宛国貴山城論争」をほうふつとさせる。著者は本書を、理科系的歴史学の成果を踏まえた文科系的歴史学の著作だとする。然しこのような「視角」が間野英二には「古さ」を感じさせるのかもしれない。

2016年4月12日火曜日

「南京事件論争」はなぜ続くのか~昭和史の謎を追う⑫

    「南京事件論争史」 笠原十九司 平凡社新書 2007年

 「南京大虐殺事件」(以下「南京事件」)が歴史的事実であることはすでに確定している。日本の歴史学界では定説になっている。まともな歴史辞典(例えば「世界歴史辞典」山川出版社など)であればその項目と記述がある。歴史教育学界でも同様である。現在日本の中学校で使用されている歴史教科書、高等学校の日本史教科書・世界史教科書のほとんど(一部の「つくる会」教科書使用を除く)に「南京事件」は記述されている。また司法界においてもそれは同様である。すなわち「家永教科書裁判」第三次訴訟で最高裁(「大野判決」1997年8月29日)は「南京事件」記述に関する検定の違法性を認定した。「南京事件」被害体験者の名誉棄損裁判では、「李秀英裁判」(2005年1月)、「夏淑琴裁判」(2009年2月)でそれぞれ原告(被害者)側勝訴が確定している。またそれとは逆に弁護士高池勝彦・稲田朋美が原告訴訟代理となった所謂「百人斬り」裁判では原告側敗訴が最高裁で確定した(2006年12月)。これによって司法の場でも歴史的事実の有無をめぐる「南京事件」論争に結着がつけられた。司法による結着を受けて、日本政府もしぶしぶとではあるが公的に「南京事件」の事実を認めている。外務省ホームページ(歴史問題Q&A)では「日本政府としては、日本軍の南京入場(1937年)後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。」としている。なお2014年以降「多くの」は削除されている。そして2006年の安倍ー胡錦濤会談(11月)、麻生ー李肇星会談(12月)で日中による政治結着がなされている。それは「日中両政府による歴史共同研究(2006年12月~2008年12月)」として2010年10月に発表されている。
 然しそれにもかかわらず「南京事件」が「日本国民の記憶・歴史認識として共有化され定着していない事実がある」と著者は指摘する。そして「『南京大虐殺はなかった。』『南京大虐殺は中国やアメリカのプロパガンダ』などという南京大虐殺否定説が公然と国民の間に流布されて影響力をもっている」とも。現在書店にならんでいるのは「事実派」よりも「否定派」の本が多く、テレビでも否定説が多く流されている。さらに歴史家においても「事実派」に対して「政治イデオロギー的」だ、「泥仕合になる」として論争を回避する傾向が強いという。それは何故なのか。
 1990年代後半以降政府と民間が一体になって「南京事件」の事実を否定しようとする勢力が台頭してきたからである。まず1997年「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(中川昭一代表、安倍晋三事務局長)が結成された。その後2004年「若手」をとって「教科書議連」に改称した。また「自由主義史観研究会」(藤岡信勝会長1995年)、「新しい歴史教科書をつくる会」(西尾幹二会長1997年)などが結成された。とくに「つくる会」は「教科書議連」と連携して「否定論」の大キャンペーンを展開し、裁判では敗訴したが、現行の歴史教科書の「南京事件」記述の後退に一部「成功」している。日本国民を「統合」してゆくために「日本人としての誇り」を持たせる必要があり、そのためには「南京事件」の記憶を「忘却」させねばならないという考えに凝り固まっているのである。そのような勢力によって成立したのが第一次安倍内閣(日本会議」などの所謂「靖国派」)であり、現行の第二次安倍内閣(「靖国派」に加えて「統一協会派」)である。
 そのような勢力の要請によって「否定派」は「すでに破綻した否定論の繰り返しと新な否定論の『創作』という方法で、否定本を多量に発行しつづけ」、「論争」はまだ続いているという仮象を維持しようとしていると著者は論断する。そのために「否定派」はさまざまなトリック使用する。「ニセ写真」「ニセ史料」、「事実のねじまげ」などである。例えば「事実派」の本に「ニセ写真」が一枚でもあれば「南京事件」はなかったと強弁する。また「大虐殺」があると根拠にしている史料に「一点でも不明瞭さ、不合理さ」があれば、それは五等史料だとする。そしてそれが確認されないかぎり「南京事件」はなかったとする。この手口は要注意である。著者も「南京事件」(岩波新書1997年)3章の扉写真が誤写真だとして攻撃されている。その後写真差し替え。「事実のねじまげ」としてはティンバリーの国民党工作員問題がある。彼が国民党顧問を務めたのは1939~42年で、「戦争とは何か」はそれ以前に出版されている。極めつけに噴飯なのは稲田朋美(「百人斬り裁判から南京へ」文春新書2007年)だ。一本の日本刀で百人も斬れるはずがないから「百人斬り」はなく、したがって「南京事件」も存在しないという超論理を繰り返す。原告側弁護士として敗訴すれば、「是正するのは、裁判所の役割ではなく、政治家の務め」として政治家(現自民党政調会長)に転身するという身勝手ぶりである。
 学術的結着はすでについているのに、「泥仕合」のように「南京事件論争」は際限なく続く。これは通常の歴史学論争とは異なる。「日中戦争」を批判的にとらえるのか、肯定的に見るのかの、日本の戦争認識をめぐる象徴的論争である。「その新な論点を批判しないと史実派も認めたと彼らは宣伝する。そして南京事件の事実そのものが否定されたように主張するので、私たちもやむなく新たな否定論を展開する」(本書P250)と著者は云う。この「モグラ叩き」を止めればどうなるのか。そのような例として近い過去に「南北朝正閏問題」(1911年)があった。「名分論」としては南朝正統論に軍配が上がり、国定教科書児童用は「南北朝」の記述を「吉野朝」に変更した。だが歴史の学説は関係ないとした。然し「名分論」が歴史教育の統制を目的とする以上、学問研究とは無関係でありえなかった。やがて昭和にはいり「足利尊氏問題」(1934年)を契機に、「天皇機関説排撃」、「国体明徴運動」がおこり、平泉澄などが唱える皇国史観によって歴史研究は窒息させられるに至った。なお「南北朝正閏問題」については稿を改め詳述する。