2016年4月12日火曜日

「南京事件論争」はなぜ続くのか~昭和史の謎を追う⑫

    「南京事件論争史」 笠原十九司 平凡社新書 2007年

 「南京大虐殺事件」(以下「南京事件」)が歴史的事実であることはすでに確定している。日本の歴史学界では定説になっている。まともな歴史辞典(例えば「世界歴史辞典」山川出版社など)であればその項目と記述がある。歴史教育学界でも同様である。現在日本の中学校で使用されている歴史教科書、高等学校の日本史教科書・世界史教科書のほとんど(一部の「つくる会」教科書使用を除く)に「南京事件」は記述されている。また司法界においてもそれは同様である。すなわち「家永教科書裁判」第三次訴訟で最高裁(「大野判決」1997年8月29日)は「南京事件」記述に関する検定の違法性を認定した。「南京事件」被害体験者の名誉棄損裁判では、「李秀英裁判」(2005年1月)、「夏淑琴裁判」(2009年2月)でそれぞれ原告(被害者)側勝訴が確定している。またそれとは逆に弁護士高池勝彦・稲田朋美が原告訴訟代理となった所謂「百人斬り」裁判では原告側敗訴が最高裁で確定した(2006年12月)。これによって司法の場でも歴史的事実の有無をめぐる「南京事件」論争に結着がつけられた。司法による結着を受けて、日本政府もしぶしぶとではあるが公的に「南京事件」の事実を認めている。外務省ホームページ(歴史問題Q&A)では「日本政府としては、日本軍の南京入場(1937年)後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。」としている。なお2014年以降「多くの」は削除されている。そして2006年の安倍ー胡錦濤会談(11月)、麻生ー李肇星会談(12月)で日中による政治結着がなされている。それは「日中両政府による歴史共同研究(2006年12月~2008年12月)」として2010年10月に発表されている。
 然しそれにもかかわらず「南京事件」が「日本国民の記憶・歴史認識として共有化され定着していない事実がある」と著者は指摘する。そして「『南京大虐殺はなかった。』『南京大虐殺は中国やアメリカのプロパガンダ』などという南京大虐殺否定説が公然と国民の間に流布されて影響力をもっている」とも。現在書店にならんでいるのは「事実派」よりも「否定派」の本が多く、テレビでも否定説が多く流されている。さらに歴史家においても「事実派」に対して「政治イデオロギー的」だ、「泥仕合になる」として論争を回避する傾向が強いという。それは何故なのか。
 1990年代後半以降政府と民間が一体になって「南京事件」の事実を否定しようとする勢力が台頭してきたからである。まず1997年「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(中川昭一代表、安倍晋三事務局長)が結成された。その後2004年「若手」をとって「教科書議連」に改称した。また「自由主義史観研究会」(藤岡信勝会長1995年)、「新しい歴史教科書をつくる会」(西尾幹二会長1997年)などが結成された。とくに「つくる会」は「教科書議連」と連携して「否定論」の大キャンペーンを展開し、裁判では敗訴したが、現行の歴史教科書の「南京事件」記述の後退に一部「成功」している。日本国民を「統合」してゆくために「日本人としての誇り」を持たせる必要があり、そのためには「南京事件」の記憶を「忘却」させねばならないという考えに凝り固まっているのである。そのような勢力によって成立したのが第一次安倍内閣(日本会議」などの所謂「靖国派」)であり、現行の第二次安倍内閣(「靖国派」に加えて「統一協会派」)である。
 そのような勢力の要請によって「否定派」は「すでに破綻した否定論の繰り返しと新な否定論の『創作』という方法で、否定本を多量に発行しつづけ」、「論争」はまだ続いているという仮象を維持しようとしていると著者は論断する。そのために「否定派」はさまざまなトリック使用する。「ニセ写真」「ニセ史料」、「事実のねじまげ」などである。例えば「事実派」の本に「ニセ写真」が一枚でもあれば「南京事件」はなかったと強弁する。また「大虐殺」があると根拠にしている史料に「一点でも不明瞭さ、不合理さ」があれば、それは五等史料だとする。そしてそれが確認されないかぎり「南京事件」はなかったとする。この手口は要注意である。著者も「南京事件」(岩波新書1997年)3章の扉写真が誤写真だとして攻撃されている。その後写真差し替え。「事実のねじまげ」としてはティンバリーの国民党工作員問題がある。彼が国民党顧問を務めたのは1939~42年で、「戦争とは何か」はそれ以前に出版されている。極めつけに噴飯なのは稲田朋美(「百人斬り裁判から南京へ」文春新書2007年)だ。一本の日本刀で百人も斬れるはずがないから「百人斬り」はなく、したがって「南京事件」も存在しないという超論理を繰り返す。原告側弁護士として敗訴すれば、「是正するのは、裁判所の役割ではなく、政治家の務め」として政治家(現自民党政調会長)に転身するという身勝手ぶりである。
 学術的結着はすでについているのに、「泥仕合」のように「南京事件論争」は際限なく続く。これは通常の歴史学論争とは異なる。「日中戦争」を批判的にとらえるのか、肯定的に見るのかの、日本の戦争認識をめぐる象徴的論争である。「その新な論点を批判しないと史実派も認めたと彼らは宣伝する。そして南京事件の事実そのものが否定されたように主張するので、私たちもやむなく新たな否定論を展開する」(本書P250)と著者は云う。この「モグラ叩き」を止めればどうなるのか。そのような例として近い過去に「南北朝正閏問題」(1911年)があった。「名分論」としては南朝正統論に軍配が上がり、国定教科書児童用は「南北朝」の記述を「吉野朝」に変更した。だが歴史の学説は関係ないとした。然し「名分論」が歴史教育の統制を目的とする以上、学問研究とは無関係でありえなかった。やがて昭和にはいり「足利尊氏問題」(1934年)を契機に、「天皇機関説排撃」、「国体明徴運動」がおこり、平泉澄などが唱える皇国史観によって歴史研究は窒息させられるに至った。なお「南北朝正閏問題」については稿を改め詳述する。


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