2018年5月12日土曜日

深田久弥 人生の好日

  「シルクロードの旅」深田久弥 朝日新聞社 1974年
                ( 深田久弥・山の文学全集巻10所収)

 1966年1月23日、著者を隊長とする「シルクロード踏査隊」が横浜港からバイカル号でナホトカに向けて出発した。メンバーは長澤和俊(副隊長 東洋史家)、藤原一晃(白水社)、鈴木重彦(登山家)と後援を得た朝日新聞の高木正幸(記者)、関沢保治(カメラマン)、吉川尚郎(朝日テレビニュース)の総勢7名である。
 当時シルクロードの旅が可能であったのは西アジア(トルコ、イラン、イラク、アフガニスタン)とソ連領トルキスタンであった。中国領トルキスタンは夢のまた夢であった。然し日中平和友好条約締結以降の1980年頃を境に、中国領トルキスタンは旅行可能になる一方、西アジアは次第に立ち入り困難になってきた。ホメイニ革命(1979年)後のイラン(現在は旅行可)や、ソ連侵攻(1979年)以降のアフガンがその始めで、レバノンやイラクそしてシリアが続いた。隔世の感があるが、今となっては貴重な旅の記録である。2台の車(フォルクスワーゲンのマイクロバスとトヨタのランドクルーザー)で各地(ソ連以外)を廻り、遺跡を調査するというのは当時としてはユニークな試みであった。
(ヨーロッパを縦断してイスタンブールへ)
 一行はナホトカからシベリア鉄道でハバロフスクへ、そこから飛行機でモスクワを経由してヨーロッパへ向かった。このような経路をとったのは、もっぱら経済的な理由とハノーヴァーでマイクロバスを受け取るためである。当時航空運賃はとてつもなく高かった。マイクロバスでオーストリア、ユーゴ、ギリシャを経てイスタンブールに入った。深田達はヨーロッパ旅行のおまけが付いたと喜んだ。
 イスタンブールが旅の出発点になったのは、そこがアジアとヨーロッパの境だからである。深田にとってイスタンブールはコンスタンティノープルである。「世界中で真に古都の名に値する都市が三つある。パリと北京とコンスタンティノープルである」そして「今私はコンスタンティノープルのいちばん高い塔の上に立って,ボスポラス海峡の向こうのアジアの地を眺めている。これからの多彩な長い前途を思って、私は身震いする」(「シルクロード」角川選書1972年)その後、日本から送ったランドクルーザーを受け取りにベイルートに入る。「中東のパリ」と呼ばれたベイルートも今では内戦の影響で入り難い。
(ソ連領トルキスタン)
 ソ連の旅程はインツーリストによって決まっていた。車での移動は認められない。列車で国境を越え、トビリシからすべて空路になる。アンカラを発つ前の晩。「ホテルの近くのキャバレーへオリエンタル・ダンスを見に行った。身振りの激しいその情熱的な踊りを私に見せようという、友人たちの親切な誘いであったが、女たちの勧める酒に私は酔った」(本書P51)という仕儀になる。空路でタシケントに入り、そこからフルンゼ、ブハラ、サマルカンドをめぐる。近代化が進むソ連領トルキスタンの旅は深田には期待はずれであったようだ。然しブハラの見捨てられたような裏町には昔の中央アジアのの空気があった。「迷路のように狭い道が入り組んで続いている。両側は低い土の壁で、ところどころにある入り口がそこが民家であることを示している。入口は観音開きの頑丈な板扉がついていて、その扉にも大きな錠がさがっている」(本書P87~88)
(アララット山~イラン~アフガニスタン)
 一行は再びトルコに戻る。かねてから計画の「ノアの箱舟の山」アララット山登頂のためである。然し積雪期ゆえ、頂上まであと二百米で引き返す。ここら当たりはクルド族の住地で、イランとの国境地帯である。ダブリズを経てテヘランに入る。テヘランはイラン北辺を東西に走るエルブルーズ山脈南麓の扇状傾斜地にある。つねにその主峯デマヴェンド(5601米)の雪山が見える。イランの安藤大使は深田の旧友である。「彼はすぐ奥さんと坊ちゃんを連れてでてきて、私たちを中華料理店に招いてくれた。安藤君と私はしまいに手を拍って『ああ玉杯』をうたいだすほどいい気持ちに酔っていた」(本書P138)さらにテヘラン滞在中の食事はすべて引き受けるという厚遇ぶりである。古都ハマダンやペルセポリスをめぐり、メシェッドからアフガンのヘラートに抜ける。ヘラートはかつての中央アジアの中心である。アフガン最大の見ものであるバーミヤンの大仏を見るが、今はない。この踏査の目的地の一つである古都バルク(バルフ)に長澤は到達しているが、深田は行っていない。カブールからカイバル峠を越えれば印パ国境は近い。デリーに到着したのは5月20日。4か月に及ぶ「シルクロードの旅」は終わった。
 朝日新聞社の後援を得ての「シルクロード踏査隊」は深田の長年の研究を踏まえての現地調査であった。2台の車に分乗して、1日に千キロにも及ぶ強行軍も辞さず14カ国を廻った。その成果は長澤によれば次のようであった。第一はパミール以西のシルクロードの全般踏査をし、遺跡を調査したこと。第二はマルコポーロのルートをたどり、その細部について明らかしたこと。そして第三は各地博物館や収集した遺品などにより東西交渉史研究の基礎をつくったことなど。後年長澤は東洋史学者として大成する。
 本書を読めば、深田の「隊長」としての悠揚せまらざる姿がほうふつとして浮かびあがってくる。それはまた「百名山の作家」深田久弥の起伏の多い人生に訪れた、つかの間の人生の好日でもあった。旅行後深田が長澤に贈った色紙には「シルクロードの春 わが人生最良の旅」と書かれていた。
 本書のオリジナルは著者の没後朝日新聞社から刊行された「シルクロードの旅」(1971年6月)である。1章「ヨーロッパ縦断」2章「ソ連領トルキスタン」3章「ノアの箱舟の山」と4章「砂漠と歴史の国々」の一部(21枚)の計370枚が本書のための書き下ろし。4章は100枚の予定であったが絶筆になった。そのため「シルクロード 過去と現在」(長澤との共著白水社)の原稿を再録。5章「僻遠の地、西域の都市」は1969、70年の二度のソ連トルキスタン旅行をもとに書かれた原稿を援用。また角川選書「シルクロード」は異本。その2部は「世界の屋根」に連載された「西シルクロード」(1966年1~12月)、「ソ連領トルキスタン」(1967年1~12月)24回のうち本書や「中央アジア探検史」と重複しない部分を13章を編集したものである。これらの編集には副隊長であった長澤が当たった。