2013年2月15日金曜日

東京発パリ行きの鉄道切符があった。

 「下駄であるいた巴里」  林芙美子 岩波文庫 2003年

 かつて東京発パリ行きという鉄道切符が日本国内で売り出されていた。シベリア鉄道が全通したのが明治36年(1903年)。アジアとヨーロッパが一本のレールで結ばれた。そして明治43年(1910年)日本国内の主要都市から各国の都市への鉄道切符が売り出された。その3年後パリなどの西欧の主要都市まで一枚の切符で行けるようになった。この欧亜連絡ルートは第一次世界大戦やロシア革命後の内戦で一時不通となった。昭和2年(1927年)再開し、第二次世界大戦がはじまる昭和16年(1941年)まで続いた。とくに1930年代は日本人によるシベリア鉄道旅行の黄金期であった。「西伯利鉄道案内」(鉄道員運輸局)によれば以下の3ルートがあった。①ウラジオ・ハバロフスク経由②釜山・奉天・ハルピン経由③大連・奉天・ハルピン経由 満州里でシベリア鉄道に入りモスクワ経由でヨーロッパに向かう。いずれのルートでも料金は同一だが、昭和4年ベルリンまでの運賃は440円(1等、寝台、急行料金込み)。現在の価格では約100万円である。鉄道博物館に所蔵されている現物(東京からベルリンまで15日間)は実際には冊子になっており、経由する国や鉄道事業者ごとに英語と現地語で書かれた切符が16枚32頁に綴られている。
 昭和6年(1931年)11月この②のルートを東京からパリへ旅立ったひとりの日本人女性がいた。前年「放浪記」が空前のベストセラーになり多額の印税を手にした林芙美子である。本書によれば10日下関より関釜連絡船で釜山へ。京城経由安東着。11日安東発奉天着。12日奉天発長春着。13日ハルピン着。14日ハイラル9時着、満州里13時頃着、シベリア鉄道に乗り換える。20日モスコウ21時着。23日パリ着とある。東京からパリまでの旅行費用は鉄道料金313円29銭
(3等車)、その他食費・雑費などもあわせて総額379円95銭である。これは当時の物価と勘案すればかなり高額である。然し芙美子が乗ったのは3等車である。「無産者の姿というものは、どんなに人種が変わっても、着た切り雀で、朝鮮から巴里まで、みな同じ風体だと思いました」と書いている。
 芙美子のパリ滞在については多くの女性評論家・作家が書いている。今川英子の「巴里の恋」などがその代表だが、女性はよほど林芙美子のパリに興味があるのだろう。その中で角田光代の指摘は鋭い。「未知の世界に足を踏み入れ、未知のものに手をのばし、手をひろげる」旅の醍醐味に芙美子はとらえられた。一度こういう旅をすると、死ぬまで旅に取り憑かれる。本書だけでなくその後彼女が書き続ける小説のガソリンタンクになったのではないかという。満州事変勃発直後の戦乱の満州からシベリア鉄道でパリに旅立った林芙美子は元祖バック・パッカーである。
 現在ならシベリア鉄道でウラジオストックーモスクワ間は「ロシア号」が隔日(偶数日)に6泊7日で運行している。ちなみに料金は3万3429ルーブル(1等、1ルーブル=2.5円 2012年10月現在)である。
 

2013年2月3日日曜日

中国を識る 古書の宝庫を訪ねてみれば~その2

 「中国 民族と土地と歴史」 ラティモア 岩波新書  1950年

 オーエン・ラティモアは1900年ワシントン生まれの米国人で、前半生の大半を中国で過ごした。内外蒙古・満州・新疆などの中国辺境地帯を自分の足で踏査した。北京のハーバート燕京大学やジョンス・ホプキンス大学で研究活動のかたわら、蒋介石の政治顧問などもつとめ、米国の対中国政策の立案にも関与した。その後マッカーシズムの「赤狩り」旋風に巻き込まれ英国に渡り、リーズ大学で教鞭をとった。1989年没。邦訳されている「農業支那と遊牧民族」「西域への砂漠の道」の著者として名高い。
 本書は中国通史としては非常に簡潔のものである。登場する人名は始皇帝・王安石・岳飛・ジンギスカン・マルコポーロ・ヌルハチとたった6人というユニークさである。実地調査の成果が随所に取り入れられ、歴史叙述の新しい型を打ち出している。その特色は「現存最古の文明」をもつ中国の形成過程を世界史的観点から簡潔に絞り切ったことと民国革命以降の近代史に力点をおいて叙述したことである。すなわち退屈な王朝興亡を停滞の時代とみることなく、民族の不断の成長進歩の過程として描いた。例えば漢王朝の崩壊と魏晋南北朝時代への過渡期は、単なる悪政と善政の相互交代ではなく、中国文化の成長と中国民族の膨張との内部における一つの過程に過ぎないというように。
 とくに重要な鍵として地主と官僚と農民の関係を見抜き、これを現代史の理解にまで到達させている。すなわち地代を取り上げる地主と租税を徴収する官吏がしばしば同一人物であることの矛盾に着目している。現在でも改革派官僚王安石が着目されるのは、「官吏と地主を一身に兼ねる人々の立場の二重性の問題に関する不安の意識」故だと説明される。また英雄岳飛の悲劇は、一人の偉大な将軍がその軍事的名声によって民政を支配するのを見るのは忍びないが、万事なりゆきにまかせることには平気という官僚の態度故だと断罪する。「庶民的な文化が経済的衰頽と社会的不安とにまざりあったこの時代の空気は中国最大の小説の一つ『水滸伝』の中に非常によく
書き遺されている。その中には北方の蛮族との戦乱はただ遠いこだまのようにしか描かれていないにもかかわらず、宋代の中国がその遠方の振動によって内部からゆりくずされていった様子が写し出されている。」(本書P94)
 本書が岩波新書の一冊として翻訳刊行されたのは1950年、朝鮮戦争のさなかであった。オリジナルは1947年出版の「China:A Short History」である。その後中国現代史は中華人民共和国の樹立、文化大革命、改革開放政策の導入とドラスチックに変遷したが本書の価値はいささかも減ずることはない。中国を知ろうとするものの基本的図書である。1965年に改版し、その後も版
を重ねたが品切れになって久しい。