2013年4月23日火曜日

  「ポル・ポト~ある悪夢の歴史~」 フィリップ・ショート 白水社 2008年 

 カンボジアの第二の都市シェムリアップはバンコクから空路で一時間。バンコクエアウェイズのプロペラ機が毎日就航している。世界遺産のアンコールワット観光のゲートウェイでもある。つきぬけるような青空に高い砂糖椰子がそびえ、さわやかな風が吹き抜ける。だが午後はとてつもなく暑い。そして夜ともなればオールドマーケットの土産物屋がにぎわい、世界中からの観光客で街は一層の輝きを増す。然しそれに比して、地元の住民の表情は暗い。「クメールの微笑」に隠された暗さがある。ポル・ポト政権による国民の二割にあたる150万人殺害とその後の内戦が黒い影を落としているのだろうか。著者は現指導部を含めて国民の多数が殺害の加害者だったからだという。フン・センをはじめ現政権の指導者は元ポル・ポト派の中堅幹部だ。虐殺をくぐりぬけ生き延びた国民の大半は所謂「旧住民」かつての支配層であり、殺害の直接の当事者である。然し状況が変われば被害者と加害者の立場は逆転していたとも指摘している。
 本書の特色はすべて一次資料(多数の当事者へのインタビュー、中国・カンボジア・ベトナム・
フランスなどの各種資料)に依拠してクメール・ルージュの活動を詳細に記録していることである。
謎にみちたカンボジア共産党の誕生の秘密とその歴史が解明されている。内容は精確無比であり、今後これ以上のものは出ないと思われる。本書は700頁に及ぶ大冊であるが、その一端を
紹介しよう。
まずカンボジア共産党の創立はベトナムが主張する1951年(クメール人民革命党の創立)ではなく1960年であること。イエン・サリやサロト・サル(ポル・ポト)らパリ在住のカンボジア人留学生組織「セルクル・マルクシステ」がその母体である。彼等はフランスやインドシナの共産党に属したことがあるが、公的にクメール人民革命党に所属したことはない。1950年代から自分たちの運動を
「アンカ・デバット」(革命組織)と呼んでいた。
1960年9月30日~10月1日に「カンプチア労働党」として創立、トウー・サムトが書記に就任。
1962年7月トウー・サムト失踪後殺害され、サロト・サルが臨時指導部に。
1963年3月23日第2回党大会でサル書記に就任、その直後弾圧を逃れゲリラ地区に潜行。
1966年10月党名を「カンプチア共産党」に。ただし党員・ベトナムにはふせることにする。
1968年1月18日武装蜂起開始(ベイ・ダムラン基地襲撃)。
1971年第3回党大会で「カンプチア共産党」名を正式に承認する。
1975年4月17日クメール・ルージュプノンペン入城、政権掌握。
1977年9月27日ポル・ポトはアンカの実態がカンプチア共産党であることを公表。
1978年11月1日~2日カンプチア共産党第5回大会。ポル・ポト(1位)、ヌオン・チア(2位)、
モク(3位)、イエン・サリ(4位)、ボン・ベト(5位)、ソン・セン(6位)、マン・ソファル(7位)の常務委員を選出。
1979年ベトナム軍プノンペン制圧、ポト派はふたたびゲリラに。
1981年12月カンプチア共産党を解散。国際共産主義の歴史において自らの存在を絶った最初にして唯一の党となった。
  本書に対する批判もある。著者はポト政権による150万人に及ぶ殺害はジェノサイド(大虐殺)ですらなく、その原因はカンボジアの国民性に起因するという。これに本書の訳者山形裕生は、「それではクメール・ルージュによる大量の死亡者たちは、とことん救われない存在だ」と批判する。そしてその原因は「ナショナリズムの極地である民族浄化運動のようなものに、実用的技能を一切持たない無能な人々による社会主義イデオロギーが結びついたしろもの」だとする。
 然し被害者と加害者が混在し、容易にその立場が変わるカンボジア社会の現状。多くの国民はポル・ポトたちの被害者であると同時に、彼等の手先として加害者側の存在でもあった。現在「カンボジア特別法廷」はヌアン・チアら旧ポル・ポト政権の指導者4人を大量虐殺や人道に対する罪で起訴している。(2010年9月)然し被告の高齢による認知症や持病の故に判決の出る見込みは立っていない。(2013年3月14日イエン・サリ死去)

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