神戸新聞 昭和44年1月 ~マイクロフィルムより
関学6項目要求闘争について、全共闘側の資料、学院側の資料に関してはすでに検証した。今回は地元のメディア神戸新聞がその紙面でこの6ヵ月に及ぶ「紛争」をいかに報道したのかを見てみよう。取材する記者をはじめ多くの学院OBがいる神戸新聞にとっては他人事ではなかったのだ。神戸新聞昭和44年のマイクロフィルムから当時の記事を再現してみよう。
記事によれば1/7第五別館封鎖は突如おきた。「7日夜全学共闘会議の社会学部闘争委員会を中心とした学生約30人が同大学第五別館を封鎖した。(中略)8日から新学期が始まるため全共闘は封鎖にはいったもの」(1/8朝刊)
1/17学院本部封鎖。「17日午前零時半ごろ、全学共闘会議の学生約30人が大学本館に乱入、内側から板切れなどを打ち付けて封鎖した。(中略)16日の中執で本館を封鎖し、同大学の機能をマヒさせることを決定、一方で17日本館を封鎖するとの情報を流しながら、大学当局や反対派のスキをみて突然実力行使にはいったもの。」(1/18朝刊)まだこの段階ではベタ記事扱いだ。
12/23の全学共闘会議で本部封鎖提起されたが、意志一致出来ず流れた。また1/6会議では5号別館封鎖は反対する主流派(反帝学評、学生解放戦線)と賛成の少数派(フロント、社学同、先鋒隊)に分かれた。反帝学評は5号別館封鎖は小ブル急進主義のショック戦術だと批判し、クラス・サークル末端からの組織化をめざし無期限ストを提起した。
1/18法学部無期限スト突入。「18日午後、法学部がスト権を確立、同日夕方から法学部本館と同別館にバリケードを築き無期限ストに入った。(中略)同学部のスト権投票はさる11日から行われていたが、18日午後の開票で同学部学生総数2612人のうち、賛成1079票、反対821票で可決した。同学部闘争委は同日夜、学生約30人が泊まり込んだが、同学部スト突入を足場に、文・社会にも学部ストを波及させてゆく方針で学費値上げ反対など6項目の要求を掲げて学院当局との大衆団交を目指して闘争を進めるという。」(1/19朝刊)次第に闘争のうねりが大きくなってくる。
そして1/24全学集会。「24日午後1時から同校中央芝ふで、紛争後初の全学集会を開いた。(中略)1万3千人の教職員・学生のうち小宮院長、古武学長はじめ約5千人が参加。(中略)『全学集会を大衆団交の場にしよう』とデモをしていた全学共闘会議の学生約300人が集会に割り込んだため、これを阻止しようとした運動部の学生を含む一般学生と衝突、一部でなぐりあい、学生数人が軽いケガをした。(中略)同3時司会の武藤誠総務部長が閉会を宣言したため、学生らが『実りある答弁をしろ』と騒いだ。学生側は大衆団交に切り替えるよう要求。(中略)それまで別集会をしていた全共闘の学生にも集会に加わるよう呼びかけたが、ヘルメットを脱げ、脱がぬで対立、集会は約1時間空転した。集会が再開されようとした矢先、小宮院長、古武学長らが『全学集会は終わった』としてひきあげてしまった。(中略)残った全共闘派学生を含めた約千人は『学院当局の全学集会の意図を粉砕した』、『29日午後1時から中央講堂で大衆団交を開くことを要求する』ことを確認、同7時過ぎ解散した。」(1/25朝刊)
神戸新聞の学院当局に対する視線は厳しい。当日の記事には「学長ら去り ”閉会” 関学大初の全学集会 ヘルメット論争で空転」と見出しが大きく打たれている。さらに学院OBの記者は署名入り解説で「集会半ばで逃げるように退席した小宮院長ら首脳陣の態度は集まった学生らに『無責任なやり方だ』という印象を与え、封鎖解除どころか、かえって不信感を植え付けた」と批判している。
その後情勢は加速した。26日社会学部封鎖に続き28日神学部も無期限ストに入った。「28日午前5時、神学部学生会が学部校舎を机、イスなどでバリケード封鎖、無期限ストにはいった。同学部は27日夜学生大会を開き、26対8でスト権を確立、封鎖にはいった。(中略)なおスト権投票中だった経済学部も27日深夜学生集会を開いたが、スト強行派の突き上げで学生自治会が解散したため、28日開票予定のスト権投票は無効になった。」(1/28夕刊)「商学部のスト権投票の開票が28日午後5時から商学部校舎で学生千人が見守る中で行われ、投票総数2364票中賛成1293票、反対1038票(その他無効)で、可決された。」(1/29朝刊)
そして28日文学部29日経済学部が封鎖され、理学部を除く全校舎が封鎖された。法・商・神学部は学生大会決議を経ての封鎖だが、社・文学部はそうした手続きを省いての強行。経済学部もスト権確立が危ういとみての自治会解散・封鎖であった。神戸新聞解説記事(1/29)は執行部のあせりが封鎖・占拠という過激な戦術になり、学生大会決議をへず強行・封鎖するやり方は「東大方式」の影響だと指摘する。また社・文のフロント、社学同と法・商の社青同解放派(反帝学評)が戦術面で対立・足並みが乱れた。全共闘執行部を握っていた反帝学評は前年12月初めの革マル派との党派闘争に力をそがれ、全共闘の主導権を取れないまま闘争にはいったため、各派間の意思統一ができなかった。1月半ばには全共闘(約100人)は一般学生から浮き上がり、完全に孤立していた。然し全学集会の失敗で全共闘の支持が増え(サークル闘争委、一連協などの組織化が進み)、封鎖学生も300人程度になった。いままで闘争に参加しなかった神・理学部の学生も6項目要求支持を打ち出し、全共闘のウイングはひろがった。(この項続く)
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