2016年9月15日木曜日

「スターリンと新疆」を読む

     「スターリンと新疆」 寺山恭輔 社会評論社 2015年

 19世紀中葉から20世紀初頭にかけて大英帝国と帝政ロシアが広大な中央アジアを舞台に領土獲得競争に明け暮れていた。この状況を英国の作家キプリングは「グレートゲーム」と名付けた。グレートゲームの実態はスパイ合戦である。その後グレートゲームの舞台はチベットと新疆に移ったが、表面的には日露戦争(1904~5年)におけるロシアの敗北で終結に向かう。日本は従来グレートゲームの埒外にあったが、この頃から次第に関与の傾斜を強めてゆく。第三次大谷探検隊の野村栄三郎が英国から疑惑され、カラコルム越えを拒否されたのはその顕著な例である。
 然し辛亥革命(1911年)による中華民国の成立(1912年)やロシア革命によるソ連邦の誕生(1917年)などにより、新疆は次第に外国人にとって入りにくい土地になっていった。中華民国の成立は知識人に強烈なナショナリズムを呼び起こした。スタイン、ペリオなど外国人探検隊の新疆での遺跡発掘、遺物持ち出しはそれに拍車をかけた。また新疆省に独裁的な権力を築いた盛世才主席はスターリンへの依存をより一層強め、さながら新疆はソ連の衛星国のようであった。それは本書に詳述されている。そのスターリンが最も警戒したのが、満州方面よりする日本の軍事スパイの浸透であった。
(戦間期に新疆に入った日本人)
 第一次大戦終了後から第二次大戦前まで新疆に入った日本人について、著者はソ連文書より摘出している。本書の最も興味深い部分である。以下概略を紹介しよう。
◎1920年秋、日本人将校ナガミニ(長嶺亀介大尉 1889~1975 クルジャ駐在員)、サトウ(クルジャ駐在の佐藤甫嘱託 1884~1929)がクルジャからチュグチャクを訪れ、オレンブルグ軍(白軍)支援の可能性を探った。
◎1920年末、ツガ少佐(継屯 楊増新主席の顧問)がウルムチからチュグチャクを訪問し、部隊への物資支援と30万ルーブルの供与を約束した。
長嶺、継は中華民国陸軍と「日支陸軍共同防敵軍事協定」(1918年5月)を結んだ日本軍部が送り込んだ諜報機関員である。
◎1924年から25年にかけて副島次郎が北京からウルムチを訪れている。副島はその後ソ連領に入り、イスタンブールを経由して天津に帰着している。「アジアを跨ぐ」の著書がある。ウルムチ滞在中に中共新疆省の初代主席になるブルハンに二度あっているのが注目される。
◎馬仲英軍参謀オオニシ・タダシ(中国名は于葦亭)。1931年何らかの理由で天津駐屯軍を離れ、北京在住のイスラム信者川村経堂の推薦状をもって馬仲英の元に走った。馬仲英軍(馬仲英は1934年ソ連に亡命したが、彼の残した軍隊は義弟の馬虎山に率いられていた)は37年10月までホータンを占拠していたが、盛世才軍によって敗れた。オオニシは戦闘中に捕らえられウルムチの獄につながれた。オオニシのその後も、日本軍部の特務機関員かどうかも定かではない。
(甘粛の回民軍閥)
 新疆省の手前河西回廊地帯には「五馬」と称される回民軍閥が蟠踞していた。すなわち馬鴻逵(寧夏)、馬鴻濱(甘粛)、馬歩芳(青海)、馬歩青(青海)、馬仲英である。彼らは必ずしも血縁関係はないが、馬姓のムスリムであり、先祖は河州(現在の臨夏回族自治州)である。1860年代の回族反乱で左宗棠軍(政府軍)に寝返った馬占鰲にその流れは発している。反乱鎮圧の功が認められ、官職を授けられることで馬姓ムスリム軍事勢力の西北支配は強固なものになっていった。その後彼らは国民党政府に忠誠を誓うと同時に日本軍部とも接触を保ち大量の武器を購入していた。
馬鴻逵(1930年1月38式歩兵銃2千丁)、馬歩芳(1937年12月38式歩兵銃1千丁、小銃弾百万発)、馬歩青(1937年12月38式歩兵銃1千丁)など。然しこれは武器入手のためのプラグマテイック対応で、積極的に「対日協力」を選択することはなかった。
 日本軍部はこのような回民軍閥の二面性に幻惑されたといえる。それは華北分離工作における宋哲元などの軍閥工作と同様の轍を踏むことになる。かくして回民軍閥の「対日協力」を前提にした防共回廊工作は挫折し、「大空のシルクロード」の夢は画餅に帰した。
 本書はスターリンと新疆の専制権力者盛世才の関係を公開された旧ソ連機密文書の分析により詳述している。とくに情報機関の機密文書によれば、スターリンの日本軍部特務機関員の新疆への浸透に対する警戒には驚くべきものがある。

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