「後南朝再発掘」 山地悠一郎 叢文社 2003年
後南朝の歴史は長禄の変(1457年の赤松与党による南朝一宮・二宮殺害、58年の神璽奪回)によって絶えるが、近現代史に深い影を落とした。すなわち「南北朝正閏論」と「熊沢天皇事件」である。
(「南北朝正閏論」とは何か)
昭和9年(1934)1月発行の雑誌「現代」に掲載された「足利尊氏」が議会でやり玉にあがった。著者は斉藤内閣の商工大臣中島久万吉。2月7日貴族院で菊池武夫議員が追及。十数年前の文章の再掲載であり、執筆時の学界では常識であった史上の人物の再評価が、「乱臣賊子を礼賛するがごとき文章を発する」として攻撃された。中島は不用意な再掲載を陳謝したが、収まらず大臣を辞職した。この学問と思想の自由弾圧は、翌年美濃部達吉「天皇機関説」排撃へと続き、更に「国体明徴運動」に至った。
然しこれは明治44年(1911)の「南北朝正閏」問題の再現、その帰結であった。明治44年1月
18日の大逆事件公判における幸徳秋水の言説に対して、読売新聞が翌19日の社説で批判したことから、「南北朝正閏論」が一挙に政治問題化した。代議士藤沢元造は議会で、文部省の国定教科書「尋常小学校日本歴史」が「容易に正閏を論ずべからず」南北朝を並立させているのは、国体にもとると非難した。「南北朝正閏問題」は実証史学の対象ではなくて、国体原理であった。この黒幕は山縣有朋である。桂内閣の小松原英太郎文相は当初教科書の修正には慎重であったが、最終的は屈した。明治天皇の勅裁によって、南朝を正統と定め教科書は書き改められた。「南北朝」は「吉野朝」と書き改められ、執筆者の喜田貞吉博士(編集官)は休職処分となった。
「南北朝正閏論」は名分論であって歴史教育の問題であった。当時の権力者にあっても「学者の説は自在に任せ置く考えなり」(桂首相)、「学者の議論としては何れにても差し支えなき事」(原敬)であった。そして学問研究においても、東大史料編纂所が編纂した「大日本史料」(第6編)では南北朝並立の体裁をとっていても問題にはならなかった。また東大文学部での田中義成の「南北朝」講義でも、南朝正統論は名分論であって歴史の学説ではないと云うことができた。いわば実証史学の学者たちは「名」(歴史教育)を捨てて「実」(歴史学)をとったのである。然し「歴史教育」が国民統合のための思想統制の手段である以上、「歴史学」もそれとは無縁ではありえない。
(熊沢天皇事件)
「南北朝正閏論」は山縣の明治国家の指導原理たる南朝正統論として結着された。そして北朝系の天皇(明治天皇)に南朝イデオロギーを体現させるという「無理」は、その後の天皇制に深刻なひずみを与えた。しかもこの南朝イデオロギーは意外と底が浅く、水戸光圀が鼓吹した楠木正成賛仰の変形に過ぎなかった。この「無理」な結着に政府や宮内省が心配したのは、「南朝顕彰」に名を借りた野心家の登場である。果せるかな出た。それが「熊沢天皇」である。「熊沢天皇事件」とは戦後の混乱期に愛知県の雑貨商熊沢寛道が、自分こそは南朝正統の皇裔(後亀山天皇の皇子小倉実仁親王15世の子孫)であるとし、皇位継承権を主張した事件である。寛道の養父熊沢大然(ひろしか)はすでに明治41年明治天皇に対し、自家の由来を述べ、自祖信雅王の陵墓を私するのは恐れ多いとし、国よる管理を上奏していた。大然は明治31年頃吉野川上村の儒者林柳斉(1838~1925)について南朝史を学んでいた。林柳斉は、大阪の藤沢南岳の門下で、南朝研究に打ち込み「南朝遺史」の著作がある。南岳の息子が、あの「南北朝正閏論」の口火を切った代議士藤沢元造である。大然は南岳の処にもしばしば出入りしていた。柳斉の著書には尊雅王までは出てくるが、「信雅王」はない。おそらく大然は、南岳の処で「尊雅王の子信雅王」というフィクションを得たのではないかと本書の著者は推測している。
明治の「南北朝正閏論争」において、実証派の歴史家たちは「実」(歴史学)の弧塁を守ったと錯覚した。それは決定的な「躓きの石」でもあった。昭和の「中島商工大臣罷免事件」でそれは明らかになった。国体明徴運動の嵐の中で「歴史学」は窒息させられた。そしてこのような光景は近年の
「南京事件論争」でも見ることができる。
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