「関西学院新聞」 1969年
関学全共闘は「6/9王子集会」で致命的な政治的敗北を喫した。然し24名の逮捕者はでたが、組織自体が雲散霧消したわけではない。学院当局は6/10に「占拠学生」に最後の退去命令を出し、6/13に機動隊1900名を導入し全校舎の封鎖を解除した。全共闘は今回は「玉砕」を避け、拠点を神戸大学(六甲台)に移した。これ以降当局と全共闘の「キャンパス争奪戦」がしばらく続くことになる。この「争奪戦」を中心に1969年後半の関西の政治情況を「関西学院新聞」1969年から抜粋してみよう。
6/20関学奪還総決起集会
6月20日全共闘は早くも関学キャンパスに登場した。「この日約50名の全共闘は朝10時頃から学内デモをし、『再々封鎖』と午後1時からの中央芝生での集会を呼びかけた。これに対して当局は、全共闘の退去命令とともに、午前11時から翌朝8時まで、全学生の学内立ち入りを禁止し、さらに機動隊300人を学内に入れるなど露骨な弾圧にのりだしてきた。」((関西学院新聞558号69年6月30日)
6/30法本館・1G封鎖
この年授業が再開したのは6月30日であった。当局の支配体制強化と、関学闘争の停滞状況を切り拓くため全共闘は封鎖闘争に決起した。「全共闘は30日午前8時、法本館、10時第一別館の封鎖を行った。法本館には法闘委など約30名が、また第一別館には約20名の学友が結集し、封鎖を行い、その後第一別館前では、武田文学部長をとりかこんで、昨年12月の大衆団交破棄自己批判、現在の戒厳令下の支配体制粉砕などを追及した。」(同558号)
然し学院当局は11時40分機動隊400人を導入し、学生を1名逮捕、4名を検挙した。これに対しては新入生よりも抗議の越えが上がった。社会学部1年7組が「我々は6・30の大学側の一方的な機動隊導入に断固抗議する」という学長代行宛の抗議声明(クラス決議)を出した。また神学部自治会も教授会に対して機動隊導入など9項目からなる公開質問上を提出した。これと並行して全共闘はチャペルアワー、授業に介入して新入生に対する情宣活動を行った。7/3(法学部チャペル)、7/4(理学部チャペル、社会学部授業、商学部授業)、7/7(経済学部チャペル)、7/9(文学部授業)、7/14(経済学部チャペル)、7/16(法学部チャペル)、7/17(神学部授業)などである。チャペルアワーに介入したのはキリスト者反戦連合、授業介入は各学部闘争委でいずれもノンヘルである。新入生はこの情宣に積極的に応ずることはなかったが、「全共闘帰れ」などの反発もなかった。やがてこの新入生の中からニュー・ウェーブの活動家が誕生してくる。
7/11社会学部封鎖と城崎代行代理追及
7/11全共闘は社会学部を一時封鎖し山中学部長を追及した。そして中央芝生での全学総決起集会では城崎代行代理を追及するという場面もあった。「7・11全学総決起集会には中央芝生に約100名の学友が結集して2時半開始され、各闘争委代表から、基調報告などが述べられたが、その後城崎学長代行代理を追及する野外追及集会が同芝生で催されるというハプニングがあり、城崎の徹底的な”無能”さがバクロされた。」(同559号7月30日)然し6時頃追及が「松下講師罷免」問題に発展した時右翼学生十数人が集会に乱入し、城崎代理は経済学部校舎に逃げ込んだ。この右翼の暴挙に対して学生の怒りはすさまじかった。「その後の学内・外のデモに約300名の隊列となって結実し、『右翼実力粉砕』『闘争勝利』等のシュプレヒコールが再び上ヶ原にこだました。」(同559号)
7/29,31法闘委断続的封鎖
「法闘委を中心とする全共闘80名は、7月31日、法学部本館の拠点封鎖を敢行した。この封鎖は27日に続く2度目のもので、大学治安立法が衆議院を強行突破されたことに対して行われた。(中略)この後、午後4時頃、全共闘の学友は神戸において行われる『大学立法粉砕、全共闘統一行動』に参加したため、当局は教職員などを使って法本館封鎖を解除した。」(同559号)27日は29日の誤り。神戸の集会には関学100名など神戸大、神外大合わせて250名が参加した。封鎖の目的が正常化策動反対から大学立法粉砕などの政治闘争に移っている。29日(40名)、31日(80名)と反帝学評の主導が強まっている。
8/2文闘委文学部本館封鎖
「2日午前8時すぎ、約30人の文闘委を中心とする全共闘によって文本館が封鎖された。この封鎖は、大学立法粉砕と小寺正常化収集策動粉砕、3日の卒業式粉砕を掲げて行われたものである。」(同559号)
8/3卒業式粉砕闘争
延期されていた43年度卒業式がようやく8月3日(日曜日)に中央芝生で開催され、卒業生2千数百人が参加した。「全共闘は『小寺代行改革案粉砕・大学立法粉砕』と、当局のなしくずし的な正常化策動=卒業式に対し、約80人が学校周辺をデモした。(中略)前日から学内に結集していた全共闘は全員ヘルメットをかぶり学館前の市道でデモをくりひろげた。一方当局は4時すぎ機動隊約300人を学内に導入。官憲に守られた卒業式となった。4時半すぎ、正門前で機動隊とこぜりあいがあり、2人が道路交通法違反で逮捕された。このあと再結集しようとした全共闘の後方から機動隊が襲いかかり、また2人が逮捕された。これに乗じて右翼学生が全共闘学生になぐりかかり、数人が負傷した。」(同559号)
8/4五学部封鎖
「3日夜、参議院での大学立法強行採決に抗議し、小寺学長代行改革案に反対して4日8時すぎから、全共闘約100人は法・商・軽・文・神を封鎖した。(中略)全共闘は各学部前で抗議集会を開き、『政府の強権的な大学直接介入を粉砕し、11月佐藤訪米阻止・70年安保粉砕を戦い抜こう』と訴えた後、学内デモをくりひろげた。前日の大学立法強行採決のためか、各学部100人ずつくらいが討論に加わっていた。」(同559号)この日「大学立法粉砕・全国全共闘統一行動」が大阪(大阪城公園)でも開催(600人)され、関学全共闘は150人で参加した。
なおなお社闘委はこの日の闘争には参加しなかった。また経済学部(森ゼミ)、社会学部(森川ゼミ)が「大学立法反対」のゼミ決議を呼びかけ10を越えるゼミが続いた。
8/11反博最終日御堂筋デモ
「大阪城公園で開かれていた『反戦のための万国博』最終日に当たる11日、約5千人の学生と地区反戦の労働者及び市民、べ平連約5千人の計1万人が参加し大規模なデモがくりひろげられた。(中略)関学からは全共闘など150名が結集し、午後4時中央芝生で集会をもち、5時すぎ学院を出発、御堂筋デモに向かった。」(同560号9月1日)
8/28神戸入管デモ
「『任錫均氏を支持する会』は『出入国管理法案粉砕』『任氏の政治亡命を勝ち取ろう』と、8月28日午後6時より神戸市役所前において集会を開いた。この集会には、地区反戦青年委員会、べ平連、京大、神大、関学大などの関西の各大学全共闘約800名が結集した。(中略)なおこのデモでの逮捕者は8名。」(同560号)そして8月29日商闘委のK君(商4年)が自宅で逮捕された。同君は7月全学連(反帝学評系)副委員長に選出されている。5月に事後逮捕されたH商闘委委員長とともに、関学全共闘、反帝学評に対する組織壊滅を狙ったものである。
9/1法学部本館封鎖
授業再開が6月30日であっため、この年夏休みはないといわれていた。然しそれでも夏休み(8/13~31)はあった。その休み明けの9月1日。
「夏休み明けの1日法学部本館が封鎖された。午前8時ごろ、反帝学評及び法学部闘争委員会の学生約20名によって法学部本館が封鎖された。」(同560号)反帝学評は9・5全国全共闘連合結成のためとした。その反帝学評は関学内でも「革労協結成政治集会」を開いた。反帝学評は社青同解放派と他派(社青同国際主義派など)との緩い大衆組織であったが、革労協結成によって解放派内の左派のみの組織に純化した。
9月5日全国全共闘連合結成大会が日比谷野外音楽堂で開催された。全国の178大学から全共闘と党派3万4千人が結集した。議長山本義隆(東大全共闘)、副議長秋田明大(日大全共闘)だが、実態は書記局員の構成(中核派、社学同、反帝学評、学生インター、ML派、フロント、プロ学同、共学同と東大全闘連)に明らかなように8派共闘に他ならなかった。「来るものは拒まず、去る者は追わない」のが全共闘の流儀であった。然し結成されたばかりの赤軍派は連合ブントによって入場を拒まれた。革マル派中心の東神大、国学院、ICU全共闘には招請状すらなかった。関学全共闘150人も参加したが発言の機会もなかった。(この稿続く)
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