2016年10月13日木曜日

「図説シルクロード文化史」を読む

      「図説シルクロード文化史」 ヴァレリー・ハンセン 原書房 2016年

 東洋と西洋を結ぶ中央アジアの砂漠の道を「シルクロード」と名付けたのはドイツの地理学者リヒトフォーヘンである。本書の著者はこのスーパーハイウェイに実にユニークな指摘をしている。本書が扱うのは「中国と西洋の交易のはっきりした証拠が現れはじめる」2~3世紀から「敦煌とホータン出土文書の最後の年代」である11世紀のはじめまでである。
(「シルクロード」について) 
 「シルクロード」は古来から人々が往来する一本の連続する道と思われてきたが全く違う。機上から眺めたとしても見えない。それは実際の道ではなく、「広大な砂漠と山岳地帯をつらぬく、標識もない、つねに変化する道筋のつらなり」であったと著者は言う。つねに道筋が変わるので、旅人は行程の区切りごとにガイドを雇わねばならなかった。そして、ほとんどの旅人は「自分の住むオアシスから次のオアシスへの500キロほどを旅するだけで、それより遠くへはいかなかった」のである。したがって、その商品取引も地区ごとの微々たる量の取引であった。「シルクロード」を象徴する絹も数多い商品の中の一つに過ぎなかった。それ故この土地に住む当時の人々はこの道を「シルクロード」とは呼ばなかった。
 然し紀元前後に漢王朝が西域に軍隊を派遣・駐屯させてから事情が変わった。兵士達の報酬として絹織物を使ったので、これらの地域に大量の絹が流入した。それは唐王朝の時ピークに達する。730~40年代にこの地域の四つの駐屯地に送り込まれた絹織物は毎年90万疋に達した。この絹は現地で様々な商品(生活必需品)と交換された。この期間が「シルクロード」が最も輝いた時代であった。そして唐王朝が西域から召喚した755年以降この地域は自給自足経済に戻っていった。
(ガンダーラからの移民)
 紀元200年頃「シルクロード」を通って最初の移民がガンダーラからやってきた。現地ではクロライナと呼ばれたローランやニヤに定住した。中国名で「鄯善」と呼ばれた地方である。その規模は一回では最大でも100人程度であった。移民の波は何度かあった。高度な技術を持った移民が、ニヤなどの支配者を倒して新国家を建設した可能性を著者は否定する。この指摘は重要である。かくして長澤和俊のクシャン朝遺民団による「鄯善第2王朝説」は明確に否定される。その根拠の第一はラバータク碑文の解読によってクシャン朝の王統の継続性が確認されたことである。第二はニヤ出土文書解読による王の名前と書記の名前の分析である。王の名前がすべて現地人であるのに対し、書記の名前はすべてガンダーラ人であった。移民がもたらしたのは文字体系(カロシュティー文字)と木簡を作る技術であった。クロライナの住民はそれまで自らの言語を表現する文字を持たなかったのである。
(トカラ語について)
 1908年ドイツの言語学者ジークとジークリングは、現在「トカラ語」として知られる未知の言語の解読に成功した。この言語はトカラ語A (アグニ)、トカラ語B(クチャ)、トカラ語C(ローラン)としてかつてタリム盆地北東辺で使われていた。トカラ語は遊牧民族月氏(クシャン)が話した言語であると言われている。「月氏は甘粛を離れるときにはトカラ語を話していたが、その後アフガニスタンにやってきたときにバクトリア地方で使われていたイラン語に切り替えたのだと主張する研究者もいた。しかし月氏の子孫がニヤにたどりついたときには、彼らはまた別のガンダーラ語を話していた」と著者は指摘している。このトカラ語はインド・ヨーロッパ語族群の一つであるが、近隣のインド語やイラン語とは遠く、最も西のケルト語と近いことが分かってきた。何故タリム盆地の一角でこの言葉が使われていたかは不明である。遠い昔の民族移動によって生じたと推定されるに過ぎない。
 本書は中央アジアのニヤ、クチャ、トルファン、ホータン、ソグディアナのオアシスと中国の敦煌、長安など7つの都市の遺跡と出土資料を紹介・解説している。その結論とは次のようだ。「シルクロード」の交易は小規模であっが、その陸路を人が移動することによって東西の文化交流がおこった。最大の影響力を持ったのが難民、移民であった。そして彼らは最初の仏教徒でもあった。たしかに本書に描かれた時代が、「シルクロード」という言葉が使用されるに最もふさわしい時代であった。

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