「私を通り過ぎたスパイたち」 佐々淳行 文芸春秋 2016年
本書には驚愕すべき事実がさりげなく書かれている。あの瀬島龍三が「ソ連のスパイ」というのである。瀬島は大本営参謀・陸軍中佐、11年間のシベリア抑留にもかかわらず不屈の非転向を貫いた「不毛地帯」の主人公にも擬せられた。その後伊藤忠会長、第二次臨調委員として国鉄民営化などに辣腕をふるい、中曾根内閣のブレーンのみならず歴代内閣の「参謀総長」として君臨し続けた。そして昭和59年勲一等瑞宝章の栄誉に輝いている。その瀬島がスリーパーとしてソ連に協力することを約束した「誓約引揚者」だというのである。
(瀬島龍三とは)
瀬島は11年間のシベリア抑留を終えて昭和31年8月19日ソ連から帰還した。32年には伊藤忠に入社する。就職の斡旋をしたのは元内閣書記官長の迫水久常である。戦前元首相岡田啓介を中心に、岡田家、迫水家、松尾家、瀬島家の間で官僚・軍人の閨閥ができていたのである。
この頃は迫水が四家の家長的存在であった。伊藤忠は防衛庁商戦に参入するための戦力として瀬島に期待していた。
瀬島の最初の成功はバッジシステム導入商戦の逆転勝利である。優勢だった米GE-三井物産をおさえて米ヒューズと組んだ伊藤忠が受注したのである。それを皮切りに戦後賠償(インドネシア、韓国)商戦に介入して成果を上げた。36年に業務部長、翌37年取締役業務本部長。38年常務取締役となり、53年には会長にまで昇進している。同年東商特別顧問となり財界活動を開始する。そして56年第二次臨調委員となり、中曽根内閣成立後は総理府臨時行政改革推進議会委員として、総理の「参謀総長」としt辣腕をふるう。なお「行革」に専念するため伊藤忠相談役に就任している(56年6月)。中曽根に瀬島を紹介したのは東急グループの総帥五島昇である。
(東芝機械事件)
昭和62年東芝機械のココム違反事件が発覚した。東芝機械がココム規制に違反して大型工作機械を第三国のノルェーを迂回してソ連に不正輸出していた。不正輸出した五軸大型スクリュー工作機械によってソ連原潜のスクリューの形状が変わり、米海軍はスクリュー音の感知ができなくなった。米国防長官の強硬な抗議によって、警視庁は時効すれすれの2件を立件した。「外国為替及び外国貿易管理令違反」により、東芝機械は企業として罰金200万円、同社材料事業部長懲役10か月執行猶予3年、工作機械事業部工作技術部専任部長に懲役1年執行猶予3年の有罪判決がでた。然し親会社東芝と斡旋した伊藤忠には刑事責任は届かなかった。東芝の佐波会長と渡里社長が道義上の責任をとり辞任。伊藤忠は瀬島を相談役から特別顧問に形式的に降格したのみであった。この不正輸出を強力に主導したのは瀬島であった。事件が発覚しなかったら「スターリン勲章」ものの大仕事であったと著者はいう。
(瀬島龍三の秘密)
この事件で瀬島はからくも逃げ延びた。「黒幕は瀬島龍三氏であり、何らかの政治的社会的制裁を加えてしかるべし」という著者(当時は内閣安全保障室長)の意見具申は通らなかった。然し捜査の結果から瀬島の過去の秘密が改めて浮上してきた。かつて著者がラストボロフ事件の残党狩りをしていた時、KGBと不審接触した日本人の中に、伊藤忠ヒラ社員の瀬島がいた。当時瀬島はあまりにも「小物」と判断され、深く追及しての捜査対象にはならなかったのである。以下著者と後藤田長官との対話。
(後藤田) 「瀬島龍三氏のことになると佐々君はバカに厳しい。中曽根さんの経済問題の相談 役なのに、なんで悪口ばかり言うのか」
(著者) 私は警察庁の元外事課長ですよ。KGB捜査の現場の係長もやったんです。瀬島がシベリア抑留中、最後までKGBに屈しなかった大本営参謀というのは事実ではありません。彼はスリーパーとしてソ連に協力することを約束した『誓約引揚者』です」
(後藤田) そうか。瀬島龍三は誓約引揚者か」 (本書P178)
瀬島はブレーンとして中曽根の周りにつきまとい、それをツイタテにして「ソ連のスリーパー」としての追及をかわそうとしていた。著者によれば、会議で同席することが多かったが、なぜか目をそらしたという。そしてお世事めいた手紙をよこしたこともあったと。
その瀬島に対して昭和天皇は田中清玄に次のように語っている。「許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全てに渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし、戦争責任の回避をおこなっているものである。瀬島のようなものがそれだ。」(「田中清玄自伝」(ちくま文庫P309)そして田中は中曽根に瀬島のような男を重用することを注意したという。彼によれば瀬島とゾルゲ事件の尾崎秀美は感じが同じだという。また保坂正康「瀬島龍三 参謀の昭和史」には、中曽根が58年に訪米した時に米国の高官が「あなたの傍から、ミスター・セジマを離しなさい」と伝えたともいう。
瀬島はかつて大本営参謀として、ジュネーヴ条約の存在を隠して下級将校や下士官・兵に「戦陣訓」をタテに投降・捕虜になることを禁じ、死を強制した。自らは虜囚となったことを恥じず、喜々として勲一等瑞宝章を受章したのである。
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