「近代日本の人類学史」 中生勝美 風響社 2016年
戦後の京大学派の総帥と目される今西錦司についての一つのエピソードがある。1943年10月東北帝大文学部助教授に転任する桑原武夫の送別会の帰り道、加茂川の葵橋たもとのことである。「クワ、俺はやるぜ」と言った今西の言葉を桑原は回想している。その意味は、好きな探検や山登りのためなら「軍とでも手を結びまっせ」ということだと、桑原は解釈している。桑原は人も知る反軍思想の持主である。その桑原に今西はこう言ってのけた(「今西錦司伝」斉藤清明)。そして44年4月張家口に設立された西北研究所の所長に今西は迎えられた。
西北研究所でなぜ自由な研究が保証されたのか。それは当時の戦争遂行計画が関わる。ソ連との国境近辺に居住していたオロチョン、ダフール、そしてムスリム宣撫工作がなによりも重視されていた。モンゴル民族に対しては食糧と家畜の増産が政策目標とされるに過ぎなかった。こうした事情により軍事的空白地帯として自由な研究が許されていた。
然し西北研究所が直接的に戦争と関係していた事実を著者は本書で指摘している。それは京都帝大同窓生による軍部との関係であった。その中心人物が篠田統(1899~1978)である。
(篠田統とは)
篠田は京都帝大理学部化学科卒、動物大学院に進学後、オランダ(ユトレヒト大学)、ドイツ(ミューヘン大学)、イタリア(ナポリ水族館)に留学。1938年から陸軍技師として関東軍に所属し昆虫防疫を担当した。1940年から北支軍軍医部所属、1945年北京衛生試験所技師、同年12月内地に引揚(逃亡)、戦後は大阪学芸大教授を務めた。軍属時代の痕跡を隠すため専門を食物学
にかえた。動物科出身の篠田は、同じ研究室の先輩今西と親交があった。篠田がいた北京衛生試験所とは、中国の微生物研究所を接収したもので北京市内の北海公園にあった。それは1938~45年の間、表向きは「北京防疫給水部」と名乗っていたが、実は1855部隊と称する細菌戦部隊の一つであった。第三課あるいは篠田部隊と呼ばれた。篠田はその責任者で大佐級の軍属であった。篠田部隊の任務はペスト菌を持ったノミと破傷風をもったハエの培養で、人体実験も行っていた。
(タイプス左翼旗調査旅行)
1945年6月、篠田が隊長として一個分隊を率いてタイプス左翼旗までの調査旅行を実施した。名目は内モンゴル草原の「生物相」の調査。この調査に西北研究所の今西と梅棹忠夫(篠田の後輩)が同行した。この時の調査で捕獲した動物は少量で、「この奇妙な作戦」を梅棹は「軍隊を使って自分の好きな研究をしている」と能天気に回想している。然しこの場所は、ソ連軍がモンゴルから満州へ進撃すると想定された通過ルートで、実際ソ連軍はそのルートで張家口に侵攻した。この地域での生物相や、ペストノミを植え付けた齧歯類の調査は細菌戦にとって不可欠の研究であった。中国側の記録では、1945年8月21日王爺廟(ウランホト)でソ連軍兵士がペストに感染して死亡したとある。また1947年から49年に旧満州西部から内モンゴルにかけてペストが大流行したという。
西北研究所にいた藤枝晃は篠田が中国で従事した仕事(細菌戦関係)について「おぼろげながらわかっていた」と認めている。藤枝と梅棹は回想録でタイプス左翼旗への篠田隊との同行について言及している。然し今西は沈黙している。「健筆家の今西が、自分の論文で1945年6月の篠田隊に同行したことを全く触れていない点には疑問が残る」と著者はしている。そして戦時中の研究を戦争協力という単純図式で全面否定はできないと留保しながら、西北研究所について「学問と戦争の関係を考える上で大きな問題を提起している」と言う。なぜなら戦時中の西北研究所での活動こそが、フィールドから理論構築する戦後の京都学派の出発点だったからである。
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