2016年1月25日月曜日

謎の民族月氏を探る

   「大月氏~中央アジアに謎の民族を尋ねて」 小谷仲男 東方書店 1999年

 月氏は中央アジアの謎の遊牧民族である。その「月氏」の名称は「菅子」に見える「禺氏の玉」の「禺氏」と同音であり、その存在は春秋戦国時代にまでさかのぼれる。「禺氏の玉」の意はホータン付近で産出する軟玉を月氏が仲介貿易して中国に転売したことによる。さらにプトレマイオス「地理誌」に見える「カシ」((Casii)の国名はqasch(玉)に由来し、その「カシ」は「禺氏」(月氏)だと江上波夫は指摘している。月氏には二つの顔があると本書の著者は云う。一つは秦・漢の時代に中国辺境に出現し、モンゴル高原の匈奴と覇を争った中央アジアの遊牧民としての顔である。もう一つは、月氏がアム・ダリア流域に移動した後、その勢力の中から勃興したクシャン王朝大月氏である。一般的にはこの二つの月氏は同一民族と考えられているが、研究者の中には月氏とクシャン王朝を別個のものとする考え方もある。本書はこの月氏の謎を解き明かす。
 (月氏の西遷)月氏の名前が中国記録に明確に登場するのはBC176年である。この年匈奴の冒頓単于は月氏を大破した。敗れた月氏はしばらく敦煌付近に留まっていたが、BC161年匈奴の老上単于によって、その王を殺害され西方への移動を開始した。史上西遷したものを大月氏、その付近(ツァイダム盆地)に留まったものを小月氏という。「史記」(大宛伝)によれば、中国辺境を追われた月氏はアム・ダリア流域に落ち着き、その北岸に王庭を置いた。その経路については大宛(フェルガーナ)を通過したとしか述べられていない。著者は月氏が遊牧民ならイリ河流域からナリン河流域に入り、大宛に至ると推定している。そしてパミールを越えアム・ダリア上流に移動したとしている。近年ウズベキスタンの女性考古学者ブガチェンコワはスルハンダリア流域に位置する都市遺跡ダルヴェルジン・テペを発掘調査し、大月氏の王庭に比定している。そして同時にクシャン部族の居城であるともしている。
  (大月氏の五翕候)大月氏はその後(BC145年頃)アム・ダリアを渡り大夏(バクトリア)を攻撃・征服した。ストラボンの「地理誌」が伝える東方のスキタイ(サカ)によるギリシャ人バクトリア王国の滅亡とはこのことを意味している。Tochriと称される東方のスキタイ人こそが大月氏であると著者は推定している。1961年以降フランス隊などによって発掘されているアイ・ハヌム遺跡はこの時襲撃されたギリシャ人都市である。アイ・ハヌムはウズベク語で「月姫」の意で、その王妃の名前に由来する。アム・ダリア南岸、コクチャ河の分流点に二河に挟まれた三角形の台地上にある。大夏を征服した大月氏は、「漢書」(西域伝)によれば、その地に五翕候を置いた。翕候とは部族長もしくは小君長の意である。すなわち休密、双靡、貴霜(クシャン)、高附、肸頓である。翕候については大夏に分封された大月氏の支配層か、それとも大月氏から支配権を承認された現地の小君長かの両説がある。そしてこの貴霜翕候からクシャン王朝が出現した。すなわち貴霜翕候の丘就卻(クジュラ・カドフィセス)が他の四翕候を滅ぼし、自ら王を名のりクシャン王朝を建設した。
 (ラバタク碑文の発見)1993年アフガニスタン北部のバグラーン州で発見されたラバタク碑文は大月氏=クシャン朝の謎を解明する重要な史料となった。この碑文はカニュシカ王が命じて建てられたもので、クジュドラ・カドフィセスからカニュシカ王まで、すべて父子継承の同一王朝であることが記されている。これによってクシャン第一王朝、第二王朝説が成り立たないことが明白になった。そしてこの碑文の3~4行目に、カニュシカ王がギリシャ語で書かれた詔勅をアーリア語に書き改めさせ、発布したことが記されている。アーリア語とは土着のバクトリア語である。バクトリア語は大夏定住民の言葉である。然し同種の言語を持つ遊牧民も存在し、それがクシャン人である。クシャン人の原郷がアム・ダリア流域とすれば、クシャン人は大月氏もしくはその一部と推定される。月氏もクシャン王朝もともにアム・ダリア流域を本拠とした同一遊牧民集団であった。E.C.バンカーによればアレクサンダー大王の東方遠征によってバクトリア周辺の遊牧民族が圧迫され、東に押し出されたのが月氏であった。彼らは強力な軍事力を持つ騎馬民族であった。そのうち中国辺境を征服したのが月氏であった。遊牧より商業活動に従事した。匈奴との抗争に敗れ、勢力の本拠をアム・ダリア流域に引き上げた。バクトリアのギリシャ人を追って西北インドとの関係を深めた。月氏・クシャン人こそシルクロード上に輝いた最初の騎馬民族であった。
 本書の意義の第一は月氏の原住地を確定したことである。月氏の西遷とは本拠地への撤退に過ぎなかったのである。第二はクシャン王朝の出自を明らかにし、大月氏とクシャン朝の同定をしたことである。「後漢書」が新興大国「貴霜王国」を大月氏の名で記録したのは単なる尚古主義ではなかったのである。そして第三は所謂クシャン第一、第二王朝説を否定して、同一王朝の連続性を実証したことである。然しまだ解明されていない謎もある。例えばトカラ語についてである。すなわちタリーム盆地でかって話されたトカラ語A(カラーシャル)、B(クチャ)、C(楼蘭)と月氏の関係である。

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