「満州航空~空のシルクロードの夢を追った永淵三郎」杉山徳太郎 論創社 2016年
1936年ベルリンで「日独満航空協定」が満州航空とルフトハンザの間で締結された。東京・新京とベルリンを空路で結ぼうというもので、いわば「大空のシルクロード」である。然しこの日付に明らかなように、同年11月8日には既に綏遠事件が勃発しており、日中は全面的軍事衝突に向かいつつあった。この構想を実施する物質的基礎を全く欠いていたことは拙稿「大空のシルクロード」で触れたところである。この協定ではドイツ側はベルリンからカブールまで、日本・満州側はカブールから新京(東京)までを担当することになっていた。日本機はこの空路をついに飛行することはなかったが、ドイツはベルリンからなんと西安まで試験飛行を実施していたのである。本書にはこの試験飛行の詳細な記録が紹介されている。また関東軍の対回教軍閥工作失敗の真相も示唆されている。
(ベルリンから西安へ)
1937年8月ルフトハンザは新鋭機ユンカースJu-52型機で、ベルリンと西安間の試験飛行を敢行した。一番機の機長はガルブレンツ男爵で、操縦士ロベルト・ウンフツト、無線技師カール・キルヒホフである。二番機は機長ドクセル、操縦士テッテンボルン男爵、無線技士ヘンケである。強力発動機(BMW-ホーネット132L型)を搭載していた。ガソリンは翼面タンク収納(2500リットル)以外に510リットル缶5缶をキャビンに積み込んだ。
8月14日未明ベルリン(テンベルホール飛行場)を離陸し、10時間後ロードス島に到着した。(2250キロ)15日早朝離陸後、給油のためダマスカスに立ち寄り、バクダードに向かった。16日早朝バクダードを発ち、テヘラン飛行場に向かった。ここで2日間休養した。18日テヘランを出発し、7時間後1700キロ離れたアフガニスタンのカブール飛行場に到着した。ここで搭乗員に対する歓迎宴が開かれ、機はパミール越えに備えて入念に整備された。24日未明カブール飛行場を離陸した。ここから難関のワハーン、パミールの天険を飛翔するのである。ワハーン回廊の西側の出口アンジュマン峠(4422米)に、ルフトハンザは1年前から測候所を設置して、パミール高原の気象を観測していた。ゼバックを過ぎてイシュシカムのあたりからワハーン回廊が始まる。ワハーンは東西300キロ、南北は最も狭い部分では10キロに満たない。北にはパミールの山、南にはヒンドゥークシュの高山が聳えている。この上を飛行するのは、まるで氷のトンネルを抜けるようである。回廊の中央を眼下に見ながら飛行を続けると、ワクジール峠(4907米)が前方に見える。ここを飛び越えるると中国新疆省に入る。北方に変針して、タクトバッシュ・パミールを北上すると高度は5千米に達している。左手前方にムスタグ・アタの白い山容が見える。しばらく飛行すると眼下にタッシュクルガンの石頭城が見えてくる。山脈を越えて徐々に高度を下げるとヤルカンド上空である。ここで機は方向を東に変え、西域南道に向かって飛ぶ。ホータン・オアシスが大海の小島のように見える。荒涼たるロプ砂漠上空にさしかかるが、この時ロプノールは水を満たしていた。こうして機は安西を経由して粛州飛行場に到着した。カブールから粛州まで1日で飛行したのである。カブールと安西間は無着陸である。そしてガルブレンツは馬将軍に喝見し、ここで2日間休養した。粛州から西安までは約1千キロ、もうすぐである。この年7月7日盧溝橋で日中両軍が衝突し、両国は戦争状態に突入していった。新京や東京への空路は閉ざされていた。西安は事実上の飛行の終着点であった。
(回教軍閥工作失敗の真相)
粛州でガルブレンツが会った馬将軍とは粛州の旅団長馬歩康である。馬歩康は馬虎山の元部下であったが、その頃は青海省の馬歩芳の軍門に降っていた。馬虎山は1934年8月にはホータンを占領して「東干国」を設立していたが、1937年8月頃、ウルムチ政府との戦闘に利あらず、数人の側近と英領インドのレーに逃亡していた。関東軍(大迫武夫)が安西飛行場使用のため工作していた回教軍閥とは、馬虎山(そして馬歩芳)であったかもしれない。満州航空の第二次ガソリン輸送隊は、馬虎山が放棄した安西に向かっていたのである。この間の事情を知っていた馬歩康が押収物を馬歩芳に送ったと著者は推測している。関東軍は馬虎山との友好関係に期待を抱いていた。馬虎山はウルムチ政府(国民党政府)に対抗して、粛州からホータンまでの西域南道を一時的に支配下に置いていた。関東軍は馬に安西飛行場の使用許可を求め、馬もこれを認めていた。だが馬の逃亡により水泡に帰したのである。
然し、たとえ回教軍閥による安西飛行場使用許可があったとしても、飛行する空域は国民党政府の領土主権の上空である。日中航空交渉が進捗しない状況下では非合法である。関東軍の防共回廊工作や満州航空のシルクロード構想の「空想性」には実に驚くべきものがある。一方ドイツは国民党政府とも友好関係を維持しており、飛行の物理的基盤を有していたのである。
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