「日本陸軍と内蒙工作」 森久男 講談社 2009年
「15年戦争説」を唱える「進歩的歴史学者」は、日本陸軍の長期間に及ぶ中国侵略には、その背後に日本軍の中国侵略計画・陸軍軍人の中国侵略思想があったと見做している。例えば「日本には1931年9月から、東北だけでなく華北も支配しようという計画が一貫してあっただけでなく、それを実現するために軍事的圧力と政治工作をくり返し実行していた」’安井三吉「柳条湖事件から盧溝橋事件へ」研文出版 2003年)など。これは結果から原因を類推する方法で、陸軍軍人の内在的論理に対する考察が欠如していると著者は指摘する。1930年代の統制派に属する支那通軍人は伝統的な「志那分治論」に加えて、中国がソ連に加担する前に打撃を与えるという「中国一撃論」を体系化していた。
関東軍は自らの担務でない華北分離工作に走った。それは親補職である大将を軍司令官に擁する関東軍は、軍司令官が親補職の待遇を受けない少将の支那駐屯軍を見下しており、「わが友軍」として手下扱いしていたからである。陸軍中央は華北分離工作の既成事実をしぶしぶながら承認した。然し関東軍の内蒙工作を条件付きで承認する一方、華北工作の権限を支那駐屯軍に移した。その結果、関東軍は欲求不満のはけ口として、急進的な内蒙工作に邁進することになる。外蒙・ソ連からの赤化防止のため、中央アジアに防共回廊を建設し、日本・満州とドイツを空路で結ぶという欧亜連絡航空路構想が内蒙工作に拍車をかけた。アラシャン・オジナに特務機関を進出させて、ゴビ砂漠地帯に補給基地を設営する。甘粛・青海の回族軍閥を懐柔して、安西に中継飛行場を確保し、さらに新疆地方に進出しようというものである。綏遠事件を誘発する原因となった。そしてこれが関東軍の中国一撃論の最終到達点であった。
然しその前に内蒙の状況を概観してみよう。辛亥革命以降も伝統的な盟旗制度は維持されていたが、1928年9月国民政府は熱河・チャヤハル・綏遠に省制度を施行した。その結果蒙古族・漢族両者が共存する雑居地帯で二重権力・二重行政による矛盾が拡大した。盟旗には統一自治組織がなかったので、省・県の圧力には対抗できなかった。なおかつ盟旗制度の法的行政機構としての法的根拠も失われた。ここにジンギスカン30代目の末裔を称するシリンゴル盟副盟長・西スニト旗長の徳王(ドムチョクドンロブ)が現れ、シリンゴル・ウランチャブ・イクジョウ3盟による内蒙高度自治運動の推進を目指した。すなわち1933年7月26日に第一回百霊廟会議を開催し、内蒙自治政府設立の許可を求める自治通電を国民政府に打電した。
関東軍は最初索王をチャヤハル工作の対象としていたが、百霊廟会議以降俄然徳王に注目し始めた。土肥原・秦徳純協定によって宋哲元軍が外長城線以北から撤退することにともない、徳王の動向を監視する滂江駐屯部隊も撤収した。そのため関東軍と徳王の連絡も容易になった。「協定」の条項には「チャヤハル省内に於いて飛行場及無線電信設置を許可」という一項が含まれていた。関東軍は徳王にスーパー機(米国製フオッカー・スーパー・ユニバーサル機の改良国産型 乗員2名、乗客6名)を専用機として贈呈した。燃料、パイロット、機関士も提供した。徳王は当初国民政府の力を借りて自己の勢力拡充を考え、日本側を適当にあしらうという二面政策をとっていた。然し蒋介石に武器を要求しても少量しか与えられず、なおかつ「地方自治」しか許されないので、次第に日本側に傾斜していった。おりから綏遠省との阿片通行税徴収をめぐる紛争などで、徳王のみならず雲王も蒙政会が国民政府から離脱して日本に依存することを決断した。1936年1月22日徳王はチャヤハル部を盟に改組してチャヤハル盟公署を設立した。国民政府はそれに対抗して、ウランチャブ、イクジョウ各盟旗、帰化トムト旗、チャヤハル右翼4旗、綏東5県を領域とする綏境蒙政会を設立した(委員長沙王 1936年2月23日)。そして百霊廟蒙政会の委員を兼務することを禁止した。なおかつ百霊廟蒙政会にはチャヤハル移転を命じた。かくして百霊廟蒙政会は国民政府側の綏境蒙政会と徳王の蒙古軍政府(旧蒙政会)に分裂した。南京は徳王の蒙古軍政府を察境蒙政会と読み替えて、察北になお国民政府の地方政庁が存在するという体裁をとろうとした。
(綏遠事件)徳王は関東軍の支援を利用して内蒙西部で、高度自治運動を進め支配領域を拡大したが、その勢力は綏遠省南部には及ばなかった。そこで関東軍第2課の田中隆吉参謀は、綏遠省主席傳作義に対し、特務機関の設置と「共同防共」を申し入れた。傳は特務機関の設置は受け入れたが、国民党関係機関の省外への撤収などには応じなかった。のみならず2万5千の兵力を綏東地区に集中し抗戦に備えた。これに対し田中は素質の悪いゴロツキなどをかき集めて漢族謀略部隊(王英軍10500人、張万慶軍3000人)を編成し綏東のホンゴルトを攻撃した(1936年11月15日)。満州航空の支援爆撃を受けながらも王英軍の士気は低く、綏遠軍の反撃に察北へ敗走した。さらに綏遠軍は蒙古軍第7師が守る百霊廟を攻略した。7師と日本軍特務機関は敗走した(36年11月23日)。この綏遠事件の敗北で関東軍の防共回廊工作は水泡に帰した。のみならず内蒙工作も危機に瀕した。綏遠事件の勝利は中国の民族主義を刺激し、西安事件(36年12月12日)を誘発する。これにより田中と徳王はなんとか事態収拾の糸口をつかむことができた。
綏遠事件は関東軍第2課かぎりの謀略であるという。当時台湾軍司令官であった畑俊六は日誌に「関東軍の田中中佐あたりが中心となりある様なれば、頗る以って怪しきものなり。恐らくは十分中央の了解を得てやりあることにはあらざるべし」と記している。この田中隆吉は第1次上海事変の演出者であり、終戦後の極東国際軍事裁判では検察側証人として、自己の免責と引き換えに「侵略の共同謀議」を証言した張本人である。この「昭和史の謎を追う」シリーズもようやく、昭和史の黒い影正体のほんの一端をとらまえたというべきだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿