2014年8月4日月曜日

「シルクロード史観」論争その後②

 「『シルクロード史観』再考」(「史林」91-2所載) 間野英二  2008年

 前稿(「シルクロード史観」論争」)で一方の当事者間野英二が護雅夫の批判を黙殺したため、この論争は継続せず「すれ違い」で終わったと述べた。然し近年間野が護の弟子筋にあたる森安孝夫「シルクロードと唐帝国」に対する再批判を発表している。一般にはなじみの薄い学術誌掲載論文なので簡単に論点を紹介する。
 間野は森安のこの批判(①シルクロードの抹殺反対②イスラム化強調への疑問)について、これは一方的な曲解であって当たらないとする。すなわち①については「シルクロード」が、地域を指す言葉としてはあまりにもあいまいな言葉であるため、研究者が地域を指す言葉として、研究論文などで使うことには賛成できない。然しマスコミや出版社・旅行社が使うのは自由であるとする。②については東トルキスタンのイスラム化の時期を15世紀とする森安に対し、カラ・ハン朝の成立期(9-10世紀)を以て対置する。森安が東トルキスタン東部のトルファン(ここのイスラム化は15世紀までずれ込む)に視点を置いて批判するのは客観性に欠けるとする。ここに視座を置いて30年前の研究視角をとるのは、畢竟イスラム史料を十分に利用することができないからだとも。そして「シルクロードと唐帝国」のような一般読者を対象とした書物で、曲解に基づく一方的な批判は慎むべきだという。然しこれはやや疑問である。間野が「シルクロード史観」を批判したのは、同様の一般読者を対象にした「シルクロードの歴史」においてである。
 そして「シルクロード史観」についての現在の考えを述べている。まず松田寿夫の「シルクロード史観」について「隊商路としてのシルクロードの存在が、中央アジアのオアシス都市の死命を制するものであり、シルクロードの存在なくしてオアシス都市の繁栄をありえない。シルクロードの存在が中央アジアそのものの死命を制する」と定義する。同時に「オアシス都市の商人たちの活動の意義をあまりに過大視するのは問題」とする。すなわちオアシス都市の基本的性格の認識として、松田(森安も)は隊商貿易依存説であり、間野は農業依存説である。然し二者択一ではなく、どちらがより基本的で、より重要であったかという比較の問題であるとする。この問題については、この30年間研究はほとんど進んでいないともいう。
 また「ソグド地方を中心とするオアシス都市を、もっぱら商業都市、隊商都市と規定することは行き過ぎであろう」が、ソグド商人の国際的活動は紛れもない事実であるともする。その商業活動については、①何故乗り出したのか②蓄積した富の行方③商人の地位④隊商の規模と頻度などすべて不明だという。松田の「人口余剰説」を踏襲した森安の「地元経済活性化説」は、ソグド人の隊商貿易が大規模で頻雑に行われたという架空の前提にたって築かれたとする。なお間野はこの中で「ウイグル文書に登場するのはほとんど農民で、隊商貿易に従事する商人の姿をそこに見出すことはできない」という森安が指摘した事実誤認をひっそりと認めている。然しこのやり方はフェアーではない。
 間野は「中央アジアの歴史」で中央アジアを「シルクロードの世界」ではなく「草原とオアシスの世界」としたが、そうであったのは前近代までであるという。中央アジア史には、前近代と近現代の間に大きな断絶がある。イスラム化した中央アジアが近現代に異教徒の国である清やロシアの支配下に入り、独立を失ったという政治的意味においてである。中央アジアの通史を、何を軸に描くべきかという根本的問題について、「解答を見いだせない」という展望喪失状況を吐露している。これはとりもなおさず現在の中央アジア史研究者の立場の困難さを示している。「シルクロード史観」派、「脱シルクロード史観」派ともに「ウイグル独立問題」などで踏絵を拒めないという状況がある。

0 件のコメント:

コメントを投稿