2012年12月2日日曜日

再び大谷探検隊について 

   「大谷探検隊研究の新たな地平」 白須浄眞 勉誠出版  2012年


 
 2001年著者は大谷探検隊に関する外交記録を外交資料館で見出した。その内容は実に驚くべきものだった。従来の大谷探検隊研究の成果を更に前進させる宝庫でもあった。著者は前著「大谷探検隊とその時代」で大谷隊の成果を「内陸探検の時代」と「日本近代史」の歴史的重層の所産であったと総括し、何故「忘れられた大谷探検隊」になったのかと疑問を呈した。この謎を解く鍵が外交記録の中にあった。
 外務省は何故大谷探検隊に関する外交記録を作成したのか。その理念は別としても大谷探検隊のアジア広域調査活動は、自己の勢力を扶植し守ろうとする英・露・清を中心とした各国の利害対立の舞台に飛び込むことになり、疑惑を招くのは当然であった。それは国際問題化した大谷探検隊の外交処理のためであった。
 大谷探検隊に対する露国外務省の抗議は既に第一次隊(1902~4年)から始まっている。これは日露開戦前という時代背景を考えれば当然である。そして1905年の日露戦争の終結は永年の英露対決に終止符をうち、英露協調(1907年英露協商)に転換した。チベットを情勢にも大いにに影響し、英露両国のチベットへの不干渉と清国のチベットに対する宗主権は国際政治社会で容認された。おりしも大谷光瑞は1908年山西省五台山に留まっていたダライラマ13世とのコンタクトに成功した。それは光瑞の思惑とは別に、彼が明確に国際政治舞台に登場したことを意味した。主催する大谷探検隊も同様に思われた。英露協商によって空白となったチベットに日本が介入するとみなされたのだ。外務省はそう想定されることを警戒した。英国は日本がチベットに接近しようとする試みをことごとく妨害した。第三次隊野村栄三郎のカラコルムパス通過拒否(1910年1月)はその最もたるもである。そのため第三次隊はインドからではなく遠くロンドンから内陸アジア入りを目指し出発した。その隊員橘瑞超も新疆省で清国外務部の執拗な抗議を受けている。
 それでは何故このような情報記録がこれまで知られていなかったのか。外交上の最重要機密として厳重に秘匿されていたからである。そしてそれは国際政治状況が変化しても変わることはなかった。大谷探検隊の研究者といえどこのような外交記録があることなど想像すらできなかった。これが「忘れられた大谷探検隊」の最深の根拠でもあったのだ。本書では従来知られることのなかった大谷探検隊の調査活動の実態と、当時の国際政治社会の中に映った調査活動の様相があますところなく詳述されている。それが自ずから前著の疑問の解明ともなっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿