「謎解き『張作霖爆殺事件』」 加藤康夫 PHP新書 2011年
1928年(昭和3年)6月4日早朝奉天郊外、満鉄本線と京奉線が交差するクロス架橋下で張作霖が乗った特別列車が爆破された。張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。所謂「張作霖爆殺事件」である。当時は「満州某重大事件」として報道され、終戦まで内容は明らかにされなかった。近現代の研究書や教科書では、実行犯は関東軍の高級参謀河本大作大佐とその一味であり、関東軍謀略説がほぼ定着している。そしてこの事件の処理をめぐり、」食言問題」により田中義一内閣は倒壊する。大江志乃夫は張作霖爆殺事件と満州事変は一連の連続した過程であったという。「最大の原因は、天皇が張作霖事件の責任を田中首相に問うただけで、陸軍を免責したことにある。何をやっても、政府の責任が問われるだけで、陸軍の責任は問われることはない、という確信が陸軍をあげて次なる謀略に走らせた。」(「張作霖爆殺」中公新書1989年)としている。
然し近年真の実行犯は河本ではなく、コミンテルン(正確にはGRU ソ連軍参謀本部情報総局)
の工作員によって日本側がやったように巧妙に仕掛けられたという謀略説が登場した。世界的にベストセラーになったユン・チュアンの「マオ」上巻にほんの数行紹介されている。「張作霖爆殺は一般的に日本軍が実行したとされているがソ連情報機関の史料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。」(「マオ」上巻 講談社2005年)本書は「マオ」より先行してソ連謀略機関実行説を唱えたロシア人のドミトリー・プロホフの説を紹介している。「マオ」も基本的にはプロホフに依拠している。プロホフの「GRU帝国」によれば実行犯はフリストフォル・サルヌイニとナウム・エイティゴンの「グリーシカ」機関である。なんと12年後にトロッキーを暗殺を指揮することになるエイティゴンだ。エージェントはあらゆる手段をもって周辺の人物に信用を得、張作霖爆殺がいかに日本にとって軍事的・政治的に有利になるかを納得させた。河本大佐が心を許していた石炭商伊藤謙次郎、満州浪人安達隆成、奉天の遊郭経営者劉載明、料亭「みどり」に集う芸妓たちのだれかが「グリーシカ」機関の巧妙な工作を受けていた。また村岡関東軍司令官も周辺人物を洗われ、エージェントに接近されていた。
「河本首謀説」の弱点は①動機の薄弱さと②事故現場状況の絶対矛盾だと著者は説明する。日本国内で張作霖殺害の動機が論争になったことはほとんどない。政府(田中内閣)・陸軍中央はどちらかといえば張作霖利用派である。張作霖排除を考えていたのは河本ら関東軍の一部である。然し外には国民党をはじめ多くいた。とくにソ連(スターリン)は、1927年の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖をソ連の満州進出の最大の障害と考えていた。②については、事件現場を調査した関東軍参謀長斉藤恒や奉天領事林久次郎の報告書によれば、爆薬物の装置地点は明らかに橋脚上部か列車内だとしている。それは現場写真(本書P79)ともよく照合している。河本が主張するように、線路脇に200キロの爆薬を仕掛けたら、地面に大きな穴が空いて線路が破壊され、客車の脇腹が爆風で吹き飛び列車は転覆する。ところが現実はそうではなかった。これはとりもなおさずコミンテルン謀略説を補強する。
河本は事件後盲腸手術をするおり麻酔を使用せず手術をしたという。身辺に張り付いていた「グリーシカ」工作員の存在があったからこそ、麻酔をたってまで隠しとうさなければならない秘密があったと著者は推測する。このコミンテルン謀略説も、決定的な第一次史料が発見されていないという弱点はある。すべて状況証拠の積み重ね過ぎない。 事件の真相については「関東軍謀略説」「コミンテルン謀略説」いずれなのか、依然闇のままである。クレムリンからの新史料の出現はプーチン体制下では当分望むべくもない。然したとえ「コミンテルン謀略説」が立証されたとしても、さりとてその後の関東軍の行動が免責されるべくもない。
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