「馬仲英羈下の日本人」 中田吉信 白水社
ヘディン探検紀行全集12月報1979年所載
前稿で紹介した大西忠については、特務機関説と単なる冒険好きの日本人青年説がある。いずれとも決めがたいが、中田は興味深いエピソードを示している。
盛世才は「回想録」で「1930年8月、東京は馬のところに、密使としてタダシ オオニシを、『于華亭』という変名で、送り込んだ。于は馬に、新疆をとり、そこにイスラム教徒国家を建設することを奨め、日本が必要な武器や資金を供給するだろうと約束した」と述べている。然し盛は「カメレオン将軍」(ラティモア)と揶揄されたように、節操のない人間で、その回想録は自己弁明的で、信用するに足らない。「オオニシ タダシ」についても隠された事情があると中田は推測している。
盛世才時代の新疆研究者ワイティングは大西が「ひとりぼっちの冒険家であったにせよ、また満州の関東軍の特務機関の一人であったにせよ、プラウダは、彼によって、日本帝国主義についての解説に、挑発的な解釈を付することができた」のであり、特務機関員とする決め手は乏しいとしている。
盛は、于華亭が日本が馬仲英幸作に派遣した特務機関員であることをしきりに力説している。然し、外務省外交資料館所蔵の暗号電報ファイル(昭和8年11月20日発電、上海の有吉公使が天津に宛てた暗号電報29)によれば、于華亭すなわち大西なる人物は、昭和6年頃、楊虎城の部下、第14師長魯大昌の代表とともに天津から新疆に入った。潜入には天津駐屯軍の内密の援助があったらしいが、軍命によって潜入したのではなく、背後に複雑な事情があった。その事情について外交史料館所蔵ファイル文書(昭和8年10月21日付有吉公使から外務大臣宛「参謀本部派遣新疆視察、将校随伴ノ陶考潔ノ帰来談ニ関スル件」)から次のように推察される。すなわち「数年前天津ニ於イテ行先不明ヲ伝ヘラレ居タル陸軍将校某」こそ大西であり、共産党員か否かは疑わしいが、思想上の理由で、陸軍から逃亡したか、追放された。天津駐屯軍は、何らかの役に立つかもしれないと、内密に新疆入りに援助した。そしてその新疆入りに関与したのが、北京のイスラム教徒の川村狂堂である。川村は甘粛のジュヘリア派とも関係があり、川村の紹介状があればこそ馬仲英は大西を受け入れたのである。
その頃大西の他にも新疆を目指した日本人はいた。ヘディンが記述している「李教授」である。「小さな黒ひげ」の李教授は4人の学生とともに、1933年6月に北京を発ち、歩いて10月にハミまで来た。12月にトルファンに到着。その後ウルムチで逮捕され、学生の一人が射殺された。彼は「オオニシ」ではないが、特殊任務を与えられ潜行したのである。大西はウルムチ第5監獄で獄死したともいわれるが、その後の消息は不明。共産主義者であることを主張したとしても盛世才時代を生き延びることは不可能だったとは著者の弁である。彼らは何故新疆を目指したのか。それはアラシャンとオチナにおける航空基地の建設、更にシルクロードを越える日独航空路延伸のための寄港地確保であった。
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